計算機の驚異的な発展を世界平和に繋げられないか

 最近の将棋の電王戦では、人間のプロは計算機に苦戦を強いられている。計算機の繰り出す思いもよらない手が、プロ達によって検討されていたりする。このような計算機ソフトは、人間同志の対局で得られた膨大な棋譜データに大きく依存している。

 囲碁や将棋の世界での計算機ソフトの活躍も面白いが、どのようにしたら、世界の国々が種々の対立を乗り越えて平和に暮らせる地球を構築できるかを、計算機の中でシミュレーションしながら探っていく事は出来ないものだろうか。今は出来なくても、10年、100年の時間経過での計算機の進歩は想像を絶するものがあり、この力を真に人類の平和のために生かせないか。

 核融合炉や高効率の人工光合成が実現すれば、人類はエネルギー問題から解放されるかも知れない。しかし、それらが実現したら、人類は更にその先で生存競争を始めそうな気がする。太陽系の侵略である。人類の今後の進化を、計算機の世界で研究できないだろうか。手始めに、1900年頃の世界を計算機内に構築し、その後の変化を、各国首脳の判断や国民感情などをパラメータとして変えて行ってシミュレーションする。計算機内で第一次世界大戦や第二次世界大戦を再現できるか、それらを回避できるパスは無かったのか、などの議論が出来れば面白い。更に、将来の全世界シミュレーションもできるだろうか。その中に、温暖化予測などもその一部として含まれる。
# by utashima | 2014-07-11 12:08 | 囲碁 | Trackback | Comments(0)

ga002 講座『インターネット』の修了証

c0011875_10405726.jpg  gacco(無料で学べる大学講座)の2番目の講座ga002『インターネット』の修了証を頂いた。これも合格ラインぎりぎりだった。試験問題には、選択肢から答えるものと、論文形式のものがあるが、論文形式のものは、ga001の時と同様に回答しなかった。自分の文章を作るには、専門用語をきちんと確認し、曖昧な点を調査でつぶして行かねばならない。この作業が面倒なので、選択肢問題だけで勝負している。従って、受かってもぎりぎりである。

 ga003『国際安全保障論』を6月中旬から受講し、先日試験問題もやり終えた。例によって、論文問題は回答しなかったので、今回は合格ラインに1%足りなかった。しかし、現実世界の安全保障問題を研究者たちはどのように分析しているのかの一端を窺えて面白かった。ちょうど、日本では日本版NSC、集団的自衛権、集団安全保障などの議論が盛んである。
 この講義を受けて、真の世界平和は永久に実現できないだろうという持論に戻ってしまった。世界には世界政府とでも言うべき権力を持つ組織は存在しない。一国の統治もままならない国が少なくなく、世界の未来を示すものかと思ったEUも内実は問題が多い。
 人間も動物の一種であり、動物の世界は弱肉強食の世界である。人類の脳は、まだ弱肉強食から決別する方式を見出せていない。広い宇宙に進化した文明を持つ高等生物がいれば、情報を発信している筈だという考えの下、地球外知的生命探査(SETI)がずっと行われているが、その存在の兆候はまだないようだ。地球外生命の誕生はあると思っている。しかしながら、科学技術の発達はどんどん進んで物凄い兵器などはできそうだが、脳力が世界平和の方向にはあまり寄与せず、結局滅んでしまっているのではないか。

[補足(2014年8月9日)]c0011875_6213195.jpg
 ga003『国際安全保障論』は得点が合格ラインに1%足りないと思っていたら、試験問題にミスがあり、合格ラインが下がって、私も合格し修了証を頂けた。
# by utashima | 2014-07-11 10:41 | パソコン | Trackback | Comments(0)

『世界史再入門』(浜林正夫著、2008年発行)

日本の歴史の本を読んだので、次は世界史をと考えて2,3の本を読んでみた。それらの中で標記の本が、分量も適当であり、私にはしっくり来た。

「まえがき」に以下の様な事が記されている。
 手ごろな世界史の入門書の要望があるが、世界史をどう組み立てるか、なかなか巧くいかない。「世界の歴史」というシリーズ物は沢山あるが、いずれも分量が多すぎ、筋が見えない。高校の教科書は手ごろだが、通読するのが苦痛なくらい単調で、むやみに人名・年代・事件が出て来て、大きな筋を掴みにくい。本書では、上記の問題点を克服する方向で、何とかまとまりを付けられたと思っている。これは私の世界史試論である。

