『帝国の昭和(日本の歴史23)』(有馬 学著)の第5章

第五章 革新の光明?

 1936年の二・二六事件後の首相選定において、西園寺はかねてから期待していた近衛文麿を推薦するが、近衛は辞退。陸軍も近衛に期待していた。近衛の辞退理由の一つは、軍の派閥統制に自信がなかった事という。大命は広田弘毅に下った。広田は吉田茂を組閣参謀として組閣にあたったが、陸軍による組閣干渉が行なわれた。直接的な政治への口出しとしては最初である。陸軍は吉田茂(自由主義者)、下村宏らの入閣を阻止した。馬場鍈一は軍部に売り込んで大蔵大臣になったという評がもっぱらであった。馬場は、増税や公債発行によって大幅な軍拡を呑み込んだ大規模予算(前年比26%増)とした。国際収支が一気に悪化し、政府は輸入為替管理によって直接統制に踏み切った。「準戦時」統制経済の始まりである。1936年11月に日独防共協定が調印された。コミンテルン(1919年から1943年まで存在した、共産主義政党による国際組織)の脅威に共同して対抗する事をうたった。日独双方とも将来は英国も参加させることを考えていた。

 農本主義者で農業指導者だった加藤完治は、1927年に茨城県内原に日本国民高等学校を開校し、校長として農業移民を推進していた。満州事変により年来の主張を実現する好機を得た加藤は、各方面に働きかけ、満蒙移民は国策として取り上げられるようになる。訓練所が置かれた内原は、満蒙移民のメッカとして視察者が相次いだ。1932年から拓務省による試験移民が開始された。
拓務省とは、1929年(昭和4年)から1942年(昭和17年)にかけて日本に存在した省で、外地と言われた日本の植民地の統治事務・監督のほか、南満州鉄道・東洋拓殖の業務監督、海外移民事務を担当した。

大規模な移民政策が開始されるのは二・二六事件後の広田内閣になってからである。実際に敗戦までに27万人の移民が送出された。

 林銑十郎内閣が倒れた後、西園寺は近衛文麿を奏請、近衛は今度は大命を受けた。近衛は国民的人気が高かったが、とりわけ陸軍の期待が大きかった。近衛は昭和10年代に三次にわたって内閣を組織し、その期間に、盧溝橋事件、日独伊三国同盟、南部仏印進駐(日米開戦への岐路となる)の日本の命運を決めた事件が発生している。

 西園寺は1919年のパリ講和会議に全権として出席する時、近衛を随員に加えている。近衛はパリに入る前に雑誌『日本及日本人』に、「英米本位の平和主義を排す」という論文を発表し、西園寺に叱責されている。近衛の考えは、講和会議で高唱される平和主義は英米の帝国主義に都合のいいものであり、領土も資源も乏しい後発国の日本は彼らに対して資源の再配分を要求せざるを得ないというもの。彼は人種平等に基づく世界改造を主張した。近衛は対外方針として「国際正義に基づく真の平和」、「単純なる現状維持に非ざる真の平和」を、国内政策として「社会正義に基づく施設」を唱えた。
 期待を背景に出発した近衛にとって、予想外だったのは組閣1か月後の1937年7月7日に盧溝橋事件が勃発した事である。その半年前の1936年12月に西安事件が起こっていた。共産党軍攻撃を行なっていた張学良が西安で蒋介石を逮捕監禁した事件である。周恩来ら共産党首脳との連絡の下で張、蒋の話し合いが行なわれ、蒋介石は南京に戻ったが、1937年2月に国民党は国共合作に応ずる決定をした。盧溝橋事件の前には中国国内情勢の急変があった。7月7日の夜、夜間演習中の支那駐屯軍が十数発の小銃射撃を受け兵1名が行方不明になった。日中両軍の衝突となったが一旦停戦。しかし7月末には本格的な戦闘となり、8月13日には上海に戦火が拡大した。8月17日の閣議で「不拡大方針を放棄」する決定を行なった。こうして日本は、長期にわたる中国との戦争に入り込んだ。

 1937年12月13日に中国国民政府の首都の南京が陥落。南京の占領に際して虐殺が発生したのは、今日知られている通りである。日本政府は1938年1月16日に、後に「対手(あいて)とせず」声明と呼ばれる声明を公表。「帝国は爾後国民政府を対手とせず、帝国と真に提携するに足る新興支那政権の成立発展を期待し、是と両国国交を調整して更生新支那の建設に協力せんとす」という趣旨のもの。多くの人が事変解決を困難にしたと評価する「対手とせず」声明は、陸軍省と近衛の主張で出された。
 近衛は1938年5月に内閣改造を行なった。外相となった宇垣一成は英国の仲介による和平交渉を探る。しかし陸軍革新派の反対を受ける。陸軍は、北京や南京に傀儡政権を樹立させ、武漢・広東を占領した。宇垣は9月下旬に辞任した。

 宇垣工作とは別に、国民政府ナンバーツーの汪兆銘との間に極秘工作が進行していた。1938年11月までにまとまった両者の了解は、満州国の承認、将来的な日本軍の撤兵などを条件に、汪兆銘が重慶を脱出し日本と提携する新政権を樹立するというもの。汪兆銘は12月20日に重慶を脱出して飛行機でハノイに到着した。汪兆銘は、こののち漢奸(対日協力者)として指弾される。11月下旬の汪兆銘は、「これまでの決定を全て覆し、検討を要すると言い出す」など、動揺を見せていた。

