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『帝国の昭和(日本の歴史23)』(有馬 学著)の第6章

第6章 総力戦の諸相

 第二次近衛内閣(1940年7月~1941年7月)が当初に行なった外交上重要な決定は、1940年7月27日の大本営政府連絡会議で決定された「世界情勢の推移に伴う時局処理要綱」と、9月27日に調印された日独伊三国軍事同盟である。この前者の中で、「南進」が登場する。南進とは、ドイツの勝利で宗主国を失った形の旧フランス領インドシナ(仏印、ベトナム・ラオス・カンボジアを合わせた領域に相当)や旧オランダ領インドシナ(蘭印、1949年にインドネシア共和国として独立)に対しての進出である。南進は日米関係に緊張をもたらすため、海軍は慎重であった。陸軍も南進に関して意見がまとまっていた訳ではなかった。1940年6月に、蒋介石政権支援ルートの停止状況監視のために陸軍の機関がハノイに派遣されていた。部隊の進駐は9月23日に行なわれたが、その過程で事前の了解を破って出先軍部が武力行使を行なった。米国は9月26日に屑鉄の全面禁輸という報復措置を取り、日米関係は険悪化した。
 日ソ関係は、松岡が1941年3月からモスクワに出向いて交渉し、4月13日に日ソ中立条約を成立させた。

 1941年の日本外交の主題は日米交渉となった。近衛と松岡の間で対米交渉の考えが異なり、近衛は総辞職した後、外相を松岡から豊田貞次郎に替えて第三次近衛内閣を作った。近衛は日米交渉を何とか成立させようと考えていた。

 1941年7月28日、日本は南部仏印進駐を実行、米国は7月25日に在米日本資産凍結、8月1日に石油を含む対日全面禁輸という報復措置をとった。日本側はこのような強硬措置を予想していなかった。日本は9月6日の御前会議で、「帝国国策遂行要領」を決定。これは外交交渉の期限を10月上旬とし、10月下旬に戦争準備を完成させるというものだった。近衛は10月16日に総辞職する。

 後継首相は東条英機に大命が降下した。東条は9月6日の御前会議決定の再検討に入った。戦争決意の下に作戦準備と外交を併行、武力発動を12月初頭とし対米交渉が12月1日午前0時までに成立したら武力発動を中止するとした。米国からの回答は11月26日に日本側に手交された。所謂ハル・ノートであり、中国・仏印からの全面撤兵、三国同盟の否認などから成っていた。米側は前日に、ルーズベルト、ハル、陸海軍首脳の間で、日本に最初の一撃を撃たせることを確認していた。

 対米英蘭開戦は、1941年12月8日、南方軍のコタバル(マレー半島)上陸と、真珠湾奇襲攻撃によって始まった。真珠湾攻撃では、第一航空艦隊の艦載機は停泊中の戦艦6隻を全て撃沈した。10日には海軍の基地航空機がマレー沖を航行中の英国極東艦隊の主力、プリンス・オブ・ウェールズとレパルスの2隻を撃沈した。南方軍は1942年1月2日にマニラを占領、2月15日にシンガポールを陥落させ、3月8日にビルマの首都ラングーンを占領、3月9日にはバンドンを占領した。こうして5月上旬までにはほぼ当初の目的通り南方諸地域の占領が完了した。日本は占領諸地域をどうしようと計画していたのだろうか。

 1941年12月12日の閣議で、この戦争を「大東亜戦争」と称する事を決め、戦争目的を「大東亜共栄圏確立」とした。参謀本部は1941年2月から占領地行政の研究を行なっていた。ビルマとフィリピンの独立承認を考えていたが、開戦前には具体的な方針は確定していなかった。開戦後の1942年1月の79議会において東条首相は、ビルマとフィリピンに独立を与える方針を示した。マレー、シンガポールなどは、日本の領土化または保護領化が検討された。

 1943年11月5、6日、東京で開催された大東亜会議において、大東亜共同宣言が調印・発表された。調印したのは、中華民国(南京政府:1940年に重慶の蒋介石政権に対抗して汪兆銘が南京に立てた政権)行政院長の汪兆銘、タイのワン・ワイタヤコーン親王、満州国の張景恵国務総理、フィリピンのラウレル大統領、ビルマのバー・モウ首相、である。日本はこの年にビルマとフィリピンの独立を承認した。10月30日には汪兆銘と日華同盟条約を締結し付属議定書で戦争状態終了後の撤兵を約した。なお、9月30日の御前会議で「今後採るべき戦争指導大綱」を決定し、絶対国防圏を「千島、小笠原、内南洋及び西部ニューギニア、スンダ、ビルマを含む地域」に後退させた。
 大東亜共同宣言では、大東亜戦争の原因を米英の飽くなき侵略搾取と規定、大東亜を米英の桎梏(しっこく)より開放する事を戦争目的とした。大東亜会議と共同宣言は、4月に外相に就任した重光葵の新政策の一環であった。

 独裁政権に見えた東条内閣期にも複雑で激しい政治力学が存在した事は、伊藤隆氏によって初めて明らかにされた。東条内閣期における反東条勢力の中核は、近衛文麿であった。当初近衛は「革新」派のシンボル的存在だったが、大政翼賛会を巡る論戦の中で怪しくなり、対米英開戦後は明確に反「革新」派としての立場をとった。この近衛の転向について、巧く説明するのは困難である。真崎甚三郎を中心とする陸軍皇道派が反東条で動いた。反東条派は戦争の早期終結を政治目標としていた。近衛が最も早く、徹底した和平派になった。反東条派の多くが依然として名誉ある和平を考えていた1944年半ばの段階で、近衛は即時和平論者だった。現実には東条内閣が崩壊しても、反東条派が構想した政権は実現しなかった。その第一の理由は、天皇に皇道派に対する信頼がなかった事であろう。彼らの真意が天皇に伝わっていなかったと解釈するしかない。

