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『開国と幕末変革(日本の歴史18)』(井上勝生著)の第4章

第4章 開国と外交交渉

 1853年6月3日、サスケハナ号(2450トン)を旗艦とする4隻の艦隊で、ペリーが浦賀に来航。この頃の国際法(近代国際法)は、今の国際法(現代国際法)とはさまざまな点で違っていた。例えば、民族自決権を欠き、欧米諸国だけに構成員を限定し、戦争権も認めていた。

 近代国際法は、世界の国々を、文明国、半未開国、未開(国とは認めていない)の三群に区分していた。文明国は、欧米の国家群のこと。半未開国はトルコ、ペルシャ、シャム、中国、朝鮮、日本等を指した。その他の未開は、無主の大地と定められ、文明諸国の「先占」の対象と規定された。これにより、近代国際法では、征服・占領が合法化された。

 ペリーは浦賀沖停泊の翌日(6月4日)、測量船に江戸湾内に入るように命じた。測量船が攻撃を受けたら掩護できるように、もう一隻の蒸気軍艦ミシシッピー号の大砲の射程外には行かない様伝えていた。ミシシッピー号はサスケハナ号より一回り小型(1692トン)の外輪式蒸気フリゲート艦。大砲12門。19世紀初めには、大型の戦列艦には4000トンクラスが登場し、中頃には9000トンクラスのスクリュー式軍艦も登場。一方、日本の千石船は100トンクラスであった。

 ミシシッピー号は江戸湾の奥深くに侵入、羽田沖1.3kmに迫った。パクサンズ型の滑腔大砲の有効射程距離は3カイリ(約5.6km、当時の領海範囲)をはるかに超えていた。江戸城も竹芝沖から射程に入る。サスケハナ号に乗艦した中島三郎助(浦賀奉行の与力)は、新型大砲の知識があり、船員に「これはパクサンズ砲ではないのか。射程は・・・」と尋ねている。

 ペリーは国際法に依拠した対応を貫くと述べていたが、彼の江戸湾での行動は、以下に記すように、当時の近代国際法に全く適わないものであった。当時の領海は3カイリ。そして入り口が直線距離で6カイリ(約11.1km)より狭い湾・内海は「内水」と決められていた。「内水」は領海であり、領土と同じ扱いである。江戸湾の入り口、観音崎と富津の間は約7kmなので、江戸湾は「内水」であった。ミシシッピー号が江戸湾の中に侵入した時、中島三郎助は追尾して「内海に乗り入れ候儀は、相成り難し」と抗議している。

 ミシシッピー号が江戸湾に侵入した時の様子(日本の45隻ばかりの番船がペリーの測量船を阻止しようと対峙)は、ベリーに同行した画家ハイネの水彩画に残されている。画家ハイネは記録を残すために派遣された。

 6月6日の第一回の測量船内海侵入によって、幕府は大統領の国書を受領する事を決断した。6月9日、幕府は久里浜で大統領の国書を受け取った。そしてペリーは来年の再来航を予告して中国へ去った。

 ペリーは翌年1月に7隻の艦隊で江戸湾内海の西岸に入り、横浜で日本側との正式交渉を実現した。日本側の全権代表は林復斎であった。通説では、林復斎の外交姿勢は、無知・無能と言われてきたが、著者はそうではなかろうと述べている。ペリー側の論理の「無理」を見事に突いた反論を行なっているからである。林復斎は、ペリー来航前の1850年から林家の当主として対外交渉史料集『通航一覧』の編集を主宰し、ペリー来航直前に完成させていた。著者は、偏見を排して幕府外交を評価する必要があると述べている。

 1854年3月に日米和親条約が締結された。第9条に不平等な片務的最恵国待遇が書かれている。

 ペリー来航時は、阿部正弘が老中首座であった。第1回ペリー来航直後の6月下旬に12代将軍家慶が死去し、家定が継承した。家定は極めて病弱であった。家定は、篤姫が嫁いだ相手である。阿部は、幕臣の人材登用も進め、筒井政憲、川路聖謨、水野忠徳、岩瀬忠震、勝麟太郎ら開明派能吏が起用された。

