第三章 原敬首相の信念---「秩序」の再生と漸進的改革
1918年9月27日、原は組閣の命を天皇から受け、初めての本格的政党内閣として政友会を与党とする内閣を組織した。当時の慣例に従い、陸・海軍大臣と外務大臣は政党員ではなかった。原は、強大化した米国を中心とする連合国側との協調を重んじた。むやみな大陸への出兵や進出には反対だった。 原は、第41議会に官立の高等教育機関の充実計画案を提出。1919年度から1924年度に亘る6か年計画で、帝国大学4学部、医科大学5校(新潟医大、岡山医大、千葉医大、金沢医大、長崎医大)、商科大学1校(後の一橋大学)、高等学校10校(弘前・松江・東京・大阪など)などを創設し、帝国大学6学部などを拡張する内容だった。専門学校だった慶応義塾大学・早稲田大学・明治大学・法政大学・中央大学・日本大学・国学院大学・同志社大学の大学昇格を積極的に認めた。これらは、第二次世界大戦後の高等教育の土台となった。 原は社会秩序の維持を重視し、第一次大戦以降に強まった普選運動や労働運動に対しては漸進的改革の立場から急進的なものに対しては強い姿勢で抑圧した。 1918年1月、米国大統領ウィルソンは14か条綱領を発表。その最後の14番目に政治的独立と領土保全を保障するための国際連盟の設立があった。 1918年11月11日、ドイツが降伏して4年3か月にわたった第一次世界大戦が終わった。戦闘員の死者850万人、負傷者2120万人、捕虜及び行方不明者770万人を出した。講和会議は、1919年1月18日から6月28日までパリで開催された。日本の方針は、赤道以北のドイツ領南洋諸島の割譲と中国山東省のドイツ権益の譲渡であった。中国は山東省権益は全て中国に返還するよう要求した。米国は中国に同情して支援したが、日本が条約に調印しないとの強硬な態度を示したため、ウィルソンは日本に譲歩した。 中国ではロシア革命の影響により、マルクス主義の洗礼を受けた学生・知識人による反植民地運動が広がり始めた。日本がドイツ権益を継承する報を聞き、憤慨した北京大学などの学生3000名が1919年5月4日に激しいデモを行なった。これが「五・四運動」の始まりである。 日本で普選を要求する政治運動の夜明けは日清戦争後の1897年(明治30年)に普通選挙期成同盟会が結成された時であるが、間もなく衰退していった。第一次世界大戦後の世界的なデモクラシーの潮流が日本にも押し寄せ、原内閣の最初の議会(第41議会)の間に普選運動は大衆運動として都市部で急速に盛り上がった。当時の選挙権は、1900年改正の選挙法に拠っており、直接国税10円以上を納める25歳以上の男子に限られていた。1919年2月11日に東京で初めての本格的な普選要求のデモが、早稲田大学の学生など3000名によって行なわれた。 1920年に入ると普選運動が更に活発になった。その頃原は、まだ普選に向けて進むべきでないと考えており、国会を解散して1919年に改正した選挙法(選挙資格を直接国税3円に引き下げた)の下で総選挙を行ない、政友会を衆議院の過半数政党にして権力基盤を固めようとした。1920年5月10日の総選挙で政友会は281議席(総議席数の60.6%)を取り、圧勝であった。この総選挙後、普選運動は1.5年余り沈滞する。 第一次世界大戦後、労働者の待遇改善を要求する大きな争議が流行した。その象徴が、神戸の川崎造船所の争議と、八幡市(現、北九州市)の官営八幡製鉄所の争議。川崎造船所では職工16000人がサボタージュに入り、会社が折れて実質8時間労働制となった。八幡製鉄所の争議では、数百名の警官・憲兵・守衛と衝突。八幡市内まで騒乱状態となった。原首相は、ストの中心となった組合を壊滅状態にして争議を終わらせると共に、12時間昼夜二交代制を8時間三交代制に変えさせ、月平均7円(現在の3.5万円程度に相当)の賃金を増額させて労働者の待遇を改善した。 1920年5月2日には日本で最初のメーデーが上野公園で行なわれた。1921年7月、神戸の三菱・川崎両造船所で激しい争議が起きた。団体交渉権を会社側に認めさせること、会社横断的に組織された労働組合への加入の自由を認める事、などを要求。姫路の第十師団から歩兵一個大隊が出動するまでになった。労働者側は敗北のまま争議を終結させた。1922年7月には、日本共産党が秘密裏に非合法に設立され、革命を目指した。 この頃から大企業では、会社側の委員と従業員の委員から成る工場委員会を作り、両者の意思疎通機関として活動するものも増えて行った。そして、共済組合・購買会・診療所・寄宿舎・社宅などの福利厚生施設が整備され、労働者は企業内に丸抱えされる形になっていった。1960年代から1990年代までの日本企業の主流となる日本型労使関係の原型ができた。 #
