第3章 「無為」と「外聞」
将軍家家督を継承した義教が真っ先に着手したのは、義持時代の例を廃して、義満時代の旧儀に復する事だった。義持時代に失脚した人々を名誉回復した。義教には兄義持を嫌悪していたところがあったが、義教の政治顧問であった三宝院満済によって誘導された部分もあった。
義教時代の訴訟においては、殆どが原告勝訴であった。義教にとって裁判の迅速化は、公正さを犠牲にしてでも優先しなければならない事だった。義教は、尊卑・親疎によらず公正に審理を行なうよう奉行人たちに厳命しているが、義教が目指した奉行人たちの意識改革は失敗に終わる。義教は次第に精神を病んで行き、暴君へと変貌していく。義教によって処罰を受けた人々の数は、ゆうに200名を超える。「万人恐怖の世」であった。義教は年を追う毎に凶暴性を増した。持病である精神疾患の悪化もその一因であるが、義教の暴走を食い止めてきた畠山満家が1433年に世を去った事の影響も大きい。満家の死によって義教政権は理性を失い、迷走して行く。
1433年7月に山門延暦寺が光聚院猷秀(こうじゅいんゆうしゅう)の不正を訴えて嗷訴(ごうそ)を起こした。猷秀から賄賂を受け取って便宜を図った近習赤松満政と山門奉行を糾弾した。嗷訴に激しい嫌悪感を抱いていた義教であったが、猷秀と山門奉行の流罪を認めた。すっきりとは解決しない状況の1434年頃、山門と関東公方とが通謀しているとの噂が広まった。義教は、山門に対して経済封鎖を行なった。1435年にこの山門騒動は悲劇的な幕切れをみせた。関東管領の上杉憲実は、関東公方の足利持氏の野心を機転と諫言によって抑えてきたが、1437年に持氏が憲実の討伐を企てた。両者の戦いに、義教が憲実を支援して参戦し、
永享の乱が勃発。1438年である。翌1439年に終了。
1440年には下総の結城氏朝が足利持氏の遺児を擁して挙兵。
結城合戦の始まり。1441年6月24日には、
嘉吉(かきつ)の変が起きた。赤松満祐親子が戦勝祝賀と称して義教を自宅に招き、猿楽と酒宴でもてなした。宴たけなわの頃、義教の背後の障子が開いて甲冑の武者数十人が乱入し、義教の首をはねた。この事件は諸大名との共謀が疑われたが、赤松父子の単独犯行と考えるべきだろうと著者は書いている。貞成(後花園天皇の父)は、義教の満祐討伐の意図を知った満祐側が先手を打ったと書いている。
嘉吉の変の翌日、諸大名は評定会議を開いて義教の長子で8歳になる千也茶丸(ちやちゃまる)を継嗣に決定し、管領細川持之が政務を代行することになった。8月には足利千也茶丸は元服して義勝と名乗る。この名前は、後花園天皇が選んだ可能性が高い。