 この本は、1991年に刊行された原本を文庫化したものであり、その際、第8章「21世紀はどういう世紀か」が加筆されている。

序章「宇宙と人類史」で印象に残った内容
・現代の世界が抱えている多くの問題(戦争、人種差別、飢餓、地球環境の破壊など)に気付き、これを改めなければならないと感じた時、我々は世界史を見る視点を持ち始める。
・世界史とは、人々の生存への努力、そのための労働と生産の営み、そして生命の大切さを互いに認め合うに至る歴史である。

第1章「人類の誕生」で印象に残っている内容
・原人が1世代当たり15km移動したとすれば、ケニアから北京まで1万5000年位で移動できたとされる。

第2章「文明の成立」で印象に残っている内容
・紀元前2世紀に司馬遷によって書かれた『史記』によると、中国最初の王朝は「夏」であったとされているが、実在したかは疑問。現在確認されている中国最古の王朝は「殷」であり、紀元前17世紀頃に成立。
・インド最古の文明はインダス文明といわれているが、詳細はまだ明らかになっていない。遺跡から文字も見つかっているが、このインダス文字はまだ解読されていない。

第3章「古代帝国の時代」で印象に残っている内容
・ギリシャはローマ帝国、ビザンツ帝国、オスマン帝国の支配を次々に受け、文化的にヨーロッパ世界全体に非常に大きな影響を与えたものの、政治的には独立を守る事が出来ず、1829年にようやく独立を達成。
・インドのカースト制度はアーリア人の時代に作られたもの。アーリアは「高貴な」という意味。彼らは被征服民である先住民をヴァルナとして差別した。カーストは、「混じり合わない」という意味で後にポルトガル人が付けた呼び名。色(ヴァルナ)によって差別する事から、本来はヴァルナ制度と呼ばれる。

第4章「封建制の時代」で印象に残っている内容
・イスラム教を説いたムハンマド(マホメット)は一旦故郷メッカを追われたが、やがてムスリム(イスラム信徒)の共同体を作り、アラビア半島を統一、その後継者たち(カリフ。ムハンマドの代理という意味)は西はイベリア半島、北アフリカから東はインド西部まで及ぶ大帝国を作り、ウマイヤ王朝(アラブ帝国)を開いた(661年)。
・ムハンマドの子孫こそ正当な後継者であると主張するシーア派は、ウマイヤ朝を倒してアッバース王朝(イスラム帝国)を建てた(750年)。
・宋代の中国に二毛作を伝えたのはベトナムであった。

第5章「近代世界の成立」で印象に残っている内容
・西ヨーロッパ諸国の世界進出の中で植民地化を免れたのは中国と日本である。
・明の洪武帝(在位期間:1368年-1398年)や永楽帝(在位期間:1402年-1424年)などは対外的に発展する政策を取った。永楽帝は、モンゴル、ベトナム、東北へ遠征したが、特に宦官鄭和(ていわ)に行なわせた南海遠征はアフリカ東海岸にまで達するという壮大なものであった。目的は貿易拡大ではなく、明朝への服従と朝貢を求めるものであったので、諸民族の反撥を招き、逆にモンゴルや日本人による侵略や密貿易に脅かされるようになった。

第6章「資本主義の時代」で印象に残っている内容
・イギリスには毛織物産業の長い伝統と技術の蓄積があり、これにアメリカ合衆国南部で生産されるようになった綿花という豊富で安い原料が結びついて、イギリスの原綿消費量は1780年代に5倍近くに増え、1790年代から1840年までに更に約15倍に増えた。
・19世紀中ごろ、イギリスは世界の石炭総生産量の三分の二、鉄の半分、自家消費用以外の綿布の半分を生産し、世界の隅々にまでその製品を売りさばいていた。
・アメリカ南部はイギリス綿業への原料供給地であったので自由貿易を主張し、東部はイギリスに抵抗して産業発展を図るために保護貿易を主張したので両者は対立、これに奴隷制を認めるかどうかという問題も絡んで、対立は深刻化。1860年、南部は合衆国から脱退し、翌年アメリカ連邦を結成した。リンカーン大統領は南部の脱退を認めず、南北戦争が始まる。
・20世紀の初め、アフリカ大陸は、リベリアとエチオピア以外は全て植民地となっていた。
・19世紀の後半、スペイン領だったフィリピンに独立運動が起こり、アメリカはその運動を支援し、独立を約束したが、戦後約束を破り独立を認めず、フィリピンはアメリカ領となった。
・ロシアは、清が次々とイギリス、フランスの要求を受け入れるのを見て、1858年アイグン条約により黒竜江以北を獲得し、1860年には北京条約によって沿海州を手に入れ、ウラジオストックに港を開いた。