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| 2013-09-08 17:05
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表記の科学雑誌の記事を読んで、以下の事を知った。
高エネルギー加速器は一般に円周に沿って加速され、粒子は光速に近い速さで周回する。この時、何億周回にも及ぶ周回運動の安定性が問題となる。粒子の軌跡の半径は、ある周回で突然に変化を始め、急速に発散するような挙動となる。加速器の設計には、この不安定性を考慮しておかねばならないが、数値シミュレーションに拠るしかない。 米国で1993年に中止されたSSC(Superconducting Super Collider) 計画では、当時の計算機能力が不十分だったために不安定性を過小評価した結果となり、小口径の電磁石で設計を行なった。しかし、計算機能力の向上に伴ない、より大口径の電磁石が必要と分かり、建設予算が数倍に膨らみ、中止に至った。 CERN のLHC の設計では、SSC の経緯を反映して十分なビームの安定域を実現できた。 SSC が中止になったニュースは記憶している。しかし、その背景に計算機能力の不足があった事は知らなかった。 #
by utashima
| 2013-08-29 10:56
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第二章 第一次世界大戦と日本の跳躍
第二次大隈内閣が出来た1914年当時、日本経済は不況による税収の落ち込みと日露戦争での外債の重圧で破産寸前であった。1914年6月28日、オーストリア=ハンガリー帝国内のボスニアの中心都市サラエボで、同帝国の皇位継承者夫妻がセルビア王国の民族主義者に暗殺された。当時、ドイツはオーストリア=ハンガリー帝国及びイタリアと三国同盟を結んでいた。一方、イギリス、フランス、ロシアは三国協商を結んで、ドイツを包囲していた。7月28日、オーストリアがセルビアに宣戦布告し、戦火は欧州全体に広がった。戦争は予想に反して長期化し、4年3か月も続いた。戦闘員だけで双方合わせて3000万人が死傷した。 日本は、第一次世界大戦を「天佑」ととらえた。1914年8月7日、日本の同盟国イギリスは山東半島の膠州湾を根拠地とするドイツ艦隊を攻撃する助力を求めてきた。日本は、8月15日に参戦を正式に決め、8月23日にドイツに宣戦布告した。日本は、久留米の第18師団を主力とする約2.9万名で青島を攻撃する部隊を結成、約2800名の英国軍と協力して、青島のドイツ軍を11月7日に降伏させた。日本は山東半島を占領した。他方、日本の第1艦隊南遣支体は、太平洋のドイツ東洋艦隊を追撃、10月中に赤道以北のドイツ領南洋諸島を占領した。 その後、1917年2月に、英国の要請に応じて地中海に第二特務艦隊(巡洋艦1、駆逐艦8)を派遣、マルタ島を基地として連合国側の船舶をドイツの潜水艦(Uボート)から守った。 1915年1月、日本は中国の袁世凱政権に21か条の要求を提示した。現代の感覚からすると、非常に高圧的な要求であった。しかし、当時は帝国主義時代であり、国際法の保護を受けられるのは「文明国」のみとの暗黙の合意があった。中国は列強から「文明国」とみなされていなかった。このような当時の感覚からしても、ルールを無視した要求(第5号:中国を日本の保護国とするような内容)が21か条の要求には含まれていた。日本は第5号を秘密にしようとしたが中国は激怒して列強に第5号要求を暴露した。米国は当初は日本の要求に異を唱えなかったが、第5号を知って中国を擁護する。日英同盟を結んでいる英国でさえ日本に第5号を諦めるよう通告した。結局、1915年5月9日に第1号から第4号の要求を概ね中国に承諾させた。5月9日は、以後中国の反日運動を鼓舞する記念日となる。