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『政党政治と天皇(日本の歴史22)』(伊藤之雄著)の第8章

第8章 世界恐慌と立憲君主制の危機

 政友会の田中義一内閣が張作霖爆殺事件の処理で昭和天皇から強い不信を買って倒れ、1929年7月2日、野党第一党の民政党総裁の浜口雄幸が組閣した。昭和天皇は浜口内閣の閣僚の顔ぶれに満足した。浜口内閣は金解禁により為替相場を安定させ輸出を増進させて不況を克服する政策を進めた。当時、主要国は金解禁により金為替本位制に復帰していた。国民は浜口内閣の政策を評価し、1930年2月20日の総選挙では民政党は大きく議席を伸ばし、衆議院の過半数を確保した。

 第一次世界大戦後のワシントン海軍軍縮条約で、主力艦(戦艦・空母など)の総保有トン数や備砲などの制限を行なったが、制限外であった補助艦(基準排水量1万トン以下)の建艦競争は激しくなった。そこで補助艦の制限のためのロンドン会議が1930年1月21日から行なわれ、補助艦総量は米国の69.75%、その中の大型巡洋艦は米国の60.2%、潜水艦は米英と同じ5万2700トン(この時日本は7万8500トンを保有)という協定案が出され、日本全権はそれに妥協する事にし、3月14日に浜口内閣に請訓(本国政府に指示を求める事)した。

 浜口首相ら内閣側や元老西園寺ら宮中側近側は条約を成立させようとの立場だった。加藤軍令部長らは請訓に反対。昭和天皇は浜口首相に条約を成立させるようにと直接意思を表明していた。この天皇の行動は英国の立憲君主制の慣例の枠内にある。

 3月31日、回訓案についての閣議を翌日に控え、加藤軍令部長は上奏を打診したが、鈴木貫太郎侍従長から天皇多用という事で翌日にという事になった。しかし、翌4月1日も加藤軍令部長の上奏要請は、天皇の「日程既に一杯」という名目で阻止された。鈴木侍従長一人の判断だったらしい。昭和天皇は鈴木の上奏阻止に同調し、翌日に拝謁する事を指示したらしい。しかし、4月1日に閣議が予定通り開かれ、全権の請訓とほぼ同内容の回訓案が決定した。その日の内に浜口首相から天皇に上奏され、裁可を受けてロンドンに電送された。

 ロンドン海軍軍縮条約は4月22日に成立。軍令部長に上奏させないという鈴木侍従長の行動は、天皇の同意を得ているとは言え、異例で危険なものであった。上奏阻止の噂は、阻止に関わった人物は十分に把握されないまま、政界・海軍・陸軍の中枢部や国粋主義者の間に広まり、8月頃には、鈴木侍従長一人の判断だったという真相も広まった。

 上奏阻止事件後の1930年4月から、「軍部」という用語が急に使われるようになる。それまで天皇や政党内閣などにまがりなりにも統制されてきた陸・海軍が、軍部として自立した行動を取り始めた。昭和天皇が政治的に力量がなく宮中側近に影響されていて軍部にとって頼りにならないという、天皇に対する不信を背景としていた。鈴木侍従長の行動は、責任感と天皇への誠意から出たものであるが、宮中側近への不信感を増し、天皇の国家統治の威信を著しく傷つけた。これは軍縮条約の成立を一時的に促進したが、あまりに大きな代償であった。

 1929年秋、株式投資に熱に浮かれていた米国は、突然恐慌に見舞われた。それは急速に広がり、世界恐慌となった。日本は金解禁の影響も合わさり、1930年代から昭和恐慌となった。

 日本による朝鮮と台湾の植民地支配は、1935年頃までは、英国のそれと比べて特異なものではなかった。1937年7月に日中戦争が全面化し、更に太平洋戦争に拡大して日本に余裕がなくなると、植民地支配にも異様さ(台湾・朝鮮のキリスト教系私立学校への神社参拝の強制、朝鮮人などの強制連行や創氏改名など)が増大した。

