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『律令国家の転換と「日本」(日本の歴史05)』(坂上康俊著)

 この巻は、8世紀末~10世紀初めの日本の歴史を扱っている。中心は9世紀、初期平安時代である。読み終えて印象に残っているのは、権力(天皇の地位)を握るための多数の策略や事件(変)である。

 770年10月1日、天智天皇の孫の白壁王が、光仁天皇として即位。62歳。約1ヶ月後、妻の井上内親王(聖武天皇の子供)を皇后とし、その子供の他戸親王を皇太子に定めた。

 然しながら、藤原良継や藤原百川らは、光仁天皇の後継者を暗黙裡に山部親王に決めていたらしい。772年3月2日、井上皇后は天皇を呪詛した疑いをかけられて皇后の地位から下ろされ、5月には他戸親王も廃太子となった。773年1月2日、山部親王(37歳)が立太子。廃された井上と他戸は、幽閉された後、775年4月の同じ日に殺された。なお、山部親王の母は、百済系渡来人の娘であった。この一連の悲劇は、藤原百川によって仕組まれた冤罪であったらしい。

781年4月、山部親王は光仁天皇の譲位の後、即位し、桓武天皇となる。

 桓武天皇は781年の即位の時、弟の早良親王を皇太子に立てる。著者は、天智(兄)と天武(弟)の関係を想起させ不吉という。桓武天皇には774年に安殿(あて)親王が誕生していたが、まだ幼い。783年に桓武天皇は安殿(あて)親王の母を皇后とする。この時点で、早良皇太子の立場は微妙になる。785年に、長岡京の造営を進めていた藤原種継が、矢で射抜かれて翌日死亡。早良皇太子支持派の犯行と分かり、早良親王も幽閉され、1週間水分も与えられずに衰弱死させられる。

 種継暗殺の処理が終わった後、785年11月、安殿(あて)親王が皇太子となる。しかし、788年5月に藤原旅子(桓武の側室)が、789年12月に桓武天皇の母が、790年に安殿皇太子の母(桓武天皇の皇后)が、立て続けに亡くなる。792年に皇太子安殿が病床に伏すことになり、桓武は長岡京の造営を断念する。早良親王の祟りが原因とされる。

 794年、今の京都の地 平安京に遷都する。暫く平安の日々が続いたが、皇太子安殿の心身の不調が心配なため、800年に故早良親王に崇道天皇の号を送り、故井上内親王も皇后に復する処置を取る。桓武天皇が処分した人たちの怨霊を鎮めるためである。また、安殿皇太子は、皇太子妃の母であった種継の娘薬子とも関係を持っていた。

 806年、桓武天皇は70歳で死去。すぐに皇太子安殿が即位し、平城天皇となる。自分と同じ母の弟の神野親王を皇太子とする。

 807年、伊予親王事件が発生する。藤原宗成が桓武天皇の皇子の一人である伊予親王に謀反を勧めた事件。これが発覚し、伊予親王とその母は、幽閉され、飲食を止められた後、毒で自殺する。伊予親王は、桓武天皇に好かれていたらしく、平城天皇の過剰防衛と考えられている。

 平城天皇は、故早良親王の怨霊だけでなく、伊予親王母子の怨霊にまで怯えるようになり、風病(躁鬱病?)が再発して、809年に譲位する。これを受けて、弟の神野親王が即位し、嵯峨天皇となる。平城の皇子の高岳親王を皇太子とする。しかし、高岳親王の母である伊勢継子に皇太后などの号を与えていないため、高岳親王の位置付けは不安定なものであった。

薬子の変(810年)
 譲位した平城上皇は、譲位した809年に寵愛していた藤原薬子や多数の官僚を連れて平城故宮に移る。当時上皇は詔勅を発出することが認められており、810年9月に上皇は平城京への還都命令を出す。嵯峨天皇はこれに反発し、薬子の兄の仲成を逮捕・監禁し翌日射殺する。上皇は、東国で再起を図ろうとするが、坂上田村麻呂らの軍勢に阻止され、出家する。薬子は毒を仰いで自殺。平城上皇は、その後、51歳まで生きる。

 これまで、上皇と天皇のどちらに究極の皇権があるかが整理されていなかった。権力構造に欠陥があった。嵯峨天皇は、すぐに動いて、上皇を政治の中枢から排除する政治システムにした。

 薬子の変により、高岳皇太子は廃され、桓武天皇と藤原旅子の間に生まれた大伴親王(後の淳和天皇)を皇太子とする。ところが直後に、嵯峨天皇に正良親王(後の仁明天皇)が生まれる。数年後に、正良親王の母を皇后とした。このため、大伴皇太子の立場が微妙なものになった。

 823年、嵯峨天皇が譲位し、大伴皇太子が即位し、淳和天皇となる。無事に天皇にして貰った事と引き換えに、正良親王を皇太子とした。

 淳和天皇は、833年2月28日に譲位する。正良皇太子は践祚(皇位を受け継ぐ事)し、淳和天皇の子供の恒貞親王を皇太子にして、仁明天皇として即位した。その時点の有力な2家系の間で、皇位を持ち回っているが、その家系間の神経戦は相当なものだった。

 842年に嵯峨上皇が死去。淳和上皇はその2年前に死去している。嵯峨上皇の死去の直後に、恒貞皇太子を奉じて伴健岑(とものこわみね)と橘逸勢(たちばなのはやなり)が東国で挙兵、仁明天皇を廃そうとする計画が露見する。この計画に誘われた阿保親王(平城天皇の皇子)が密告して発覚。皇太子恒貞は廃され、藤原良房の甥の道康親王(後の文徳天皇)が皇太子となる。これが、承和(じょうわ)の変

 このように、頻繁に政変が発生している。とても平安とは思えない初期平安時代である。
by utashima | 2009-08-03 21:15 | 読書 | Trackback | Comments(0)


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