加藤高明外相の21か条を要求は、帝国主義時代の外交基準に照らしても稚拙なものだった。 これに対して、政友会総裁の原敬は、21か条要求は日中関係を悪化させ、列強の猜疑心を増大させたと批判している。また、原は、当時の日本人の間で一般的であった中国を一ランク下の国とみる風潮を戒め、東洋の平和を維持するには親善の道を図らねばならないと発言。英国は、その後、日英同盟を維持すべきか否か内部で検討を始め、1921年にワシントン会議で日英同盟の破棄が決定された。 1916年10月、寺内内閣が発足。寺内内閣は1917年から18年にかけて、中国の袁世凱の後の段祺瑞政権に、1億4500万円もの借款を供与した。これは1917年の日本の歳出額の約20%にもあたる大きな額である。その目的は、第一次世界大戦で獲得した膨大な外貨を財政難の段祺瑞政権に貸すことで日本が中国をコントロールしようというものだった。段政権はこの殆どを南方の反対派鎮圧等の政権維持に使った。そのため、借款の約83%が焦げ付きとなり、十数年後の満州事変に至る事になる。 大正天皇は1916年頃より健康状態が悪化、1921年11月25日、当時20歳だった皇太子・裕仁親王(後の昭和天皇)が摂政に就任した。 1917年3月12日、ロシアの首都ペトログラードで三月革命が発生、ニコライ二世は退位させられた。三月革命でできた政権も戦争を継続したので、レーニンらボルシェビキ勢力が労働者や農民の厭戦感情を利用して11月革命を起こし政権を握った。レーニン政権は11月、各国に対し全戦線の即時休戦と講和会議の即時開催を要望した。連合国側は1914年の単独不講和宣言に違反するとして反発。英国は南部ロシアの反革命勢力を援助する方針を決め、日本にシベリア方面でも革命に干渉する事を求めた。 英国の求めに積極的に応じたのは田中義一参謀次長だった。田中は、シベリアに出兵し極東に、ロシア革命や「独墺勢力」への緩衝国を作り、資源を獲得する事を主張した。本野外相もシベリア出兵に積極的に対応した。日本は1918年2月に、日本の出兵に向けての米、英、仏の合意を取り付けにかかったが、3月、米国のウィルソン大統領は日本の出兵を黙認する方針を撤回した。日本は出兵構想を一先ず放棄した。 1918年6月、チェコスロバキア兵救出問題が起きた。米国はチェコ軍団を救出すべきとして米軍7000名と同数の日本兵をウラジオストックに集結させる決定をする。日本は8月23日に第二師団(仙台)に、24日に第三師団(名古屋)に出動命令を発した。11月時点での出征部隊の人数は7万人を超えていた。同時期に出兵した米、英、仏等に比べて日本軍の数が突出していた。 [チェコスロバキア兵救出問題について](以下はリンク先の冒頭部) 1918年5月25日,シベリア鉄道によりロシア東端の海軍都市ヴラジヴォストークに向けて移送中であったチェコスロヴァキア軍団の一部が,彼らに対するボリシェヴィキ政府の対応に反発し,ウラル山脈南東部に位置する都市チェリャビンスク(話はそれるが、2013年2月に隕石が衝突した都市)にて蜂起して同市を占領するという事件が起こった。やがて彼らチェコスロヴァキア軍団の兵士たちは,8月までにヴォルガ川流域からヴラジヴォストークに至るシベリア鉄道沿線の主要都市を制圧し,ボリシェヴィキ政府に軍事的な圧力をかけるという前代未聞の事態を引き起こした。 第一次世界大戦中の好景気と急速な工業発展により、国内に激しいインフレが起きた。米価が特に高騰した。米屋や資産家を襲う一揆が全国に広がり、京都や名古屋では軍隊が出動して鎮圧した。寺内内閣は米騒動の責任を取って1918年9月に総辞職した。 #
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| 2013-08-24 14:29
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第一章 大正政変
