人気ブログランキング | 話題のタグを見る

『フェルマーの最終定理』(新潮文庫)

 『フェルマーの最終定理』(新潮文庫)を読んだ。500頁近い厚い本であるが、約1週間で読み終えた。私は、毎日少しずつ読むのが好みであるが、内容が面白いので、私にしてはハイペースで読んだ。

 1994年(論文として出版されたのは1995年)に「フェルマーの最終定理」を証明したアンドリュー・ワイルズが主人公である。ワイルズは、10歳の頃、E.T.ベル著の『最後の問題』を読み、そこに「フェルマーの最終定理」を見つけ、虜になったようだ。E.T.ベルという名前に、見覚えがあった。私の書斎の書棚を振り返ってみると、E.T.ベル著『数学を作った人々Ⅰ、Ⅱ、Ⅲ』(ハヤカワ文庫)の三分冊があった。1937年に初版が出ている。タイトルが大きく異なるので、この本は、10歳のワイルズが読んだものとは異なると思われるが、感慨深い。

 フェルマーがこの問題を提示するきっかけになったピタゴラスの定理を証明したピタゴラスの頃まで遡って、数学の証明についての歴史が述べられている。沢山の数学者が登場するが、その中で最も心を動かされたのが、ガロアについての記述。ガロアは代数方程式の解に関する論文を書き、新しい数学「群論」の扉を開けた人である。彼は、若くして決闘に敗れて一生を終えた事は、幾つかの本で知っていた。標記の本には、彼の置かれていた境遇が詳しく書かれており、同情を禁じえない思い。フランス革命後の王政主義と共和制主義の間の政治闘争の犠牲者であった。また、フランスの学士院に提出すべく書記を務めていたフーリエに提出した論文が、フーリエの死亡により学士院に受理されていなかった等の不運も幾つか重なった。

 ガロアの話が出てきたのは、ワイルズが「フェルマーの最終定理」を証明する時に、ガロア群も利用していたからである。ワイルズは、1986年から本格的に「フェルマーの最終定理」の証明に取り掛かった。7年後の1993年6月にそれを証明した事を発表した。この7年間、自分が「フェルマーの最終定理」に挑戦している事は、秘密にしてきた。発表後、証明に欠陥がある事が判明。この頃の事は、私も新聞などのニュースで知っていた。それから1年余り、証明の欠陥を修復しようと苦しい日々が続く。そこまでの証明を公開して修復を誰かに託す事はせず、あくまで自分で解決したいと頑張る。1994年夏になっても解決の目処がたたない。ワイルズは、9月末まで頑張ってもダメな時は、そこまでの証明を公開する決心をする。

 その決心の後、ワイルズは、閃きを得た。1993年発表の証明で使用した方法 (A) は、別の方法 (B) が使えないと判断して使用していた。ところが、欠陥は、その(A) の適用にあった。(A) と (B) の単独での適用はダメだが、両者を組み合わせると、欠陥がなくせるという事だったらしい。この閃きにより、「フェルマーの最終定理」は、完全に証明され、本当の定理になった。

 この閃きの部分を読んだ時、以下のように感じた。「9月を過ぎれば、欠陥を修復しなければならないという重圧から解放される」という思いが、それまで見過ごしていた分岐へ導いたのではないか。私にも、ちょっと似た経験がある。学位論文の最後の詰をしていた1999年秋。どうしても巧く行かず、学位取得を諦めた。指導して頂いていた宇宙研の川口教授にメールして、問題を解決できなかった事をお詫びした。学位論文のテーマにしようとしていた或る軌道の不安定現象は、1992年に見つけていた。この問題をいつも考えていた訳ではないが、7年間、ずっと頭の片隅にあった。川口教授にメールを出す事で、肩の荷が下りた気がした。目的は達成できなかったが、取り敢えず重圧からは解放されると。メールを出した当日か翌日かは覚えていないが、それまで不安定と思い込んでいた条件で、PC に軌道計算をさせた。何も目的は無かった。不安定なためにどこかに飛んで行くと思っていたが、何と安定な軌道であった。この計算がきっかけとなって、この不安定現象の解明が出来、学位を頂けた。あの時、学位を諦めるメールを送っていなければ、その不安定現象を解明できたかどうか。

 ワイルズが1986年から本格的に証明に取り掛かった動機は、その年に、ケン・リベットの証明により、「谷山・志村予想」が解ければ「フェルマーの最終定理」が解けた事になる事が判ったからであった。「谷山・志村予想」を考えた一人の谷山豊氏は、婚約後に自らの命を絶っていた。1958年(31歳)の事であった。その数週間後、婚約者も後を追った。
by utashima | 2007-09-15 18:25 | 読書 | Trackback | Comments(0)


<< 思い通りの1局 PTP対応カメラ >>