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『維新の構想と展開(日本の歴史20)』(鈴木淳著)の第3章

第3章 士族の役割

 明治9年2月、弁理大臣黒田清隆は、朝鮮国の江華島に上陸。鎖国を続ける朝鮮に開国を迫った。その時、最新のガトリング砲4門を装備した儀仗兵を伴っていた。火縄銃段階の朝鮮に、文明の発展を示すためであった。ガトリング砲は1862年に米国で特許が取られている。1分間に200発程度の銃弾を発射できた。イギリス軍は明治2年にガトリング砲を採用し、明治7年に初めて実戦に使っている。日本の初使用は戊辰戦争の時であり、世界的に見ても早い方であった。

 黒田は明治9年2月27日に、日朝修好条規(江華条約)を締結し、朝鮮を開国させた。

-----[江華条約]ウィキペディアより-----
 1875年(明治8年)に起きた江華島事件の後、日朝間で結ばれた条約。条約そのものは全12款から成り、それとは別に具体的なことを定めた付属文書が全11款、貿易規則11則、及び公文がある。これら全てを含んで一体のものとされる。

 朝鮮が清朝の冊封から独立した国家主権を持つ独立国であることを明記したが、片務的領事裁判権の設定や関税自主権の喪失といった不平等条約的条項を内容とすることなどが、その特徴である。

 それまで世界とは限定的な国交しか持たなかった朝鮮が、開国する契機となった条約であるが、近代国際法に詳しい人材がいなかったため、朝鮮側に不利なものとなっている。その後朝鮮は似たような内容の条約を他の西洋諸国(アメリカ、イギリス、ドイツ、帝政ロシア、フランス)とも締結することとなった。そのため好む好まざるとに関わらず近代の資本主義が席巻する世界に巻き込まれていくことになる。
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 黒田の粗暴な訪朝は、当時の欧米列強の外交姿勢に倣ったものであった。23年前に米国のペリーにされた事を、朝鮮に対して実行した。

 江華条約締結の前年に江華島事件が起きている。日本の軍艦「雲揚」が朝鮮から銃・砲撃を受けたとされる事件である。それが偶発事件なのか日本側の挑発によるものなのか議論がある。「雲揚」は、明治8年9月20日に測量や「諸事検捜」の目的で、首都ソウル近くの江華島の砲台近くにまでやってきた。そこで、朝鮮から発砲を受けた。人的被害はなかった。翌日、「雲揚」は砲台に向けて砲撃を開始。朝鮮の砲台も応戦したが届かなかった。日本側は、陸戦隊を揚陸して砲台を焼き払った。ほぼ一方的な結果であった。「雲揚」は245トンの小さい軍艦である。なお、1853年6月3日に浦賀にやってきたのは、サスケハナ号(2450トン)を旗艦とする4隻の艦隊であった。

 当時、朝鮮の防備の脆弱さを日本は把握しており、他国の侵略より前に日本の勢力下に置きたいという征韓の報告書が、「雲揚」の艦長井上良馨から提出されていた。

 現在の我々に理解し難い明治初年の動向の一つが、征韓論であった。新政府は天皇中心の政権成立を告げる国書を朝鮮に送ったが、明治2年2月、朝鮮は受け取りを拒否。日本が、「皇室」や「奉勅」の文字を使っている事が理由であった。「皇室」は中国皇帝にしか用いないという事らしい。明治3年には、対馬藩からの外交権の継承をめざして、外務省から朝鮮に使節を派遣したが、朝鮮は面会を拒否した。朝鮮は、欧米諸国からの開国要求も拒否して鎖国を継続した。