明治天皇が満59歳で永眠した後、直ちに皇太子嘉仁(よしひと)が32歳で即位し、1912年7月30日から大正と改元された。明治天皇は、元来の保守的な考えを少しずつ改め、伊藤を理解し、藩閥内部の対立や藩閥と民党の対立を調整する能力を身につけ、立憲国家の発展に大きく貢献した。 新天皇の嘉仁は、幼児に脳膜炎・百日咳、13歳の頃にチフス、16歳の頃に結核性肋膜炎・肺炎などに罹り、成年の頃になっても学業が遅れていた。ドイツ人医師ベルツは、日本政府から求められて嘉仁を診察のため、1908年に再来日していた。 1911年秋に辛亥革命が始まり、翌年2月に清朝が滅亡。桂らが懸念したのはアメリカの動きだった。日露戦争の講和を斡旋した親日派のルーズベルト大統領は日本が移民を自主的に制限すれば、交換として日本の満州での優越権を認めて良いと考えていた。しかし、次のタフト大統領は満州への介入を強めてきた。 護憲運動は1913年2月にかけてピークとなる。護憲運動とは、藩閥勢力や官僚系勢力に対し、衆議院(国民を背景とした政党)の力を伸ばそうという運動である。2月9日の第3回憲政擁護大会は両国国技館に1万3000人以上の聴衆を集めた。そして数万の群衆が議会を包囲した。2月11日未明まで、警察署・交番や政府系の国民新聞社などを襲い、焼き打ちを行なった。2月11日、第三次桂内閣は組閣以来53日で辞職した。1912年12月の西園寺内閣の総辞職から桂内閣の総辞職までを「大正政変」という。桂は激しいストレスにより胃ガンに冒された。桂は1913年10月に65歳の生涯を終えた。 桂太郎は、1848年に長州藩士の子として生まれ、騎兵隊に参加、戊辰戦争にも従軍した。明治3年からドイツに3年間留学し、帰国後、山県のもとでドイツ式陸軍の建設に努めた。明治34年に念願の首相となった。日英同盟を結び日露戦争を指導し、戦勝の後、4年半務めた首相職を辞任。明治天皇の信頼も厚くなり、伊藤博文と並ぶまでになった。これまで桂は山県に従う子分とみられて評価は高くなかった。しかし、近年、桂などの残した史料に則して再評価が行なわれ、桂は、陸軍など山県系官僚閥の利害と異なっていることが明らかにされている。 #
by utashima
| 2013-08-02 10:52
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第6章 明治の日蝕
日露戦争中の明治38年7月、米国のタフト陸軍長官は桂首相と会談し、『桂・タフト覚書』を交わした。その中で桂は、日本はフィリピンに侵略的意図を持たない事を言明し、タフトは、日本が韓国に宗主権を設定し日本の承認なしに外国と条約を結べなくするのは日露戦争の論理的帰結であると言明した。ルーズベルト大統領は二人の了解に確認を与え、実際上公式のものとなった。 翌8月に第二回日英同盟が調印された。同盟の適用範囲が、第一回時の清韓両国からインドを含む東アジアに拡大された。今回は一国からの攻撃に対しても参戦が義務付けられた。日本は英国のインド支配を承認し、英国は日本が韓国に政事上、軍事上、経済上の卓絶なる利益を持つ事、つまり韓国の保護国化を認めた。 韓国の保護国化が国際的合意を得たと判断し、日本政府は明治38年11月に第二次日韓協約を締結し、韓国の外交に関する監理・指揮権を獲得した。日本は統監を漢城に派遣し外交を管理する事となった。明治38年12月、伊藤枢長が統監に任命された。列国は明治39年2月までに漢城の公使館を閉鎖し、日本の措置を容認した。 小村外相は清に出向き、ロシアから委譲された権益の継承を清に確認させ、遼東半島の租借権と南満州鉄道の経営権を継承した。清は他に長春、ハルビン等16市の開放を約束した。これらの内容の日清協約が明治38年12月22日に調印された。 明治38年8月、米国の鉄道王ハリマンが来日し、南満州鉄道の日米共同管理を打診してきた。井上馨はそれに賛同し、桂も受け入れたが、ポーツマス会議を終えて帰国した小村は反撥した。南満州への足掛かりを米国資本に明け渡すことになると。日本はハリマンの提案を拒否した。小村の反撥への評価には、英断だというものと、歴史的愚挙だというものの2つがある。後者は、この時に米国を満州に引き込んでおけば満州を巡る日米対立も無く、後の日米戦争も無かったかも知れないとの考えである。しかし、満州への米国の参入は、日米衝突を早めた可能性も大きい。 明治39年11月、南満州鉄道株式会社が半官半民で設立された。その後の明治42年12月、米国は満州全域の鉄道を列国共同事業として国際化(満州鉄道の中立化)を申し入れてきた。日露を牽制する清の思惑もあった。しかし、日露は拒否回答を行なった。 明治38年12月に桂首相は、西園寺政友会総裁に政権を禅譲するとして辞表を提出した。翌1月に第一次西園寺内閣が誕生した。