第7章「現代の世界」で印象に残っている内容
・アメリカとイギリスは、1941年に大西洋憲章を発表し、反ファシズム、民族自決、領土不拡大原則などを掲げ、翌年に中国とソ連も含む26か国が加わって連合国共同宣言が発表された。
・日本への原爆投下は、ソ連が日本との戦争に加わり、日本の占領に乗り出して来るのに対して先手を打つためであったと言われている。
・韓国では1960年に経済停滞と政治不正への不満から李承晩政権が倒され、1961年に軍部がクーデターを起こし、朴正煕軍事政権が成立した。1979年に朴大統領が側近により暗殺され、1980年に再びクーデターによって全斗煥政権が誕生し、光州事件などにより民衆運動を弾圧した。1987年に憲法改正が行なわれ、戦後初めてクーデターに依らない選挙によって盧泰愚が大統領になった。
・1975年にサイゴン陥落と相前後してカンボジアでポル・ポト派による革命が勝利して民主カンボジアが生まれた。ポル・ポト派は中国に支援されて大弾圧によって政権維持を行なう。これに対し、ソ連の支持を受けていたベトナムはポル・ポト派によるベトナム攻撃の危険を感じてカンボジアに侵攻し、1979年にカンボジア人民共和国を建てた。1989年にベトナム軍は撤退した。

第8章「21世紀はどういう世紀か」で印象に残っている内容
・この本の初版は1991年に刊行されたので、1990年頃までしか世界の動きを辿っていない。そこで、この新版ではその後の世界を少し補足する。
・ゴルバチョフが始めたペレストロイカは、彼の目標を遥かに超えて、ソ連邦という体制を崩壊させた。
・イラン・イラク戦争(1980年~1988年)の際、アメリカはイラクを支援した。反米的なイラン革命の広がりを恐れたため。イラクのフセイン大統領は、アメリカは今度もイラクを支援すると期待して、1991年にクウェートを侵略したが、フセインの予想を裏切って、アメリカは多国籍軍を編成してイラク軍をクウェートから追い出した。
・中国が抱える問題の一つは、チベット・新疆ウイグル両自治区の独立運動である。チベットは1951年に中国に併合され、1959年に反乱がおこり最高指導者ダライ・ラマ14世はインドへ亡命した。
・カリブ海には13の国があるが、その内7か国は軍隊を持っていない。世界に軍隊を持たない国は27あるが、その1/4はカリブ海の国である。
・日本では1991年に宮沢内閣が成立してから2001年の小泉内閣までの10年間に7つもの内閣が誕生した。
・核兵器を持ち込ませないと言う非核地帯条約がラテンアメリカ(1967年)、南太平洋(1985年)、東南アジア(1995年)、アフリカ(1996年)、中央アジア(2006年)で締結されている。今では地球の南半分には核兵器は存在しない状況になっている。
# by utashima | 2014-07-09 22:40 | 読書2 | Trackback | Comments(0)

2012年購入の洗濯機の故障

 2012年6月に購入した洗濯機(日立製BW-7MV)が先日故障した。ヤマダ電機の3年保障の期間内だったので、無料で対応して頂けた。
 スイッチ基板が湿気でやられたらしいとの事で、基板を交換して貰った。風呂の残り湯を使って洗濯する時、水温が高いと水蒸気が基板に悪影響を与える事があるらしい。
 2012年まで使っていた洗濯機(これも日立製)は5年目にスイッチ基板を交換して貰っていた。今回の2年で交換と言うのは短すぎる気がする。
# by utashima | 2014-06-25 14:41 | 省エネルギー | Trackback | Comments(0)

20年使った炊飯器の買換え

 今まで使ってきた1994年製のタイガー製IH炊飯器が故障。ちょうど20年使った事になる。
 今日の午後、家内と一緒に徒歩で家電量販店に買いに行った。今まで使っていたのは8合用だったが、長男と次男が一緒に住んでいないので、5.5号用にした。年間の消費電力が少ないものという判断基準で選んだのが、圧力IH炊飯ジャー「極め炊きNP-BB10」。3万円だった。私が手に持って帰ったが、少し重かった。5kg位かなと家内と話しながら。後で説明書を読むと、5.5kgだった。
# by utashima | 2014-06-20 23:44 | 省エネルギー | Trackback | Comments(0)

ga001 講座『日本中世の自由と平等』の終了証

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  gacco(無料で学べる大学講座)の最初の講座『日本中世の自由と平等』の終了証を頂いた。合格ラインぎりぎりだった。ga002 講座『インターネット』も全講義・課題を終えた。こちらも何とか認定を頂けそうだ。
# by utashima | 2014-06-14 14:08 | パソコン | Trackback | Comments(0)

