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『政党政治と天皇(日本の歴史22)』(伊藤之雄著)の第7章

第7章 北伐と御大礼

 1926年(大正15年)7月、孫文の国民党を受け継いだ蒋介石は、国民革命軍を率いて広東省より北伐(北方の軍閥政権を倒すための軍事活動)に出発した。翌3月には上海と南京を占領。1月には国民革命軍は漢口・九江の英国租界を実力で回収した。英国は、日米に派兵を求めたが、内政不干渉を方針とする幣原外相(若槻内閣)は米国と共に出兵を拒否。4月に、蒋介石は反共クーデターを起こし南京に国民政府を樹立した。既に1月に、国民党左派と中国共産党は武漢に国民政府を移しており、中国に二つの国民政府が並存する形になった。田中義一大将を総裁に戴く衆議院第二党の政友会は、内政不干渉方針の幣原外交を激しく攻撃した。

 1926年頃、日本国内では金融不安が進行していた。第一次世界大戦後の需要減退による不況と、1923年の関東大震災による日本経済への打撃が要因であった。経営不安のうわさのある銀行の窓口に人々が殺到し、取り付け騒ぎが発生した。植民地台湾の台湾銀行の経営も怪しくなった。若槻内閣は台湾銀行救済の緊急勅令案を提出したが枢密院に否決され、1927年4月17日に総辞職した。

 4月17日、即位して4か月の昭和天皇裕仁は、牧野内大臣と元老西園寺が推薦した田中義一に後継首相として組閣を命じた。20日、田中内閣が発足。第一党の若槻内閣が倒れると、第二党の党首が組閣すると言うルールが展開し始めた。田中内閣は、陸軍や国粋主義者からは幣原外交の転換として期待された。田中内閣は旧来の政友会幹部(列強との協調路線を重視)とは異質で、中国政策の刷新と反共を唱える人物が中核となっていた。

 1927年5月28日、蒋介石の国民革命軍が山東地方に迫ると、田中内閣は在留日本人保護を理由に、派兵を声明した。第一次山東出兵である。中国各地から激しい排日の声が上がった。国民党右派の蒋介石が一時失脚して北伐が一旦中止されると、田中内閣は派遣軍を撤兵した。幣原前外相は満州権益を守るために、中国本土政権との妥協を探っていたが、田中内閣は満蒙を中国本土より分離する方向性を示した。

 1928年2月に蒋介石が復帰し北伐を再開すると、4月19日、田中内閣は第二次山東出兵を決定、約5000名を派遣した。5月3日、済南市で日本軍と北伐軍が衝突した。内閣は第三次山東出兵を決定し北伐軍を攻撃、約5000名の死傷者を出す打撃を与えた。これを「済南(さいなん)事件」という。排日気運は更に強まった。しかし北伐軍の勢いは衰えず、北京の張作霖は満州に引き揚げて体制の立て直しを図る。6月3日に北京を発った張は、4日朝、奉天を目前に列車もろとも爆破され、2日後に死亡した。張の爆殺を企てたのは、関東軍の高級参謀の河本大作大佐、実行したのは独立守備隊の東宮鉄男大尉らであった。東宮は爆破を北伐軍の仕業に見せかけようとしたが、真相は日本側だけでなく張作霖の息子の張学良側にも知られた。

 満州を除き中国を統一した国民政府は、1928年7月に日本に通商条約の破棄を一方的に通告。米国は7月25日に国民政府を承認し、関税自主権を認めた。英国も12月20日に同様の姿勢を取った。張学良は12月29日に国民政府に合流した。

 張作霖爆殺の約1年後、田中義一首相は昭和天皇に曖昧な報告をしたため、天皇は田中首相に不信感を示し、内閣は1929年7月に倒れた。田中内閣は、山東出兵などの強硬外交や、三・一五事件(1928年3月15日、左翼労働組合やプロレタリア文化団体等の活動家約1600名を検挙)及び治安維持法改正(国家変革を目的とした結社行為の最高罰則を懲役10年から死刑に変更、また共産党員でなくても本人の意図に拘らず共産党に協力したと判断されると2年以上の刑を科される)など共産党や労働運動弾圧政策が目立ち、景気は回復せず、国民の支持を拡大できなかった。

 1926年12月25日、大正天皇が47歳で没し、摂政を務めていた25歳の裕仁が即位した。1928年5月、田中首相が天皇に拝謁し、山東への出兵費の予算が否決されるか、内閣不信任案が可決されたら、衆議院を解散したいと、許可を求めた。天皇は、予算否決の場合は解散許可を与えたが、内閣不信任案可決の場合は許可を与えなかった。英国においても首相が民意に反して下院を解散しようとした場合は、国王は解散を拒否できると考えられていた。昭和天皇の政治関与への意気込みが分かる。

昭和天皇には三人の弟がいた。秩父宮親王(1歳下)、高松宮親王(4歳下)、崇仁(たかひと)親王(後の三笠宮、14歳下)である。秩父宮は、「山の宮」「スポーツの宮」と呼称され、天皇家の大衆化という点で天皇を補っていた。秩父宮は国粋主義者や保守主義者の間で昭和天皇をしのぐ人気があった。秩父宮の存在は、昭和天皇が無意識のうちに無理をする影響を及ぼした可能性がある。昭和天皇が秩父宮をどのように意識していたかを知る原史料は、今の所発見されていない。
by utashima | 2013-10-19 16:41 | 読書 | Trackback | Comments(0)


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