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『蒙古襲来と徳政令(日本の歴史10)』(筧 雅博著)の第4、5章

第4章 時代の基本律を探る

 鎌倉時代の東国においては、年紀法と呼ばれる訴訟の世界の基本律があった。それは、「所領を現実に我がものとして20年が過ぎておれば、相手側が十分な証拠を持って現れても、所領は取り上げられない。」というもの。しかし、京都方にとっては受け入れがたいものであった。この年紀法は、漢民族の法習慣が、北九州や畿内を飛び越えて東国の武士社会に伝播した可能性があるらしい。


第5章 岐路に立つ鎌倉幕府--弘安の役から平頼綱誅殺まで--

 1281年6月、元・高麗連合軍が再び博多湾を襲った。幕府側は、事前に海岸に沿って延々と続く高さ一丈三尺(約3.9m)の石築地(いしついじ)を構築しており、彼らは上陸を断念し、志賀島に900艘の船団を停泊させた。日本と元の間での戦闘は、約2ヵ月間続いた。7月30日深夜から暴風雨が北九州沿岸海域を襲った。元船団主力の殆どが沈没、破壊され、兵士たちは戦意を失った。日本側の夜襲に備えて船を互いに繋いだ事が、被害を大きくした。

 元王朝は、日本遠征を放棄せず、高麗南部の多島海に兵力を集中すべく準備を始めた。幕府側も第三次の来襲を想定していた。幕府が臨戦体制を一応解くのは、第二次来襲から15年後の事である。

 1284年4月、北条時宗が世を去った。時宗の弟の宗政は既に1281年に死去している。34歳。この後、六波羅探題に勤務していた時国が任を解かれて鎌倉に戻され、囚われの身となって誅殺された。時宗の死との関係は不明。7月に時宗の子の貞時が14歳で執権に就く。この頃、北条嫡流家の人々は、殆ど年少者ばかりであった。兄の時輔が京で討たれた時、その子は炎上する探題邸をのがれ、12,3年間各地を転々とした。しかし、その後捕えられ、首をはねられた。1290年の事。

 時宗の喪明けから翌年にかけて、幕府は多くの法令を発した。法制定の主体は、安達泰盛と考えられる。予想される第三次の元襲来に備えて、幕府中枢部を引き締めようとしたらしい。また、鎮西諸国に対する幕府の支配権をより強固にしようとした。第2次襲来時の恩賞をどうするかも大きな課題だった。神社関係者に対しては、沽却地(こきゃくち、売却した土地)の還付を行なった。多くの社の職員達は、社領を質に入れたり沽却したりしていた。これらの社領を関東の権威をもって元に戻した。戦いに臨んだ人々に対しては、本領安堵の御下文(おんくだしぶみ)を交付した。

 1285年12月14日に霜月騒動が発生。残念ながら、当日の詳細を伝える史料は無い。当時、安達泰盛と一方北条氏得宗家の執事内管領であり得宗権力を具現する立場にあった平頼綱とは、対立する関係にあり、両者の調停役であった時宗の死後、対立が激化する。平頼綱方の先制攻撃を受けた泰盛とその一族が滅ぼされた。これを霜月騒動という。

 1285年秋、第三次日本遠征計画の準備のため、200艘の船団が高麗半島の南端に集まる。史料の伝える所によると、この三度目の侵攻が最も恐るべきものであったらしい。1286年1月、日本侵攻計画は中止された。著者は、前年の皇太子真金(チンキム)の突然の死が大きく影響しているのでは、と記している。

 平頼綱の時代は約7.5年続いた。頼綱や彼の子息たちが、霜月騒動で滅んだ人々の地位を、そのまま引き継ぐ事は出来なかった。1293年4月、頼綱屋形に得宗の意を受けた討手が向かい、合戦の末、頼綱・助宗父子は自害した。頼綱の死命を制したのは、安東一族をはじめとする得宗御内の人々であったと思われる。北条貞時(時宗の子)の時代が始まる。
by utashima | 2010-04-17 20:32 | 読書 | Trackback | Comments(0)


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