「ねんきんネット」からの誤情報

 2007年頃から当時の社会保険庁(現在は日本年金機構)ホームページで年金情報の確認ができるように準備をしてきた。今日、【ねんきんネット】電子版「年金振込通知書」のお知らせ、というメールが届いた。早速、ねんきんネットにアクセスし、自分のIDとパスワードでログインし、電子版「年金振込通知書」(PDFファイル)をダウンロードした。

 そのPDFファイルを見て、不審な点が1つあった。私の住所(受給権者住所)が違っていた。このPDFと同じ内容のハガキは数日前に受け取っている。PDFファイルとハガキを比べると、上記の住所以外は一致していた。念のために、1年前と2年前の同様のPDFファイルを見ると、こちらの住所は正常だった。

 実害は無さそうだが、「ねんきんダイヤル」へ電話し、問い合わせた。一旦電話を切り、15分位後に返事の電話が来た。ねんきんネットの電子版「年金振込通知書」の住所が誤りである事を確認してくれた。当面、実害はない事も教えてくれた。システムとして正常ではないので、担当部署に挙げる事を約束してくれた。しかし、いつ頃住所が修正されるのか、今年に限って誤った原因は何なのか、修正が終わると連絡を貰えるのか、等を尋ねたが、これらの要望には全て応えられないという返事だった。同種の間違いが大量に存在するのかも知れないし、実害はないらしいので、これらに対して手間を掛けられないのであろう。

 しかし、受給者の住所という大切なデータが一元管理されていない事に私は驚いた。住所変更が発生した時の処理が正しく行なわれ無い可能性があろう。このような現状において、マイナンバー制度が始まろうとしているが、適切に管理・運用する能力が政府にあるのか心配である。
# by utashima | 2014-06-10 14:40 | 最近考えている事 | Trackback | Comments(0)

gaccoによる無料で学べる大学講座

 今年4月から始まった無料で学べる大学講座を受講している。

 初めに、4月14日開講の「日本中世の自由と平等」(東京大学教授の本郷和人氏による講義)を受講した。NHKの歴史番組に何度も登場されている先生である。『日本の歴史(全26巻)』を読み終えていたが、色々な興味深いお話を聞くことができた。毎週試験問題に回答する必要があり、合計で60%を越えれば、受講認定を貰える。ネットで調べたりして回答した。しかし、最後の論文形式の問題は難しく、棄権した。それでもぎりぎり60%は確保できたと思うので、近い内に認定通知が頂けると楽しみにしている。

 現在は、村井純慶応大学教授による「インターネット」を受講している。インターネットの歴史、仕組み、最近の動向などを、第一人者の話として聞ける。1990年頃、私は地球観測衛星のデータを利用する研究者たちと仕事の付き合いがあり、インターネットというものの存在を知った。今回の講義では、Windows95の発売でインターネットが身近になった1995年以前の状況も知る事ができた。当時の事を思い出しながら学習できた。受講認定を貰えるよう、頑張りたい。
# by utashima | 2014-06-06 12:44 | パソコン | Trackback | Comments(0)

『里山資本主義』(藻谷浩介、NHK広島取材班 著)

『里山資本主義』を読んだ。

 私は、これからの経済成長率は0%が基本と思っている。沢山の開発途上国が資源をどんどん使い始める事を考えると、先進国は今まで通りのプラス成長を狙うのは間違っていると思う。日本は今後人口が減るので、国全体の成長率がゼロでも、一人当たりのGDPは向上し、各人の生活レベルは向上できよう。
 従って、今のアベノミクスの+2%成長を目指すというのは、如何なものかと思う。

 上記のように考えていた時、標記の本を読み、賛同した。
 中にオーストリアの話が出て来る。一人当たりGDPは日本を上回っている。国を挙げて木質バイオマス・エネルギー活用を進めている。オーストリアは「脱原発」を憲法に明記している。なお、1969年には原発の建設を決め、1972年に建設が始まり完成しているが、一度も稼働されることはなかった。更に、原発由来の電力は使いたくないとの考えで、2011年7月(東日本大震災の後)に「エコ電力法」を改正し、自然エネルギーの利用を一層進める事にしている。オーストリアの人たちは、今までロシアからパイプラインにより天然ガス供給を受けており、ガス供給を停止するとの脅しを度々受けて来た。今もウクライナ情勢が不安定化している。

