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『文明としての江戸システム(日本の歴史19)』(鬼頭 宏著)の第3章

第3章 人口にみる江戸システム

 8代将軍吉宗は1721年(享保6年) に、「子午改め(しごあらため)」と呼ばれるようになった人口調査を開始した。武士を除く諸階層の人口を、子年と午年に6年毎に定期的に調査するもの。それによると、江戸時代中・後期125年間(1721年~1846年)の人口増加率は3%、年率では0.03%にも達しない低さであった。幕府調査で把握されなかった人口は、明治初期の人口との比較から、約20%と考えられる。そうすると、1721年の全国人口は約3128万人、1846年では約3229万人と考えられる。
 江戸時代前期(1600年頃)の人口は、別の方法で推計するしかない。幾つかの推計がなされているが、著者は1500万人~1600万人であろうと考えている。

 江戸前期は著しく人口が増加した時代だった。1600年から1721年(享保6年)までの増加率は、年率約0.56%となる。125年間で1550万人から3128万人に増加したとして計算した。

 エリザベス1世(1533年~1603年)やシェークスピア(1564年~1616年)が活躍し、勢力を世界に伸ばしたイングランドでさえ、16世紀半ばから17世紀半ばの人口増加は、年率0.5%でしかなかった。その間の人口は、約300万人から約500万人への増加であり、江戸時代の日本は人口においてイングランドの数倍も大きかった。

 江戸時代前半の人口成長は、何が原因だったのか。有力な理由は、市場経済の全国への拡大と社会各階層への浸透である。内戦が終了して平和になり、社会のエネルギーが破壊から建設へ向かう事で、人口増加と市場拡大が正のスパイラルによって相互に刺激しあったためであろう。

 農村では、親子三世代からなる直系家族が一般化し、人口が増加した。それ以前には、平均世帯規模が7名に近い農業経営であった。世帯規模の大きい農家には、名子・下人などの隷属者が多かった。隷属労働者や傍系親族を同居させて大規模経営を行なうより、直系家族から成る労働集約的経営が有利と判断された。アダム・スミスは『国富論』の中で、作ったものが自分のものにならない労働力は、勤勉には働かないのでコスト高である、と述べている。
 人口増加の要因として死亡率の低下も認められる。稲の品種改良や耕地の改良によって、裏作としての麦作が拡がり、恒常的な飢渇から人々を救った。

 江戸中期になると、人口は停滞する。その理由として、「小氷期」という寒冷化により頻繁に飢饉が起きたためと言われて来た。しかし、それ以上に、出生率にブレーキが掛かるようになった事が重要である。意図的な出生抑制が江戸時代中期の出生率低下の理由として重要である。堕胎や嬰児殺しが行なわれたと考えられる。多くの藩領で堕胎・間引きを禁ずる法令が出されている。
 子供数を抑制する方法として間引きのような荒々しい手段だけでなく、長期間の母乳哺育が医師により薦められていた。母親が授乳すれば排卵が妨げられ、次の妊娠を遅らせる事に気付いていた。現在、開発途上国で推進している事を日本では元禄期に実践していた。
 江戸時代の研究を行なったアメリカの経済史学者トーマス・C・スミス氏(2004年に87歳で亡くなっている)は、出生率の抑制は貧しさ故に行なわれたのではなく、将来の生活水準の低下を招く事を避ける目的で計画的に行なわれたと解釈している。産業革命前夜のイングランドでも出生抑制が行なわれていた。出生抑制が可能になった背景に、幼児死亡率の低下があった。

 幕末になって全国人口は再び増加に転じた。
by utashima | 2012-07-09 21:53 | 読書 | Trackback | Comments(0)


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