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『戦後と高度成長の終焉(日本の歴史24)』(河野康子著)の第4章

第四章 政党再編への胎動---1972年~1993年

 1955年頃から始まった高度成長は、1970年代初頭に終わった。この間、日本経済は年率平均10%台の成長を遂げ、所得の平等化が進み、人々の間に中流意識が浸透した。1974年に実質GNP成長率が-0.5%となり(第一次石油危機の影響)、1973年~1990年にかけての年平均成長率は約4%になった。10%成長の時代は終わった。
 こちらのサイトからの経済成長率グラフを以下に掲載する。
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 高度成長の終焉の要因として、吉川洋氏は人口の大量移動現象を挙げている。農村から都市への人口の大量流入が消費を押し上げて成長の要因となり、1970年代に入って都市への人口流入が終わり、成長率が低下した、という見方である。
 1973年・1978~1979年の二度の石油危機を経て、1980年代に入り、日本経済の対外環境は大きく変わった。固定相場制から変動相場制に変わり、1995年4月には瞬間的に1ドル79円台をピークとする円高に見舞われ、円の価値は一時的に約3倍まで上昇。株価は1989年12月に3万8915円のピークを記録したが、1990年10月には2万円を割る事態となった。バブルの崩壊である。

 第一次田中内閣期の1973年度予算は、超大型予算となった。列島改造予算として公共事業関係で+32%、社会保障関係で+29%。1974年の自民党大会は「福祉国家建設」を掲げた。

 対中国外交で成果を挙げた田中首相は、1974年1月の東南アジア歴訪で、対日感情の悪化を身を持って認識させられた。バンコク、ジャカルタで田中首相は反日デモに取り巻かれた。要因は、1970年代に入り急激に拡大した日本企業の進出であった。タイ・インドネシアなど各地で、氾濫する日本製品のボイコットが広がっていた。
 1975年4月、南ベトナムのサイゴンが陥落し、南北ベトナムが統一され、ベトナム戦争が終結した。1977年8月、マニラで福田首相が提唱した「福田ドクトリン(マニラ・ドクトリン)」は、嚆矢であった。「福田ドクトリン」は、以下の内容であった。

  ①軍事大国とならず世界の平和と繁栄に貢献する。
  ②心と心の触れあう信頼関係を構築する。
  ③対等な立場で東南アジア諸国の平和と繁栄に寄与する。

 1971年8月のニクソンによる金・ドル交換停止宣言の後、12月にワシントンのスミソニアン博物館で、主要国蔵相会議・中央銀行総裁会議が開かれ、通貨交換レートの調整が行なわれ、2.25%の幅で固定相場制を維持する事が決められた。この時、円・ドル交換レートは、1ドル360円から308円に大幅に切り上げられた。しかし、この調整は安定せず、1973年2月に変動相場制に移行した。この状態が現在まで続いている。

 ベトナム統一の3年後の1978年、ソ連とベトナムの間に友好協力条約が結ばれた。ソ連のベトナム支援が、カンボジア問題に影を落とす。カンボジアは1976年4月にポル・ポト首相が就任。中国はポル・ポト政権を支援した。1978年12月にヘン・サムリン救国民族統一戦線がポル・ポト政権打倒を掲げて発足。これをベトナムが支援した。1978年12月から翌年1月にかけて、ベトナムがカンボジアに侵攻した。そして1979年1月にソ連とベトナムの支援の下、カンボジア人民共和国が成立した。これに対して、中国は同年2月にベトナムに侵攻、中越戦争となった。カンボジアは、この時期から1991年まで内戦状態となる。
 他方、1979年のソ連によるアフガニスタン侵攻は、1989年のソ連軍撤退まで10年間のソ連によるアフガニスタン支配をもたらした。

 ソ連の指導者にゴルバチョフが登場し、アフガニスタン撤退から半年後の1989年10月、東ベルリンでの演説で東欧政策(ブレジネフ・ドクトリン)の画期的な転換を表明した。翌11月、ベルリンの壁が崩壊し、12月にはマルタ島でブッシュ米大統領とゴルバチョフ議長との首脳会談が行なわれ、冷戦は終焉することになった。

 1988年12月の国会で消費税関連法案が成立し、1989年4月から3%の消費税が実施された。
 1993年の総選挙で自民党が過半数を割り、非自民八党派による連立政権(細川護煕を首班)が発足、1955年以来38年間続いた自民党の長期政権が終わった。
by utashima | 2014-03-01 11:17 | 読書2 | Trackback | Comments(0)


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