 この本の製本版を買った後、楽天Kobo電子書籍版も発売されている事を知った。紙媒体の本より廉い。楽天Koboでは、PCで電子書籍を読める無料アプリを提供しており、私も利用を開始した。電子書籍は本を幾ら購入しても場所を取らないし、検索もできる等、便利である。しかし、今までは、電子書籍リーダーでしか読めなかった。私は、デスクトップPCの大画面で読みたい。楽天Koboのアプリは私の目的にピッタリ。読み易い文字サイズにして、利用している。
# by utashima | 2014-05-13 18:04 | 読書2 | Trackback | Comments(0)

予科練平和記念館

 茨城県稲敷郡阿見町大字廻戸(はさまど)5番地1にある予科練平和記念館へ初めて出かけた。DMM.comで借りたDVD『零戦~搭乗員たちが見つめた太平洋戦争~』(2013年8月にNHKで放映された)の中に予科練平和記念館が出て来た。2010年の開館である。

 自宅から車で15分程度の距離なので、今日の午後、出かけてみた。終戦時に17歳で満州に居た義父も興味があるというので、一緒に出掛けた。記念館の正面入り口に向かって左手に、人間魚雷の回天の実物大模型が置いてあった。これを見た時、義父が特殊潜航艇甲標的の話をしてくれた。甲標的は1941年12月の真珠湾攻撃にも参加している。義父は中学生の時に学徒動員として広島県呉市の造船所で甲標的の製造に参加していた。甲標的は搭乗員2名で回天より大型であり、人間魚雷ではなく、2発の魚雷を発射する潜航艇であった。

 入館料500円×2を支払って館内に入ると、ちょうど別の団体に展示解説員が説明を始めたばかりだったので、その団体に付いて説明を聞いた。なお、内部は撮影禁止である。見終わった後、隣接地にある雄翔館にも入って観た。こちらは1968年に開館している。

 義父とは一緒に住んでいるが、太平洋戦争当時の話を聞いたことは無かった。今日初めて、上記のように学徒動員で特殊潜航艇を作った事や、終戦直前から1年半程度、満州の奉天(今の瀋陽)に住んでいた事などを聞いた。
# by utashima | 2014-04-26 18:25 | つくば近傍探訪記 | Trackback | Comments(0)

『満韓ところどころ』(夏目漱石著)

 青空文庫で夏目漱石の随筆『満韓ところどころ』を読んだ。漱石は1909年(明治42年)9月2日から10月14日まで満州・朝鮮を旅行しており、その紀行文が『満韓ところどころ』である。朝日新聞に1909年10月21日から12月30日まで掲載された。旅行直後の1909年10月26日に満州のハルビン駅構内で、伊藤博文が暗殺されている。

 この旅行は、漱石の親友である中村是公(なかむら よしこと、通称なかむら ぜこう、南満鉄道会社の総裁)に誘われて出かけたもの。日露戦争が終わった1905年から4年しか経ていない時である。大連、旅順、二百三高地などを巡っている。持病の胃炎のため、旅行中も胃痛が絶えなかったようだ。
# by utashima | 2014-04-23 22:39 | 読書2 | Trackback | Comments(0)

次男の旧PCのリサイクル処理とネットワーク・プリンタの移動

 次男から依頼されていた旧PC (Windows Xp) のリサイクル処理をほぼ完了した。そのPCはまだ起動できる状態だったので、1.5年前と同様に、「SOURCENEXTstyle ドライブクリーナー」を使って、データの完全消去を行なった。現在は、「エコゆうパック」伝票が届くのを待っている状態。旧PCを梱包したダンボール箱に、その伝票を貼り、郵便局(電話すれば取りに来てくれる)から送付すれば終わり。

 そのPCがあった場所に、隣の部屋に置いていたネットワーク・プリンタ(EPSON PM-T960)を移設した。1階のリビングから印刷指令を送る時に繋がり易くなろう。
# by utashima | 2014-04-19 12:09 | パソコン | Trackback | Comments(0)

私の自転車の買換え

 先日、私の自転車がパンクした。調べてみたら、1989年4月に購入したもの。25年前である。今日、近所の自転車店に行き、この自転車を廃棄処分にして貰い、新しい自転車を買った。新しいと言っても、中古自転車である。新品は35000円位だったが、購入した中古は7500円。

