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『成熟する江戸(日本の歴史17)』(吉田伸之著)の第2章

第2章 社会的権力--豪商と町
 近世社会において、在地社会における村方地主と、都市域の有力商人=大店層を、社会的権力として想定できる。

 幕府は、享保改革の時期に、それまでの方針を変え、質地集積を容認し、質地地主化した村方地主が在地社会を統括する力量を有する事に着目し、彼らを支配機構の末端に組み込み、重要な役割を担わせる事にした。このような背景の中、質地地主層は18世紀後半に急激に豪農に変態を遂げてゆく。
 次に、都市域における有力商人を社会的権力という点から見る。社会的権力となった大店(おおだな)と呼ばれる有力商人が、いつ成立したかはまだ充分に解明されていないが、三井越後屋の事例から見て、少なくとも京都では17世紀中頃が一つの画期をなすと考えられる。17世紀末~18世紀前半には、三都をはじめとする全国の諸都市域において、大店が一般的に形成されたと推測できる。

 以下では、三井越後屋を大店の事例として取り上げる

 『煕代勝覧』の画面のほぼ中央に、超大店となった三井越後屋が描かれている。三井家は、江戸、大坂、京都において大量の町屋敷を抱えていた。江戸に80~100ヶ所、大坂に十数ヶ所、京都に80~90ヶ所。これらの大半は、地借・店借に賃貸された。三井家の骨格は、17世紀末までには確立していた。

 三井高平が1722年に記した「家伝記」と、ほぼ同時期に三男高治が著した「商売記」と呼ばれる創業の記録が、三井家の主な研究史料である。三井家は越後守高安(1610年没)を家祖とする。この人物は、近江の佐々木六角氏の家臣で、一城の主であったとされる。1568年に六角氏が滅亡後、浪人となり、伊勢に移住し、蒲生氏郷によって建設された城下町松阪に来て、治郎右衛門を名乗ったという。三井家にとっての町人の始まりである。しかし、これらがどこまで事実かは疑問という。

 高安の後、長子の高俊が後を継ぐが、彼は連歌・俳諧などにうつつをぬかし商人としての事績は伝わっていない。しかし、高俊の妻、殊宝(じゅほう)が質・酒・味噌・茶・煙草などを商い、若くして後家になった後に、天性の「商心」を発揮し、その頃から越後屋の屋号を用いる。殊宝は多くの子供を産み、後の三井各営業店を生み出す源となった事から、「商売記」では「三井家商の元祖」と称賛している。

 高俊と殊宝の間には4人の男子と4人の女子が生まれた。高俊の後、三井の総領家を継いだのは、長男の俊次(1673年没、66歳)である。寛永年間(1624年~1644年)の初め、俊次は三井一族として初めて江戸に進出した。場所は本町4丁目。小間物店。この店はやがて呉服店に変わり、また本町1丁目、2丁目にも呉服店を開設する。その後京都に移り、江戸向けの呉服などを仕入れる店舗を御池町に設置し、その後、三条室町に居住した。

 高俊の四男の高利は松阪に生まれ、1635年に江戸に出て、兄俊次の4丁目店に勤務する。当時14歳。28歳の時、母の面倒を見るために松阪に帰る。50歳を超えるまで、松阪で金融業などを営む。高利には男10人、女5人の子供があった。長男から四男まで、江戸に出て俊次の呉服店で勤務した。高利らにとって、総領家である兄俊次の権威は絶対であり、本家支配からの離脱は容易ではなかった。

 1673年7月に俊次が亡くなると、51歳になっていた高利は江戸に長男高平を送り込んだ。高平は本町1丁目の鍵屋嘉兵衛の店の後を借りて営業を開始。高利自身は京都に出て、長男高平を江戸から呼び寄せ、室町通二条下ル蛸薬師町東側の丸屋重兵衛の店舗の後を借りる。これを仕入れ店とした。俊次死後の高利の行動は非常に迅速且つエネルギッシュで、高利がこの機会を長い年月ひたすら待っていた事が窺える。この江戸と京都の小さな店舗が、近世最大の商人・三井越後屋の誕生を告げる巨大な一歩となる。三井越後屋は当時一般的な掛け売りでなく、安く売れる現金払いの方式を始めて、繁盛した。

 「商売記」に、呉服仲間から営業妨害を受けた話が記載されている。福井藩主の松平家に、出入りの松屋より安く売った事が原因。大事な得意先を奪われた松屋は、本町、本石町の呉服屋と連携して、三井との取引を停止し、仲間外れとした。三井は、京都からの仕入れルートを確保し、密かに近隣の駿河町の売り家を購入して引っ越す(1683年)などして、この苦境を乗り切った。
 三井は、いつ頃からか両替業にも進出した。そして、幕府の御用商人としての地位を獲得し、一層の飛躍を遂げる。

 高利は1694年に自らの死期を悟り、以下の内容の遺言を残す。「高利の子供達による兄弟中という共同組織を作り、巨大な遺産を分割せずに、呉服と金融を軸に三都を中心に活動するように。」

 三井越後屋は本拠を京都に置いていた。京都に初めて進出したのは、江戸の本町1丁目に小店舗を開設したのと同時の1673年。最初は室町通二条下ル蛸薬師町東側に店を持ったが、1704年に、蛸薬師町の北隣、冷泉町西側に京本店を移設した。そして、享保年間までには京都市中でも最大規模の地主となる。三井のような巨大な社会的権力の登場により、初期の町を彩った小規模な町人が次々と消滅する。
by utashima | 2012-01-26 20:56 | 読書 | Trackback | Comments(0)


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