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『文明としての江戸システム(日本の歴史19)』(鬼頭 宏著)の第6章

第6章 生活を支えた経済システム

 荘園年貢は領主のもとで直接消費された「直接農産消費」であったが、近世の年貢は、それを市場に放出して得た貨幣で領主の生活が営まれたので、「間接農産消費」と言える。

 東北・北陸の諸藩は、寛永年間(1624年~1644年)から、下関経由で瀬戸内海を航行して大坂に至る西廻海運を利用して、大坂への廻米を試みていた。1672年、幕府から出羽最上郡の幕領米を江戸に送る事を命じられた河村瑞賢は、自身が開いた東廻航路はまだ安全でないと判断し、西廻航路の諸港を整備して利用した。瑞賢は、1670年に伊達郡の幕領米を江戸に送ることを命じられた時、東廻航路を開いていた。それ以前は、銚子で川船に積み替えて江戸に運んでいた。
 西廻航路は、北海道の松前と大坂を結ぶ動脈として、重要な役割を果たした。北前船である。

--------------------------ウィキペディアより
 河村瑞賢は、江戸時代初期の豪商。現在の三重県度会郡南伊勢町の貧農に生まれた。13歳の時、江戸に出た。江戸幕府の土木工事の人夫頭などで徐々に資産を増やすと、材木屋を営むようになり、明暦3年(1657年)、明暦の大火の際には木曽福島の材木を買い占め、土木・建築を請け負うことで莫大な利益を得た。寛文年間(1661年~1673年)に老中で相模小田原藩主稲葉正則と接触、幕府の公共事業に関わっていく。
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 日本では708年に初めて和同開珎(わどうかいちん)が鋳造されたが、958年の乾元大宝(けんげんたいほう)の鋳造を最後に、銭貨鋳造は行なわれなくなった。鎌倉時代中期から貨幣も使われ始めたが、中国・朝鮮から輸入された銅銭とその模鋳銭(国内で模造された)が利用された。最も多く使われたのは、明の永楽通宝(1408年から鋳造された)である。

 国内で本格的に貨幣が鋳造され貨幣制度が整えられたのは、1601年以降に家康によって金貨、銀貨が鋳造されてからである。しかし、銭貨が十分な量供給されたのは、1636年に寛永通宝が公鋳されてから。金貨や銀貨といった貴金属製の硬貨に対し、卑金属製(銅貨など)の硬貨を銭貨という事が多い。江戸時代の通貨制度は、慶長期に金銀貨が確立し、寛永通宝によって、三貨制度が確立した。金貨は東日本で価格表示の基本とされ、銀貨は西日本で用いられた。つまり、日本の中に、金遣い経済圏と銀遣い経済圏が存在した。幕府正貨を補うために藩札も発行された。

 遠隔地間の取引・決済のために、手形の利用が一般化した。

 18世紀の市場経済の展開は、二人の先駆者を生んだ。田沼意次三浦梅園である。
 田沼は9代将軍家重のもとで昇進を重ね、家治が10代将軍になってからも栄進を重ねた。1772年には老中・3万石になる。しかし、転落も急であった。1786年に家治が死去すると老中を免ぜられ、家斉が11代将軍になると屋敷と領地2万石が没収された。田沼意次の経済政策は、吉宗の政策に比べて、政策相互に脈絡があり矛盾が少ないとされ、革新的な点が評価されている。
 18世紀になってロシアが日本に接近してくると、意次は1785年に仙台藩の医師工藤平助を松前に派遣して千島・樺太の調査を行なわせた。

 田沼時代に推進された政策は、寛政改革により悉く否定された。意次は、側用人政治・金権政治の権化とされた。しかし、このような批判は、捏造された意次像による事が、大石慎三郎氏らによって明らかにされている。

 もう一人の先駆者の三浦梅園は、豊後杵築藩の哲学者である。この頃、博物学に関する平賀源内の『物類品隲(ぶつるいひんしつ)』(1763年)や医学に関する杉田玄白の『解体新書』(1774年)等が著わされている。梅園は自然哲学の著作で高い評価を得ているが、1773年に執筆した経済に関する著作『価原』においても鋭い観察を行なっている。同時代にアダム・スミスが『国富論』(1776年)を書いているが、『価原』には、アダム・スミスが明示的には論じていない労働供給についても考察されている。
by utashima | 2012-09-21 10:31 | 読書 | Trackback | Comments(0)


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