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『室町人の精神(日本の歴史12)』(桜井英治著)の第2章

第2章 「神慮」による政治

 1394年12月、足利義満は征夷大将軍を辞任して、9歳の嫡子義持に譲り、自身は太政大臣にのぼった。義満は、1393年の後円融上皇の死をきっかけに、上皇の待遇で迎えられるようになっていた。1395年、義満は太政大臣をやめ出家して道有と名乗った。父義詮の享年である38歳に達したから出家したようだ。12月に法名を道義に改め、洛中の室町亭から洛北の北山亭に移った。1400年の義持判始後も義満は北山亭で政務をとり続けた。

 義満は、日野業子(なりこ)、日野康子を大事にしたが、二人とも子供に恵まれず、義持・義教という二人の将軍の母であった藤原慶子(のりこ)は、寂しい晩年を送った。1399年に慶子が亡くなった時、死去の当日にも中陰仏事の日にも義満は姿を見せず、酒宴を開いて飲んだくれていた。若い義持は黙々と幸薄い母親の仏事に足を運んだ。

 義満の義持に対する愛情は日毎に薄れ、異母弟の義嗣が寵愛を一身に受け始める。義嗣は僧になるために山門梶井門跡に入室していたが、1408年、義嗣15歳の時、我が子に魅せられた義満は、門跡から取り返し、自分の手元に置いた。代わりに、義教(15歳、後の6代将軍)が出家させられた。誰もが、義持の廃嫡を確信したが、1408年5月に義満が51歳で急死した。義満は後継者を指名していなかったが、幕府の重鎮斯波義将(よしゆき)の判断で義持があらためて家督に決定した。義持23歳。なお、義持と義嗣は犬猿の仲であった。

 その後数年間は平穏な日々が続いた。義持と義嗣もしばしば連れ立って出かけたりもしていた。ところが、関東で勃発した上杉禅秀の乱が義嗣の運命を狂わす。関東では、1409年に足利満兼が没し、12歳の嫡子持氏が関東公方を継いだ。1416年10月、前関東管領上杉禅秀が、持氏の叔父や弟と結んで持氏を襲った。持氏から支援を求められた義持は、持氏支援を決めるが、その直後に、義嗣が出奔し、間も無く京都北西の高雄に潜んでいるところを発見された。幕府は、義嗣が上杉禅秀らと結んで義持の打倒を企てたと断じた。義持の近習富樫満成(みつしげ)らが、義嗣に従っていた者たちを拷問にかけた。その結果、義嗣の内通者として数人の大名の名前が挙げられた。禅秀の乱は1417年に終結したが、義嗣一党に対する追及は密かに続けられ、1418年に義持は富樫満成に命じて義嗣を殺害した。
 事件はこれで終わらず、畠山家の人々にも義嗣共謀の嫌疑が持ち上がった。京都は不穏な空気に包まれたが、1418年11月の富樫満成の失脚で幕切れを迎えた。満成は義持の命を受けた畠山満家によって謀殺された。

 この義嗣の事件は、謎に満ちたものであった。禅秀が義嗣を誘った可能性は極めて低いといえる。有力守護達は、幕府の安泰のために義嗣の抹殺を図り義嗣をそそのかしたのであろう。義持の内命があったかも知れない。ところが、富樫満成が必要以上に真実を穿り出してしまった。これが真相ではないかと著者は書いている。

 後小松上皇は、1412年8月に12歳の皇子(称光天皇)に譲位し、院政を開始した。称光天皇の行状は芳しくなかった。生来の武芸好きで太刀や弓を弄び、近臣や女官らが意に背こうものなら、弓で射る等の事を平気でする乱暴者であった。義持は、1416年に廷臣たちに終日天皇を監視させる体制を敷いた。

 1416年、崇光法王の皇子で、後円融天皇と皇位を争った栄仁(よしひと)親王が世を去った。栄仁の生涯は苦渋に満ちたものだった。父の崇光法王が1398年に没した時、義満は、その遺領をことごとく栄仁から奪って後小松天皇に与えた上、栄仁を出家させて皇位の望みを断った。栄仁親王のあとを継いだのは、治仁王であった。弟に貞成(さだふさ)王がいたが、二人は同母兄弟ながら仲が悪かった。貞成は素行不良の兄を相当憎んでいた。1417年に治仁王が急死した。貞成と二人きりになった時に急に苦しみだし、絶命した。そして、貞成の継嗣が確定した。貞成46歳。貞成による毒殺の嫌疑がかかったが、事件の真相は今日もベールに包まれている。義持は後小松上皇という人間を評価しておらず、義持は貞成と親密の度を深めていく。

 後小松・称光父子に関するエピソードはあげればきりがないが、いずれも芳しいものではなく、歴代天皇の中でこれほど凶暴性をあらわにした親子というのも珍しい。

 1423年3月、義持は38歳で将軍職を嫡子義量に譲り、自身は出家した。しかし、義量は1425年に19歳の若さで没した。

 1419年6月20日、1万7千余の朝鮮軍が対馬を急襲した。朝鮮軍は民家約2000戸を焼き払い、100名以上の島民を殺害した。朝鮮軍も100名以上の兵を失い、約2週間後に撤兵した。この事件を、応永の外寇と呼んでいる。朝鮮側の目的は、対馬を本拠地とする倭寇の殲滅にあった。

 義持は、自分の後継者の決定も神慮に委ねた。1428年正月7日、義持は風呂場で尻のおできを掻き破り、それが悪化して起居もままならぬ状態に陥った。義持には実子がなく、4人の兄弟がいた。義持は誰に継がせるか指名しない。結局、4人の兄弟の中から籤で決める事になった。ただし、義持は、籤の実施は、自分の死後にせよとの条件を付けた。義持は1428年正月18日に亡くなった。籤に当たった青蓮院義円が1429年3月に将軍宣下を受けて、義教(よしのり)と改名した。

 1428年7月、称光天皇が重体に陥った。南朝の小倉宮が皇位奪還を狙って伊勢に出奔、伊勢国司の北畠満雅と合流した。関東公方と伊勢国司が通謀しているとの噂もあり、義教は最大の危機を迎えた。当面の課題は皇位継承を円滑に運ぶことであり、貞成親王の子の彦仁王を選び、践祚する事で事なきを得た。後花園天皇である。
by utashima | 2010-08-30 20:51 | 読書 | Trackback | Comments(0)


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