 自転車のランプの発電機に、ハブ発電機というのがある事を初めて知った。従来のものはローラー発電機と呼ばれている。ローラー発電機は発電時にペダルが重くなるが、ハブ発電機は大して重くならない。というか、前輪のハブに付いているので、点灯しない時も発電している。暗くなったら、自動的に点灯するらしい。購入した自転車も、ハブ発電機だった。まだ、この自転車で夜に走っていないので、どの程度の明るさかは分からない。
# by utashima | 2014-04-18 16:29 | 省エネルギー | Trackback | Comments(0)

風呂・洗面所のリフォーム

c0011875_1822599.jpg 我が家は、1995年3月に新築してから、19年が経過した。よって、風呂場及び隣接する洗面所のリフォームを実施した。リフォームも家を建てて貰ったへーベルハウスにお願いした。へーベルハウスに相談する前は、工事に要する日数が分からず、もし1週間近くを要するようならば、その間の入浴をどこでしようか、と考えたりしていた。

 へーベルハウスと相談の過程で、工事期間は3日間、3日目の夕方には風呂に入れるので、実質2日間だけ風呂を我慢すれば良いと分かった。

 4月3日(木)~5日(土)で、リフォームして頂いた。初日は1日雨となり、工事への影響を心配したが、翌日からは天気も回復し、無事予定通りに終了できた。

 今までの風呂との違いは、
   ①天井に暖房乾燥機を付けた
   ②浴槽が二重になっていて保温効果がある
   ③床が滑り難く弾力性がある
   ④浴室の窓を二重窓にした
   ⑤手摺を増やした
などである。風呂も日々進歩している。
# by utashima | 2014-04-05 18:18 | イベント | Trackback | Comments(0)

『日本大地震』(斎藤茂吉著)

 1929年10月に「改造」(*)に初出の表記文章が、青空文庫にあったので読んだ。
(*)「改造」は、戦前の日本で発行されていた、社会主義的な評論を多く掲げた日本の総合雑誌。1919年(大正8年)創刊、1955年(昭和30年)廃刊。

 ウィキペディアによると、斎藤茂吉は、1921年10月から精神病学研究のため欧州留学に出発。11月1日神戸を出航、香港、シンガポール、マラッカ、コロンボ、スエズから陸路カイロ往復、マルセイユ、パリを経て12月20日ベルリンに到着。1923年(大正12年)に学位論文「麻痺性痴呆者の脳図」を完成させ、イタリア旅行を経て7月、ミュンヘン大学に転学している。

 表記著作は、ミュンヘンに到着後から始まっている。住む部屋探しに苦労している記述がある。南京虫が出ない部屋を探していたようだ。ちょうどその頃、夕刊の“Die Erdbebenkatastrophe in Japan”と題した日本震災の記事で関東大震災を知る。斎藤茂吉は以下の様に記している。
 上海電報に拠よると、地震は九月一日の早朝に起り、東京横浜の住民は十万人死んだ。東京の砲兵工廠は空中に舞上り、数千の職工が死んだ。熱海・伊東の町は全くなくなつた。富士山の頂が飛び、大島は海中に没した。云々である。

 更に以下の様に書いている。
 私も部屋のことで斯う愚図愚図してゐてはならぬと思ひ、けふも数軒部屋を見、遠くて不便であるが一間借りるやうに決心した。私はけふはもう教室に行く勇気はなかつた。夕刊を読むと日本震災の惨害はますますひどい。私等は何事も手に附かず、夕食後三人して麦酒を飲みに行つた。酒の勢を借りてせめて不安の念を軽くしようとしたのであつた。

 9月13日の夕方、斎藤茂吉に電報が届き、家族の無事を知った。そして、当分ミュンヘンに留まる決心をし、1924年末に帰国した。
# by utashima | 2014-04-04 11:49 | 読書2 | Trackback | Comments(0)

『大正十二年九月一日の大震に際して』(芥川龍之介著)

 夏目漱石の『こころ』を読んだので、次は何を読もうかと、青空文庫を眺めた。芥川龍之介の作品の中に、表記の『大正十二年九月一日の大震に際して』があったので、読んでみた。二、三十年以内に首都圏に大地震が発生する可能性が高いと言われており、1923年の関東大震災を実際に体験した芥川龍之介の文章を是非読んでみたかった。

 龍之介は地震発生直前の1923年8月に鎌倉を旅して8月25日に東京の田端に帰っている。鎌倉に居た時、以下の記述がある。
 
藤、山吹、菖蒲と数へてくると、どうもこれは唯事ではない。「自然」に発狂の気味のあるのは疑ひ難い事実である。僕は爾来人の顔さへ見れば、「天変地異が起りさうだ」と云つた。