 この辺りから支那事変は分かり難い戦争になって行く。

 近衛内閣は「対手とせず」声明を、その年(1938年)の11月の政府声明で修正している。日本側の真意は領土や戦費賠償を求めるものではなく、「帝国の希求する所は、東亜永遠の安定を確保すべき新秩序の建設に在り。・・・」と説明する。12月22日には近衛首相による声明もあった。「支那の主権を尊重するは固より、進んで支那の独立完成のために必要とする治外法権を撤廃し且つ租界の返還に対して積極的なる考慮を払うに吝かならざるものである。」とうたった。日中戦争が帝国主義的な国家間の戦争とは異なる性格のものである事を主張。この考えをここでは「聖戦」イデオロギーと捉えよう。相手を殺すことが、「独立完成」を支援することになる? ここに「聖戦」イデオロギーの据わりの悪さがある。

 社会大衆党は「聖戦」イデオロギーを最も積極的に鼓吹した。日本内部の資本主義を改革して全体主義の制度を建設するための国家「革新」的意義を有する戦争であるとする。
 一方、1940年の議会において、政府及び軍部の戦争指導を批判する質問演説を行なった齋藤隆夫は、資本主義の弊害(貧富の懸隔など)は認めるが、資本主義に対する抑制が限度を超えて自由競争を減殺し、社会政策が度を越して国民の依頼心を増進せしめるのは、国家社会の発達を促すゆえんではないとの立場であった。

 日中戦争が長期化する事が明らかとなり、軍事費の増大と経済の統制化が行なわれた。1938年4月に国家総動員法が公布された。この法律は経済活動の諸分野のみならず、言論などに関する統制の権限を、統制内容を条文上に明示せずに政府に委ねるもので、議会の審議で激しい論争をよんだ。戦時統制を担う官庁として1937年10月に企画院が創設された。そして1938年後半から価格統制、配給統制が強化された。窮屈な戦時生活は、この頃から始まる。

 近衛は1939年1月に内閣を投げ出した。その要因の一つに、ドイツと陸軍から出た日独防共協定の強化がある。対ソ戦を想定した軍事同盟化だったが、ドイツは攻守同盟の対象にソ連以外の第三国からの攻撃も含めようとしていた。日本はこれを忌避した。次の平沼騏一郎内閣の時も防共協定問題は検討されていたが、欧州ではドイツは1939年8月に独ソ不可侵条約を締結した。平沼内閣は「欧州情勢は複雑怪奇」との声明を発表して総辞職した。独ソ不可侵条約では、ヒトラーとスターリンによるポーランド分割の密約が記されていた。ヒトラーはこの条約締結の1週間後にポーランドに侵攻を開始した。

 平沼内閣の後、1939年8月に陸軍の阿部が、さらに1940年1月に海軍の米内が内閣を組織したが、いずれも短命に終わり、1940年7月に再び近衛が組閣する。松岡洋右を外相に、東条英機を陸相にした。

 日本国内の「革新」勢力は、1940年4月のドイツ軍の北欧侵攻と5月のベネルクス三国侵攻に始まる電撃戦の成功により、勢い付けられた。ドイツ軍のパリ入城は1940年6月14日。当時の東京朝日新聞は6月15日の社説に、「仮に米国が対独参戦したとしても、ドイツが打倒されるとは考えられない」と書いている。あっという間に英仏軍をダンケルク(ドーバー海峡に面したフランス北西部の町)から追い落としたドイツの勢いに、そんな雰囲気が支配的だった。近衛再登場・革新断行の要求が、このような雰囲気を背景に高まった。

 近衛と彼を担いだ勢力は、新たな政治体制の構築を目指した。近衛は東大法学部教授の矢部貞治に新しい政治体制のプラニングを依頼していた。当時、陸軍や社会大衆党は「一国一党」的な新党理念を持っていたが、矢部は、その理念は対抗勢力から非難を浴びる可能性が大きいと考えた。天皇と国民の間にあって実質的な統治者として権力を行使する機構もしくは集団は「幕府」であり、一国一党の首領の近衛が同時に内閣の首班になる事は、「幕府」政治であり、憲法違反との非難を招く可能性があるとした。

 新政治体制問題は大政翼賛会に帰結したが、この時期、2つの政治的潮流が激突した。革新右翼と観念右翼である。当時の国内政治は、天皇に帰一する万民翼賛を国家の正統性の根拠とする以外に存在し得ず、その意味では全て「右翼」である。革新右翼は、日中戦争解決のために三国同盟に依拠し、公益優先、強力な政治的リーダーシップの一元化を求める勢力。観念右翼はそれに反対する右翼である。この衝突は1941年初頭の76議会で、憲法論争の形をとって全面化した。

 組閣1か月後の1940年8月、新体制準備会が設置された。1か月の審議後に、大政翼賛運動綱領草案を決定し、以後の扱いを総裁(近衛が想定された)一任として任務を終了した。近衛内閣は9月27日(日独伊三国同盟の調印式の日)の閣議で、大政翼賛会の設置などを決定した。なお、76議会などで近衛は現状の大政翼賛会に憲法上の問題がある事を事実上認めている。
by utashima | 2014-01-03 14:25 | 読書2 | Trackback | Comments(0)
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