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JPL に滞在した20年前の日記を読み返した(5)

 1987年2月頃~7月頃の研究以外の JPL での活動について記す。

 1987年2月4日22時30分(ロサンゼルス時間)に、宇宙研の衛星 ASTRO-C が予定通りに内之浦から打ち上げられた。私も、午後8時に JPL に出勤し、JPL の支援活動に参加した。私の区画のある BLDG 301 とは別の建物に大きなスクリーンなどを備えた管制室があるが、このような支援作業は、BLDG 301 の地下1階の小さい角部屋と廊下を使って行なわれる事が多かった。ちょっと驚いた。

 2月24日は、NASA の静止気象衛星 GOES-H が打ち上げられる予定だった。2回延期されて、2月26日15時05分(ロサンゼルス時間)に打ち上げられた。20時30分頃、支援作業の責任者の Efron 氏が、ドップラー・データを見せてくれた。振幅が 3mm/s 程度のサイン・カーブが続き、時々 5mm/s 程度のジャンプがある。Efron 氏達は、上記のドップラー・データの変動が何を示しているか、すぐには判らないように見受けた。JPL が運用する DSN (Deep Space Network) に、GSFC (Goddard Space Flight Center) の地上局網 STDN (Spacecraft Tracking and Data Network) が統合されてから、余り年数が経っていない時期であり、Hughes 社 (現在は Boeing 社) の静止衛星の打上げ支援作業の経験がなかったのかも知れない。私は、「サイン・カーブは衛星のニューテーションによるもので、小さいジャンプは ANC (Active Nutation Control) によるものではないか。」と述べた。Efron 氏は電話で問い合わせて、それを確認してくれた。GOES-H は、日本の静止気象衛星ひまわり (GMSシリーズ) と同様に Hughes 社の衛星であり、GMS を担当していた私には、馴染みのある衛星だったので、容易に推定できた。
 1981年8月に打ち上げられた静止気象衛星2号機 (GMS-2) が、トランスファ軌道からドリフト軌道への軌道変換である AMF (Apogee Motor Firing) を行なった時のドップラー・データを解析した事がある(*)。その頃の日本のドップラー・データのランダム・ノイズは、100mm/s 前後の値であった。JPL のドップラー・データの精度は、当時の日本より100 倍も高精度であった。現在の JAXA のドップラー・データの精度をネットでざっと調べてみると、もうすぐ打ち上げられる Selene 月観測機の母衛星と新GN 局の間で約 2mm/s 、口径64m の臼田局と子衛星の間で 0.2mm/s という誤差であった。日米の差は殆どなくなっているのかも知れない。

(*)広田、歌島、"ドップラ・データによるアポジモータ燃焼中の速度ベクトル等の推定と評価," 宇宙開発事業団技術報告 TR-13, 1982年8月.

 GOES-H は第2アポジ点で AMF を行ない、ドリフト軌道に入った。Apogee Motor 噴射中の温度に異常があり、ちょっと心配したが、AMF 後の軌道要素は正常だった。

 3月16日の事。宇宙研の Planet-A (ハレー彗星探査機) のレンジングをしようとして、できない事があった。JPL の人が宇宙研に電話をしたが、日本は深夜のため連絡できず。臼田局なら人がいるだろうという事で、私が通訳を兼ねて電話した事があった。

 NASDA が JPL に支援を依頼している静止衛星 ETS-V や静止通信衛星 CS-3 の打上げ時の運用に関して、JPL 内の会議や、筑波との Tele-Conference 等に何度か出席した。ETS-V は8月20日打上げの予定だった。6月11日~16日までは、NASDA の追跡部門と JPL との定例の会議 NOWG (Network Operation Working Group) meeting が開催され、NASDA から 2名が JPL に来られ、私も出席した。

 (その6) に続く。
by utashima | 2007-07-21 22:30 | イベント | Trackback | Comments(0)


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