 関東大震災は、龍之介が東京に帰ってから約1週間後に発生している。上記の予想は、龍之介自身も余り信じていなかったようだ。

 龍之介は、東京に戻ってから風邪をひいている。8月29日に38.6度の発熱だった。家族全員が風邪の状態だった。9月1日の地震発生当日の記述は、以下の通り。
 午ごろ茶の間にパンと牛乳を喫し了り、将に茶を飲まんとすれば、忽ち大震の来るあり。母と共に屋外に出づ。妻は二階に眠れる多加志を救ひに去り、伯母は又梯子段のもとに立ちつつ、妻と多加志とを呼んでやまず、既にして妻と伯母と多加志を抱いて屋外に出づれば、更に又父と比呂志とのあらざるを知る。婢しづを、再び屋内に入り、倉皇比呂志を抱いて出づ。父亦庭を回つて出づ。この間家大いに動き、歩行甚だ自由ならず。屋瓦の乱墜するもの十余。大震漸く静まれば、風あり、面を吹いて過ぐ。土臭殆ど噎ばんと欲す。父と屋の内外を見れば、被害は屋瓦の墜ちたると石燈籠の倒れたるのみ。

 田端付近では、屋瓦が落ちた事と石灯籠が倒れた事だけだったようだ。関東大震災は、神奈川県西部を震源とした地震であった。夜、東京方向を見ると、大いなる溶鉱炉を見るが如しと書いている。
 9月2日の夜は、龍之介は39度の発熱だった。
 廃墟東京を見て、龍之介は以下の様に書いている。
 
応仁の乱か何かに遇つた人の歌に、「汝も知るや都は野べの夕雲雀揚るを見ても落つる涙は」と云ふのがあります。丸の内の焼け跡を歩いた時にはざつとああ云ふ気がしました。

 この文章の最後では、古書の焼失を惜しんでいる。
# by utashima | 2014-04-02 00:33 | 読書2 | Trackback | Comments(0)

夏目漱石『こころ』

 私は自宅では、2012年10月に購入した東芝のREGZA PC D732/T7(Windows 7)を使っている。数日前、何気なくPCに付属のソフト群を眺めていて、「BookLive! for Toshiba」というソフトに目が留まった。まだ使っていなかった。電子ブックを読む時に使うソフトらしい。起動してみると、無料の「青空文庫」の本も読める。なお、「青空文庫」の作品は、ブラウザでも読めるので、「BookLive! for Toshiba」を使う必要はない。でも、折角付属しているので、「BookLive! for Toshiba」で「青空文庫」の作品を読んでみる事にした。「BookLive! for Toshiba」を使い始めてまだ数日だが、その間に2回ソフトの更新があった。更新で良くなるのは良いが、更新後にPC再起動を要求されるのは困る。地デジ番組の録画機能が動いている事があるので。

 最初に読んだ作品は、夏目漱石の『こころ』。学生時代に読んだと思うが、殆ど覚えていないので、読み返した。最後の辺りに、友人Kの自殺の原因は、天と自分しか知らない・・・、といった記載がある。私は日頃思っている事だが、全世界の指導者達(特に政治家たち)には、「天は全てお見通し」という気持ちを持って、行動して戴きたい。
# by utashima | 2014-04-01 17:17 | 読書2 | Trackback | Comments(0)

『日本の歴史』全26巻を読み終えて

 『日本の歴史』全26巻を2009年2月から読み始め、今日(2014年3月13日)読み終えた。5年掛かった。私は大学受験の社会の科目に日本史を取らなかったため、日本史の知識が不十分であり、60歳を前にして勉強し直したいという気持ちがあった。そして最初に手に取った本シリーズの第00巻が興味深く、それが全巻読破に繋がった。

 近年、近隣諸国との歴史認識問題や領土問題などが、新聞・テレビなどで度々報じられているが、本シリーズを読んで得た知識や考え方をベースに、自分の考えをしっかり持って行こうと思っている。

 本シリーズを読みながら、私が興味を持ったことを中心に、ブログの記事にして来た。その際、遺跡の場所などはGoogle Mapで探し、歴史資料もネットで見るように努めた。そしてブログ記事の中に、それらへのリンクも貼って行った。最近のネットの普及で歴史の勉強も便利になった。

 今後は、世界の歴史書を読んでみたいとボンヤリ思っているが、まだ何を読むか決めていない。
# by utashima | 2014-03-13 23:44 | 読書2 | Trackback | Comments(0)

