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『維新の構想と展開(日本の歴史20)』(鈴木淳著)の第4章

第4章 官と民の出会い

 明治10年1月29日夜、薩摩の私学校党が、鹿児島の政府の施設を襲撃して、西南戦争が始まった。薩摩側約2万人、官軍約4万6千人が動員された。9月24日、城山(鹿児島市北部の小山、標高100m余り)の戦いで敗れた西郷が自刃して終わった。

 明治11年7月、地方三新法(郡区町村編制法、府県会規則、地方税規則)が交付された。これにより、全国統一の本格的な地方自治制度が確立し、地方での官と民が明確に識別された。それ以前は、区長や戸長が下に対しては官を代表し、上に対しては民を代表していた。それ以後は、官の末端が郡役所、民の代表は府県会議員となった。
 その2ヶ月程前の明治11年(1878年)5月14日、内務卿の大久保利通が、島田一郎ら六名の士族により紀尾井坂(東京都千代田区紀尾井町)にて暗殺された(紀尾井坂の変)。享年47歳。大久保は護衛を伴っておらず、御者と共に凶刃に倒れた。

 西南戦争後、国会開設などを求める自由民権運動が盛り上がる。政府は、民の領域を府県会での予算審議権までに限ろうとしたが、府県会議員たちは、それ以上を求める者も多かった。各地に自由民権の結社が作られた。自由民権運動の流れの中、憲法制定論議が高まり、政府内でも君主大権を残すビスマルク憲法かイギリス型の議院内閣制の憲法とするかで争われ、前者を支持する伊藤博文と井上毅が、後者を支持する大隈重信とブレーンの慶應義塾門下生を、明治14年に政府から追放した。明治14年の政変と呼ばれている。政変後、明治23年に国会を開設するという詔勅が出された。

 明治前期は道路の時代でもあった。江戸時代は駄馬が通れれば良かったが、明治になり人力車や荷車の往来が多くなり、道路の改修が大きな課題であった。明治11年に全国的な交通網構想が、国内最初の公債である起業公債による事業計画として示された。

 三島通庸(みちつね)は、道路整備に熱心な県令であった。福島県令も兼ねていた彼は、「三方道路」の建設に取り掛かった。国からの援助を前提に、地域の人々に建設労働又は代夫料の負担を求めた。農民には大きな負担となった。「三方道路」とは、会津地方から新潟県、山形県、栃木県へ通じる県道(会津三方道路)の事。これがきっかけで、県会議長河野広中を中心に自由党員や農民が団結して反対運動を展開。明治15年11月には佐治幸平らの逮捕をきっかけに数千人の人々が喜多方警察署におしかけ、約2000人が逮捕され、河野広中が軽禁獄7年の刑を受けるなど6名が処罰された。これを、福島事件という。

 明治11年8月に「竹橋事件」と呼ばれる徴兵制軍隊の反乱事件が起きた。原因は徴兵制兵役における待遇への不満であった。徴兵制軍隊の将校には恩賞が与えられたが、下士卒に与えられなかった。政府は徹底した処罰により、軍紀の確立を図ると共に、兵卒の待遇をある程度改善した。明治12年10月に徴兵令改定が行なわれ、戸籍や体格による免役範囲の縮小と輜重輸卒(しちょうゆそつ)の徴集が実施された。輜重輸卒は後方で荷物を運ぶなどの軍夫の事であり、兵卒より下級と位置付けられた。

 明治15年7月、壬午(じんご)事変が発生。朝鮮の軍隊が日本人軍事顧問などを殺害する政変を起こし、日本公使館は総員退去を余儀なくされた。8月に予備軍が招集され、徴兵制軍隊が対外戦争に活用できることが立証された。
by utashima | 2013-01-10 19:10 | 読書 | Trackback | Comments(0)


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