 近衛は、1945年2月14日に天皇に拝謁した時、上奏文を伝えた。「近衛上奏文」と呼ばれている。その冒頭で、「敗戦は遺憾ながら最早必至なりと存候」と、敗戦の見通しを単刀直入に表現した。上奏文は、1日も速に戦争終結の方途を講ずべしと主張する。しかし、軍部内の一味(革新派)を一掃せずに和平に着手するは、国内の混乱を惹起する。よって、その一味の一掃が肝要。それが可能なのは皇道派であり、皇道派を起用して政局を運営できるのは近衛である、と言外に主張する。

 時計の針を少し戻す。緒戦の勝利が一段落した後の戦争指導方針は明確ではなかった。1942年3月7日の大本営政府連絡会議で決定された「大綱」では、長期不敗の政戦態勢を整えるという陸軍の主張と、機を見て積極的方策を講ずという海軍の主張を足したものだった。「積極的方策」として山本五十六大将が計画したのが、ミッドウェー海戦である。ミッドウェー島を攻撃して米艦隊を引き出し、打撃を与えようというもの。6月5日に展開された空母戦は、暗号を解読して待ち受けていた米艦隊の勝利に終わり、日本海軍は主力空母4隻を全て失った。太平洋における戦局の最大の転換点となった。

 米国の本格的反攻は1942年8月に開始された。ソロモン群島の要衝を攻撃し、日本海軍最大の航空基地であるラバウルの攻略を目指すもの。ラバウルが失陥すれば、太平洋の日本の艦隊根拠地であるトラック島が空襲にさらされる。米軍の攻撃は日本が飛行場を建設していたガダルカナル島に向けられた。1943年2月初め、大本営は「転進」と称してガダルカナルから撤退した。1943年4月18日、連合艦隊司令長官の山本五十六の搭乗機がブーゲンビル島上空で撃墜された。事前に暗号を解読されていたためという。

 1943年は世界的にも戦局の転換点であった。2月にスターリングラード攻防戦でドイツ軍が降伏、7月には連合軍がシチリア島に上陸しムッソリーニは政権から追われた。11月22日からルーズベルト、チャーチル、蒋介石が参加したカイロ会談が行なわれ、台湾・満州の返還、朝鮮独立などを含む対日戦後処理方針が決められた。11月28日からルーズベルト、チャーチル、スターリンの間で行なわれたテヘラン会談では、ドイツ降伏後のソ連の対日参戦が約束された。

 米軍の次の攻勢は、マリアナ諸島に向けられた。サイパン、テニアン、グアムなどが米軍の手に落ちると日本本土の殆どがB29による爆撃圏内に入る。1944年6月15日、米軍はサイパンに上陸を開始。19日にマリアナ沖海戦が行なわれたが、日本は惨憺たる敗北を喫した。

 サイパンの失陥により、東条も退陣を余儀なくされた。次期内閣は小磯国昭が奏請された。小磯内閣のもとで「天王山」と呼号されたのがレイテ決戦だった。10月20日、米軍はフィリピンのレイテ島に上陸を開始。連合艦隊は総力を結集して最後の決戦を挑んだ。囮(おとり)となった部隊が米機動部隊を誘出する事に成功したが、後年謎とされたように、栗田健男中将の指揮する主力艦隊は何故かレイテ湾に突入せずに反転し、作戦は失敗に終わった。このレイテ沖海戦で連合艦隊は主力艦船を失い、以後組織的な作戦が不可能となった。この時、神風特別攻撃隊により特攻攻撃が初めて行なわれた。

 1944年9月5日の最高戦争指導会議にて、杉山元陸相が独ソ和平工作、対重慶和平工作、対英米和平工作について発言しているが、小磯内閣の外交は一元化されていなかった。1945年2月19日には硫黄島に米軍が上陸。3月以降、サイパンを基地とするB29の本土爆撃は激しさを増した。3月9日から翌日未明にかけての約300機による東京大空襲では約23万戸が焼失した。2月に、異例の措置として天皇が個別に重臣を招いて意見聴取が行なわれた。近衛の奏上は、その一つであった。4月1日、米軍は沖縄本島に上陸を開始。陸海軍機による特攻攻撃が繰り返され、連合艦隊も戦艦大和を中心とする特攻艦隊を出撃させ、大和は4月7日に撃沈される。4月5日にソ連のモロトフ外相が日ソ中立条約(1946年4月が期限)を延長しない事を通告、小磯は内閣総辞職を行なった。

 後継首相奏請のための重臣会議は、海軍の鈴木貫太郎を選んだ。日本は対ソ特使として近衛を派遣する事をモロトフ外相に伝えたが、モロトフはスターリンに随行してポツダムに向かった。7月26日にポツダム宣言が発表された。この10日前に米国は原爆実験に成功していた。ソ連の回答を待っていた鈴木内閣は、ポツダム宣言を黙殺するとの声明を発表したが、8月6日に広島に、8月9日に長崎に原子爆弾が投下され、8月8日にはソ連は対日宣戦を布告した。

 8月9日に最高戦争指導会議が開かれ、ポツダム宣言受諾では大筋合意を見たが、天皇制の存続、自発的な武装解除、連合軍の本土進駐の回避、戦犯の自主的処罰の4条件を付する問題で紛糾。翌未明になって、鈴木は天皇の決断を仰ぎ、天皇は外務大臣の案(皇室の安泰のみを条件として受諾する)に同意する旨の発言を行なって決着した。
by utashima | 2014-01-13 18:47 | 読書2 | Trackback | Comments(0)


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