明治39年3月、政府は鉄道国有化法案を提出、成立した。明治40年11月から全国統一運賃制が導入された。 ロシアの与国であるフランスも対日接近を図り、明治40年6月に日仏協約が調印された。この協約は、両国が清国周辺に持つ勢力圏を認め合うものであった。日仏協約の成立を受けて、日露協商の交渉も加速し、7月に調印された。秘密協約では、満州を二分し、南満州は日本の、北満州はロシアの勢力圏と定めた。 一方日米間では邦人移民に対する差別問題が持ち上がっていた。米国は日本人移民の来往を「破壊的労働競争」と捉えて移民の制限を求め、明治41年2月に紳士協定が交わされた。日本は、移住目的外の旅行者、実業家、官吏、学生を除き、米国への旅券発給を自主的に停止した。 日露戦争までの日本の戦略は守勢戦略と規定していた。しかし、明治39年2月に裁可された参謀本部の「明治39年作戦計画」は、本土の防衛から海外の権益の擁護へと変わった。兵力は、明治40年度から19個師団体制の整備に着手し、海軍は2万トン級戦艦8隻と1.8万トン級装甲巡洋艦8隻を基幹とするとされた。「八・八艦隊」構想の原型である。 韓国皇帝の高宗は水面下で日本に対して抵抗を続けた。明治40年6月の第二回万国平和会議に、高宗は密使を送り、列国に日本の侵略の不当と独立の回復を訴えた。しかし、列強間では韓国は日本の勢力圏との合意ができており、会議議長(ロシア全権委員)は韓国には参加資格がないとして拒絶した。これを「ハーグ密使事件」という。日本は高宗を退位させた。7月に第三次日韓協約を締結し、韓国の保護国化をほぼ完成させた。 明治41年10月、世界周遊航海中のアメリカ艦隊が横浜に来航。周遊計画はアメリカが海軍力を全地球的に展開し得る事の顕示にあった。西園寺内閣は進んでアメリカ艦隊を招待した。日露戦争後、米海軍で日本脅威論が浮上、米領フィリピンの確保のため西太平洋に侵攻して日本海軍を撃破する「オレンジ計画」の研究が明治40年から始まっていた。日本政府は、11月にワシントンで「太平洋方面に関する日米交換公文」を交わした。この協定では、太平洋の現状維持(フィリピンが米国の勢力圏である事)と清国での商工業の機会均等を約した。米国が清国市場で列強並みの利益を追求しようとしていることが浮かび上がった。 明治42年10月26日、ロシア蔵相との非公式会談のために満州を訪れた伊藤は、ハルビン駅頭で安重根に狙撃され死亡した。明治43年8月、日韓併合条約が調印された。韓国は「朝鮮」と改称された。韓国を保護国ではなく領土としたことは、緩衝地帯の消失を意味し、日本は満州・ロシアと直に境界を接する事になる。 明治44年2月、新しい日米通商航海条約が調印され、日本は関税自主権を回復した。英国も4月に新条約に調印し、他の列国も追随した。不羈独立を脅かすものとして伊藤が挙げていた朝鮮問題と条約問題は、全て解決した。 英国から日英同盟改定の申し入れがあり、明治43年9月から交渉が続けられ、明治44年7月に第三回日英同盟協約が調印された。その中で一般的な表現で英国の米国への参戦義務を除いた。英国は予想される日米対立を見越して米国との対立を避けたのである。 明治天皇は明治37年末から糖尿病を患い、39年1月には慢性腎炎を併発、これが持病となっていた。日露戦争時の過労が健康を蝕んだと言われている。明治45年7月29日午後10時43分、明治は終わった。満59歳9か月弱であった。死因は尿毒症であった。 天皇の崩御は国民に深い喪失感をもたらした。夏目漱石は『こころ』の中で、時代の精神が天皇の崩御と共に失われたような気がすると語らせた。 遠くドイツで天皇の訃を聞いたベルツ(以下の注を参照)は、明治天皇は世界歴史の最も注目すべき人物の一人と指摘し、明治天皇は明治維新という大変革の成功のシンボルであり、日本という国と大和民族の連続性と一体性を体現していると言う。 [ベルツ] エルヴィン・フォン・ベルツ(1849年1月13日 - 1913年8月31日)は、ドイツ帝国の医師で、明治時代に日本に招かれたお雇い外国人のひとり。27年にわたって医学を教え、医学界の発展に尽くした。滞日は29年に及ぶ。 #
by utashima
| 2013-07-22 21:17
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