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『文明としての江戸システム(日本の歴史19)』(鬼頭 宏著)の第5章

第5章 産業発展と生活革命

 「鎖国」という言葉は江戸幕府が使い始めたのではない。ドイツ人医師エンゲルベルト・ケンペルが、長崎の出島商館に滞在した経験を基に、帰国後に『日本誌』を執筆。そのオランダ語版の付録の1章を、志筑忠雄(しづき ただお)が『鎖国論』と題して翻訳したのが、「鎖国」という言葉の初使用である。1801年の事。和辻哲郎は鎖国に対して負の評価を与えたが、ケンペルは鎖国時の日本に対して高い評価を与えている。近年でも、鎖国の評価は論者によって分かれている。

 日本では古くから養蚕が営まれて生糸が生産されて来たが、良質の生糸は中国からの輸入に依存していた。奢侈品である絹織物に対する需要の増大が有り、1630年代には年間20万kg前後の生糸がマカオからポルトガル船により輸入された。輸入生糸の対価として支払われたのは銀であった。朝鮮から導入された「灰吹法」と呼ばれる精錬技術により、銀の産出量は大きく伸びた。17世紀初期には、世界全体の銀の生産高の1/2に近い量を日本で生産していた。

 1645年に俳人の松江重頼(京都の旅宿業者)は、俳諧手引書『毛吹草』を刊行。季語などと並んで諸国の特産物を書き上げた巻がある。醤油が山城と和泉の特産物として記載されている。京都で発祥した醤油が紀州湯浅で商品化され、江戸初期に紀州漁民により下総の銚子へ伝えられた。ウィキペディアに、「日本国外への醤油の輸出は1647年にオランダ東インド会社によって開始された。伝承によればルイ14世の宮廷料理でも使われたという。」と書かれている。焼酎については、慶長期に中国人やヨーロッパ人が伝えたとする製法の記録がある。

 家康は1590年に摂津佃村から漁師を呼び、江戸に住まわせて将軍家に鮮魚を納めさせた。1644年に隅田川河口洲を埋め立てて佃島を造り、摂津漁民の定住地とした。浅草海苔は江戸生まれで最初に上方に流通した商品である。

 農民は、非農業生産も行なっていた。農業は五公五民に近い年貢率であったが、非農業に対しては2%に満たない負担であった。合わせて、年貢率は25%程度であった。

 江戸システムは、自然と調和したシステムというイメージがあるが、環境汚染や環境破壊も各地で起きていた。
by utashima | 2012-08-07 10:06 | 読書 | Trackback | Comments(0)


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