 このような朝鮮の対応は新政府の威信を傷つけるものであるとして、これを討つべしという議論に進んだ。征韓論は、明治元年から2年にかけて、木戸孝允によって唱えられたのが最初である。しかし、明治6年において木戸は、当時、諸藩が持っていた軍隊を朝廷直轄の軍隊にしたいと考えており、征韓論は国内の反対勢力を抑える方便だったと説明している。
 明治6年10月に征韓論政変が起き、西郷隆盛・江藤新平・板垣退助・後藤象二郎らが職を辞した。政府に残った大隈重信・西郷従道(つぐみち、隆盛の弟)らは、台湾出兵には積極的だった。大隈らは征韓論には反対したが、士族たちの不満を吸収するための軍事行動は必要と考えていた。

 2年ほど遡る明治4年11月、琉球の宮古島から本島(沖縄)へ年貢を運ぶ船が、帰路に遭難して台湾南部の東海岸に漂着、54名が現地人に殺害される事件が起きた。この知らせが、明治5年7月に鹿児島に届く。これを聞いた鹿児島県参事たちは、東京で出兵運動を行なった。琉球は、江戸時代から、清国と徳川家の双方に対して従属的な関係を持ってきた。新政府は廃藩置県後も鹿児島藩から琉球についての事務を回収していなかった。明治5年9月、新政府は、琉球国王尚泰を琉球藩王として華族に列する手続きを取り、琉球を鹿児島県から分離した上で、琉球が日本領土である事を宣言した。台湾出兵は、先送りした。

 しかし、明治7年4月、台湾に出兵。主にマラリアにより、600名以上の死者が出た。清国と講和を結んで撤退した。植民地(台湾)獲得と不平士族対策の両立という構想は挫折し、新政府は、前述のように軍艦で朝鮮国に迫る形を取った。江華島事件を経て朝鮮を開国させ、士族一般を用いずに「征韓」を達成したため、征韓で戦功をあげたいと考えていた士族の不満は、新政府に向かう事になる。

 廃藩置県後、華族・士族は政府から禄を与えられていた。明治5年~7年の政府歳出総額の約3割を、その秩禄(ちつろく)が占めていた。新政府は、財政上、これを打ち切りたかった。版籍奉還で藩の仕事もなくなり、徴兵令で兵役の義務も平民と同じになったので、士族に禄を給する理由はなかった。一方、士族の軍事力は脅威であったから、彼らの不満を抑えるため、生計の道を配慮しなければならなかった。

 明治6年から部分的に秩禄処分が行なわれたが、江華島事件の緊張を契機に、松方正義が全面的な秩禄処分を計画。明治9年に31万人余りの華士族に金禄公債を交付し、家禄の支給を打ち切る事を決めた。金禄公債の総額は、明治9年度の歳出総額の約3倍であった。多くの士族は、従来通り家禄を受けていても生活を支えられず、公債化によって一時的に資金余裕が生じ、事業資金や子弟の学費として、転身の資本となった。

 新政府は、金禄公債証書の価値を保ち、それを経済活動の活発化に繋げるために、国立銀行条例(明治5年制定)の改定を行なった。改定前は、金との交換を約束した兌換銀行券を発行する義務があった。そのため、設置は4行に留まっていた。改定により、金との交換に応じる義務がなくなり、銀行の設立・経営が容易になった。ここでいう国立銀行は、この条例に準拠する民間銀行である。

 全国各地で士族たちは政府の意図通り、熱心に銀行設置活動を行なった。明治13年までに153の国立銀行が開業し、3211万円の銀行紙幣が発行された。今でも、百十四銀行や第四銀行などが存在している。第一銀行は、第一勧業銀行を経てみずほ銀行に、第二銀行は合併されて横浜銀行となっている。私は、何十年も前から、何故百十四銀行などという名前なのか、不思議に思っていた。今回、この歴史を知って、すっきりした。

 多数の国立銀行が設立された事は、士族の救済にとどまらず、産業化の進展に貢献した。明治15年に日本銀行が設立され、18年から兌換銀行券を発行して発券銀行としての機能を本格化したが、当初は改定条例による国立銀行体制を維持する役割を担っていた。
by utashima | 2012-12-30 09:40 | 読書 | Trackback | Comments(0)


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