 1931年5月頃、関東軍参謀の石原莞爾中佐は、関東軍が独断で満州を占領し、中国本土と切り離して統治する計画を考えていた。
 1931年9月18日夜、関東軍の一部は奉天の柳条湖の満鉄線上で爆薬を破裂させ、中国軍(張作霖を継いだ張学良の部隊)を攻撃。満州事変の発端となる柳条湖事件である。彼らは、中国側が日本側を攻撃したとの偽の報告を行なった。関東軍司令官は、石原中佐の意見を入れ、全関東軍に出動を命じ中国軍を攻撃させた。朝鮮に駐屯する日本軍である朝鮮軍の応援も依頼した。日本国外にいる部隊は、司令官に緊急時の権限が与えられており、中国軍を攻撃できた。しかし、植民地の朝鮮は日本国内であり、朝鮮軍が出兵する事は国外出兵になる。国外出兵には、奉勅命令(天皇の許可)と閣議の経費支出の承認が必要だった。朝鮮軍の司令官林中将は、奉勅命令がすぐに下されるとの見込みで行動を起こした。

 9月19日の閣議では、幣原外相が事件は関東軍の謀略であるとの意見を述べる等、関東軍への増援経費を認める空気は無かった。しかし、朝鮮軍は21日午後、列車で国境の鴨緑江を越え、関東軍の指揮下に入った。これは、天皇の統帥権をないがしろにするだけでなく、関東軍・朝鮮軍が軍中央の指揮下に服さないという点で、大変な事態であった。昭和天皇は満州事変の拡大を防ぎたいと考えていたが、積極的な介入を差し控えた。若槻首相は、陸軍に宥和的であり、22日の閣議では朝鮮軍の満州出動を閣僚全員が承認し、必要な経費支出を認めた。その後天皇の許可も得て、朝鮮から満州への増援問題は事後承認として解決された。浜口雄幸が狙撃されず(1930年11月14日に東京駅で狙撃され重傷を負った)、柳条湖事件の時も首相であったなら、別の結果になった可能性がある。

 若槻内閣は朝鮮軍の独断越境を事後承諾したため、関東軍は勢いづき、次々に要地を占領した。国際連盟も日本の不拡大方針に疑いを持ち、1931年10月24日の理事会で、日本は直ちに撤兵を開始し11月16日までに管理すべきとの決議案が13対1の評決となった。反対は日本だけ。若槻内閣は事態のコントロール能力を失っていった。

 陸軍の桜会グループの青壮年将校たちは、クーデター計画を立てた。10月24日に若槻首相以下の閣僚を暗殺し、軍部中心の内閣を作ろうというもの。これは発覚し、クーデターは未遂に終わったが、首謀者たちの処分は軽いものであった。その頃、関東軍は、北満州のチチハルへ進軍し占領した。北満州はソ連の勢力圏だった。

 日本国民は浜口内閣の下で、金本位制への復帰と緊縮財政で産業を合理化すれば、経済は好転すると信じて、不況を耐えてきたが、デフレ状況はより厳しくなった。英国は1931年9月に金本位制から離脱。満州の戦火が拡大する中、日本国民は若槻内閣を見離し始めた。英国では、1931年8月に挙国一致内閣(第三次マクドナルド内閣)を成立させていた。日本でも連立内閣が模索されたが進展せず、若槻首相は内閣を投げ出し、1931年12月11日に総辞職。後任は犬養毅を首相とする政友会の単独内閣となり、12月13日に発足した。昭和天皇や元老西園寺は陸軍を抑制する積極的な行動を取らず、陸軍の要請で1932年1月には関東軍の軍事行動に対し、天皇がその「忠烈を嘉す」と称賛する勅語が出された。

 1932年1月18日、関東軍は中国人に上海の日本人僧侶ら5名を襲わせ、上海事変を開始した。2月5日には関東軍はハルビンを占領し満州の主な都市を支配下に置いた。そして3月1日に満州国の建国宣言を行なわせた。関東軍は清朝最後の皇帝溥儀を天津から連れ出して軟禁していた。犬養内閣は金本位制を離脱したので、金の保有量に規制されずに通貨を発行できるようになった。高橋是清蔵相は赤字国債を多量に発行して景気を回復させた。

 1932年5月15日夕方5時半頃、古賀清志中尉ら海軍青年将校6名と陸軍士官学校生12名と血盟団の残党1名は、首相官邸・内大臣官邸・政友会本部・三菱銀行を襲撃、犬養首相を射殺した。五・一五事件である。5月23日、穏健な海軍軍人である斎藤実大将が後継首相に推薦され、26日に斎藤内閣が発足。各政党から入閣した挙国一致内閣であった。
by utashima | 2013-10-31 22:16 | 読書 | Trackback | Comments(0)
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