『歌島地名考』 歌島郷土研究会 編集(1984年11月20日発行)

 標記の資料を入手した。先日、尾道に住む両親に手紙を送り、両親が把握している親戚関係の系譜を書いて送って欲しいと依頼した。我が家の墓のある曹洞宗西金寺にも出向いて確認して送ってくれた。少し前に私の知らない親戚の方からメールを戴いた事がきっかけで、親が元気な内に情報を貰っておこうと考えた。その時、標記の資料と、『歌島地名あれこれ』という同じ歌島郷土研究会編集の資料も郵送してくれた。後者の資料については、まだ読んでいないので、近いうちに別の記事として投稿する予定である。

 向島(むかいしま)をご存知ない方のために、以下に、向島を中心に置いた地図を示した。317号線の表示のある島である。本州との間の狭い海を尾道水道と呼んでいる。私は、東隣りの福山市にある中学と高校に計6年間、電車通学したが、帰路の電車の中から、尾道水道の向こうに沈む夕日を眺めるのが好きだった。
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 向島は、東側の1/3程度を占める向東町と、その他の向島町とから成っている。標記の資料も、向島町の部と向東町の部とから成っている。10世紀頃の文献から、向島が「歌島」と呼ばれていた事が判ると書いてある。現在でも、向東町の歌、向島町の小歌島、向島町歌島地区として、「歌島」が残っている。なお、私の家系を初め、歌島姓の多くは、向東町の歌が出所である。上の地図では、向島の東の端の海岸の地区である。そこに、上記の西金寺もある。

 木曾義仲の遺児木曾義重が向島に落ちのびて来て、その関連の地名も残っている。私は向東町に、高校卒業までの18年間住んでいたが、この資料の向東町の部の色々な地区の地名を見ても、知らない名前が多い事に驚いている。向東町で遊び回ったのは小学生時代の6年間だけなので、仕方ない事だろう。その後の6年間は、福山との往復に費やされた。従って、この資料に書かれている色々な地名の由来などの記述は、今の私には余り関心を持てなかった。でも中に沢山の古い写真が掲載されており、私が良く知っている場所の何十年も前の写真もある。子供の頃に家族で登った岩屋山(この資料を読むまで「岩山」と思っていた。子供の頃には音だけで地名を聞いており、こんな事が時々ある)。その時に撮影した姉とのツーショット。実は、この写真しか記憶にないが。私の通った向東小学校の昭和3年の写真など。それらを眺めていると、子供の頃に戻るような懐かしい感じがする。

 標記の資料から離れるが、最近、尾道に住む兄から新聞の切り抜きが送られて来た。今年の7月29日付けの中国新聞。私の住んでいた家と入り川を挟んだ向い側に赤レンガ造りの古い紡績工場が今でもある。戦争中は、そこに米英の捕虜216人が収容されていたとの事。そこから、向島の日立造船に通い、労働に従事させられたそうだ。今まで知らなかった。栄養も不十分だったと思われ、英国兵23名が収容所で死亡している。
by utashima | 2005-09-02 19:05 | 歌島姓・尾道 | Trackback | Comments(0)
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