 ペリー来航計画を知ったロシアは、プチャーチンを遣日全権使節として派遣し、4隻のロシア艦隊が長崎に入港。ペリー来航の凡そ1ヶ月後である。日本とロシアの国境を定める事、通商を始める事、日本の国法を守る事を伝えた。この頃の日ロ関係は良好であった。日ロ交渉はクリミア戦争の勃発により中断。1853年12月にプチャーチンは再来航し、下田で日ロ交渉が再開され、1854年12月に日露和親条約が結ばれた。択捉島とウルップ島の間を国境とし、サハリン島はこれまで通り両国民の混在の地とされた。

 上記のクリミア戦争は、1853年10月にトルコがロシアに宣戦布告した事から始まった。英仏もロシアに敵対して、1854年2月に参戦した。日米和親条約は、その3日後に締結されている。1854年8月、長崎と函館の開港を認めた日英条約を結んだ。

 日ロ交渉が再開された直後の1854年11月、安政大地震が発生し、下田港は大津波に襲われた。ロシアの軍艦ディアナ号は、津波に流される日本人を救助したが、修理のために回航する途中で沈没した。

 アメリカのタウンゼント・ハリスが、日米和親条約の規定に基づいて、1856年に駐日総領事として下田に着任した。ハリスは江戸に赴き、家定と老中堀田正睦を訪問。通商と外交官駐在について2時間に及ぶ大演説を行なった。幕府は、演説内容を詳細に公式記録として書き留め、2日後、江戸城評定所で幕閣と海防掛の全員が対応を巡って評議をしている。慎重派である勘定奉行と、積極派の目付らとの間で意見が対立。勘定奉行たちは、ハリスの演説内容を幕府の持つ外交情報と突き合わせ、2日間で点検して上申した。その中で、ハリスの演説内容に幾つかの偽言がある事を証明している。老中堀田は、積極開国路線でなく、勘定奉行たちの「やむをえず」開国という上申を採用した。

[私(歌島)の補足]
 サスケハナ号に、尾道市(生口島)の農民の倉次郎が乗っていた事が、こちらのサイトに書かれている。

 ペリー来航時の画家ハイネによる水彩画を、以下のサイトで見る事が出来る。
(1)雄松堂サイト
(2)ハイネの残した4枚のスケッチ

こちらのサイトでは、画家ハイネによる「世界周航日本への旅」、「日本遠征のグラフィック・シーン」について書かれている。

[追記(2012年5月6日)] (ロシア軍艦ディアナ号沈没後、ウィキペディアより)
 1854年、ロシア海軍士官時代であったアレクサンドル・モジャイスキーは、プチャーチン提督による開国交渉のロシア艦隊の旗艦ディアナ号に同乗していた。ところが安政東海地震による津波で乗船は大破、修理のため向かった戸田への回航中に嵐に遭い宮島村(現、富士市)沖で沈没してしまった。一行はやむを得ず戸田に滞在し、モジャイスキーの設計の下、帰国のための帆船を建造することになった。
 戸田には宮大工の上田寅吉を初め、数多くの船大工が集められ、モジャイスキーの指導の下、日本初の外洋帆船として建造された船は、プチャーチン提督によりヘダ号と名付けられた。日本の西洋型造船の嚆矢と言われ、複数が建造された同型のスクーナーは、戸田村のある君沢郡にちなみ君沢形(くんたくがた)と呼ばれた。
 戸田村造船郷土史料博物館には日本最古の銀板写真であるモジャイスキーの肖像写真と、彼がディアナ号の船内で製作した模型飛行機の写真が展示されている。
 なお、アレクサンドル・モジャイスキーは、蒸気エンジンを搭載した飛行機を製作し、1884年に飛行実験を試みた事で知られている。これは、(知られている限りでは)フランス人デュ・タンプルの実験に次ぐ史上二番目の有人動力飛行の試みであった。
by utashima | 2012-05-04 21:35 | 読書 | Trackback | Comments(0)


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