第4章 徳政一揆
足利義勝の継嗣が確定した1441年8月、京都周辺の土民らが債務破棄を求めて土倉(どそう、金融業者の事)を襲撃した、「
嘉吉の徳政一揆」が起こった。借金未済の質物や売却した土地をただで取り戻そうという、現代人の目から見れば理不尽この上ない行為が平然と行なわれ、徳政の名で呼ばれたのが、中世であった。この徳政という観念について、解明の糸口が見えてきたのはごく最近の事。中世人は、「あるべき所に戻す政治こそが、徳政の本質である」と考え、百姓たちは、土地は「本主のもとに取り戻す事によって生命をよみがえらせ、本来の姿に帰る」と考えていた。つまり、売買・質入れ・寄進などの移転行為を経てもなお消滅しない本主の権利の根強さ、それが徳政一揆の要求に正当性を付与していた。
また、新たな将軍の代が始まると、前将軍の時代に形成された諸関係が清算されるとも考えていた。
徳政一揆・徳政令の背景には、上記の本主の権利思想の他に、中世に広く存在していた有徳思想(富者は貧者を救うべし)もあった。