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『蒙古襲来と徳政令(日本の歴史10)』(筧 雅博著)の第6章

第6章 両統迭立の日々
 天皇家は、第一次モンゴル襲来の翌年、1275年11月から約50年間、分裂する。前年に即位した後宇多天皇(亀山上皇の子)の皇太子に、後深草上皇(亀山の兄)の子、熙仁(ひろひと)親王が立った。鎌倉幕府による裁定である。以後50年余りの間、亀山の系統から3人の天皇(後宇多、後二条、後醍醐)が、後深草の子孫から4人の天皇(伏見、後伏見、花園、光厳)が、ほぼ入れ代わり皇位に就く。鎌倉幕府の申入れにより、皇位が別の系統に移った。幕府の首脳部は、異国との戦いに備え、天皇家の力を温存しておきたかったのであろうと、著者は書いている。

[天皇暗殺未遂事件]
 1290年3月の夜、内裏が鎧を付けた3人の武者に襲われた。1287年10月に後宇多天皇から伏見天皇への皇位交代が幕府から伝えられ、1289年4月に伏見天皇の子を皇太子とするよう、幕府が申し入れた後である。
 天皇は、女房姿に身をやつし、母の居所へ逃れた。皇太子も中宮の女房に抱かれて、後深草上皇の御所に避難した。3人の武者は、逃げ惑う天皇や中宮、皇太子と入れ違いの形で、夜の清涼殿のそこかしこを開けたてながら、天皇の寝所を目指していたのであろう。間一髪のところであった。3人の武者は、自害して果てた。

 主犯は浅原為頼、残る二人はその子と弟であった。為頼は、霜月騒動の余波で所領を失い、諸国をさすらっていたと思われる。浅原自害の太刀は、亀山法皇の側近、三条実盛の家に伝わる宝剣だった事が分かり、容易ならぬ状況となる。三条実盛は六波羅探題に捕えられ、関東に送られたとも伝えられるが、その後の消息は分からない。
 伏見天皇は、亀山法皇の介在を主張し、六波羅へ法皇の身柄を移すべく求めたが、後深草法皇はこれを取り上げず、事件は亀山が全く関知していない旨の起請文を鎌倉に送って落着した。実盛の身柄が六波羅に拘束された翌月、後深草、亀山兄弟は、共に嵯峨殿を訪れ、二人の生母、大宮院を見舞った。そこで関係修復がなされたであろう。

 なお、天皇及び皇太子の身を守ったのは、三条実盛の娘であったらしい。史料によると、彼女の子息達が朝廷において異例の速さで昇格している。朝廷の人事権を掌握していた伏見上皇が、破格の昇進によって、かれらの母の功に報いようとした。
by utashima | 2010-04-24 17:34 | 読書 | Trackback | Comments(0)


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