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『政党政治と天皇(日本の歴史22)』(伊藤之雄著)の第6章

第6章 護憲三派内閣

 1923年12月29日、第二次山本権兵衛内閣が「虎の門事件」(摂政宮狙撃事件)の責任を取って辞表を提出。元老の西園寺公望が中心となって、清浦奎吾枢密院議長を後継首相に選び、1924年1月7日に清浦内閣が成立。こうして、非政党内閣が三つ続くことになり、普選による政治刷新を期待する国民の失望は大きかった。これに対して政友会は、憲政会・革新倶楽部と連携して第二次護憲運動を開始した。清浦内閣は、護憲三派の攻撃に対し、1月31日に衆議院を解散し、5月10日に総選挙を行なう事になった。当時の選挙権は1919年の選挙法改正により直接国税3円以上を納める25歳以上の男子に認められていた。

 選挙の結果は、護憲三派の圧勝であったが、憲政会が議席を大きく伸ばした。清浦内閣は6月7日に総辞職。今回も西園寺が中心となって後継首相を選定。第一党となった憲政会の総裁の加藤高明が首相となり護憲三派の連合政権を発足させた。加藤高明は東大法科出の外交官出身で、岩崎弥太郎(三菱)の長女と結婚していた。革新倶楽部の党首格の犬養毅は、加藤高明が大嫌いであった。外相に就任した幣原喜重郎は、妻が加藤高明の妻の妹であった。
 加藤は、国民の要望に応えるため、普選案の作成を重視した。1925年3月、普通選挙法が成立した。男子の納税資格を撤廃し25歳以上に選挙権を、30歳以上に被選挙権を与え、選挙区を小選挙区制から中選挙区制に変えた。この選挙制度は、第二次世界大戦後の一時的中断を挟んで1990年代半ばまで、70年近く続いた。
 英国では、1918年に男子の普選が達成され(30歳以上の女子にも与えられた)、1928年に男女平等の選挙権が実現している。
 普選法が通過した同じ議会で、治安維持法も成立している。1900年に制定した治安警察法だけでは十分でないとの判断からである。

 1926年1月、加藤首相は慢性の腎臓病と心臓病に風邪をこじらせ、肺炎を併発して急死。66歳であった。加藤は英国流の二大政党制を理想とした。原・加藤ともに、政党政治へのしっかりした理念を持ち、自分にも厳しい人間であった。原が暗殺され、加藤までも死去した事は、その後の政党政治崩壊と戦争への流れを暗示しているようだ。

 加藤の後継として若槻礼次郎が首相となり、加藤内閣の延長として第一次若槻内閣が誕生した。


 1924年5月の総選挙の結果、清浦内閣が辞任する頃、5月26日に排日移民法が米国で成立。米国では既に中国人など日本人以外のアジア人の移民が禁止されていた。排日移民法は、日本人の心の底に対米不信の根を植え付けた。このような状況の1924年6月11日、幣原喜重郎が加藤高明内閣の外相に就任。幣原は、列強と共同でワシントン体制を実現し、東アジアに安定した国際秩序を形成しようとした。中国も国際法の秩序を受け入れるべきと考えていた。しかし、中国は不平等条約や二十一か条要求は正義に反するので、直ちに撤廃を要求する権利があるととらえた。日本は近代化のために西欧文明を受け入れたが、中国は自国の基準で西欧文明に対応しようとした。

 1924年1月、中国国民党の孫文の指導の下で、中国国民党と中国共産党の第一次国共合作が実施された。孫文は中国を統一しようとした。孫文は1925年3月に死去したが、国民党は着実に強くなり不平等条約打破に向けたナショナリズムも強くなった。1925年11月22日、郭松齢(かくしょうれい)事件という内乱が起きる。張作霖の部下の郭松齢が張に対して起こした反乱である。1926年4月10日にはクーデターで段祺瑞(だんきずい)政権が倒れ、北京は無政府状態になった。
by utashima | 2013-10-01 18:04 | 読書 | Trackback | Comments(0)
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