『戦後と高度成長の終焉(日本の歴史24)』(河野康子著)の第4章

第四章 政党再編への胎動---1972年~1993年

 1955年頃から始まった高度成長は、1970年代初頭に終わった。この間、日本経済は年率平均10%台の成長を遂げ、所得の平等化が進み、人々の間に中流意識が浸透した。1974年に実質GNP成長率が-0.5%となり(第一次石油危機の影響)、1973年~1990年にかけての年平均成長率は約4%になった。10%成長の時代は終わった。
 こちらのサイトからの経済成長率グラフを以下に掲載する。
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 高度成長の終焉の要因として、吉川洋氏は人口の大量移動現象を挙げている。農村から都市への人口の大量流入が消費を押し上げて成長の要因となり、1970年代に入って都市への人口流入が終わり、成長率が低下した、という見方である。
 1973年・1978~1979年の二度の石油危機を経て、1980年代に入り、日本経済の対外環境は大きく変わった。固定相場制から変動相場制に変わり、1995年4月には瞬間的に1ドル79円台をピークとする円高に見舞われ、円の価値は一時的に約3倍まで上昇。株価は1989年12月に3万8915円のピークを記録したが、1990年10月には2万円を割る事態となった。バブルの崩壊である。

 第一次田中内閣期の1973年度予算は、超大型予算となった。列島改造予算として公共事業関係で+32%、社会保障関係で+29%。1974年の自民党大会は「福祉国家建設」を掲げた。

 対中国外交で成果を挙げた田中首相は、1974年1月の東南アジア歴訪で、対日感情の悪化を身を持って認識させられた。バンコク、ジャカルタで田中首相は反日デモに取り巻かれた。要因は、1970年代に入り急激に拡大した日本企業の進出であった。タイ・インドネシアなど各地で、氾濫する日本製品のボイコットが広がっていた。
 1975年4月、南ベトナムのサイゴンが陥落し、南北ベトナムが統一され、ベトナム戦争が終結した。1977年8月、マニラで福田首相が提唱した「福田ドクトリン(マニラ・ドクトリン)」は、嚆矢であった。「福田ドクトリン」は、以下の内容であった。

  ①軍事大国とならず世界の平和と繁栄に貢献する。
  ②心と心の触れあう信頼関係を構築する。
  ③対等な立場で東南アジア諸国の平和と繁栄に寄与する。

 1971年8月のニクソンによる金・ドル交換停止宣言の後、12月にワシントンのスミソニアン博物館で、主要国蔵相会議・中央銀行総裁会議が開かれ、通貨交換レートの調整が行なわれ、2.25%の幅で固定相場制を維持する事が決められた。この時、円・ドル交換レートは、1ドル360円から308円に大幅に切り上げられた。しかし、この調整は安定せず、1973年2月に変動相場制に移行した。この状態が現在まで続いている。

 ベトナム統一の3年後の1978年、ソ連とベトナムの間に友好協力条約が結ばれた。ソ連のベトナム支援が、カンボジア問題に影を落とす。カンボジアは1976年4月にポル・ポト首相が就任。中国はポル・ポト政権を支援した。1978年12月にヘン・サムリン救国民族統一戦線がポル・ポト政権打倒を掲げて発足。これをベトナムが支援した。1978年12月から翌年1月にかけて、ベトナムがカンボジアに侵攻した。そして1979年1月にソ連とベトナムの支援の下、カンボジア人民共和国が成立した。これに対して、中国は同年2月にベトナムに侵攻、中越戦争となった。カンボジアは、この時期から1991年まで内戦状態となる。
 他方、1979年のソ連によるアフガニスタン侵攻は、1989年のソ連軍撤退まで10年間のソ連によるアフガニスタン支配をもたらした。

 ソ連の指導者にゴルバチョフが登場し、アフガニスタン撤退から半年後の1989年10月、東ベルリンでの演説で東欧政策(ブレジネフ・ドクトリン)の画期的な転換を表明した。翌11月、ベルリンの壁が崩壊し、12月にはマルタ島でブッシュ米大統領とゴルバチョフ議長との首脳会談が行なわれ、冷戦は終焉することになった。

 1988年12月の国会で消費税関連法案が成立し、1989年4月から3%の消費税が実施された。
 1993年の総選挙で自民党が過半数を割り、非自民八党派による連立政権(細川護煕を首班)が発足、1955年以来38年間続いた自民党の長期政権が終わった。
# by utashima | 2014-03-01 11:17 | 読書2 | Trackback | Comments(0)

『戦後と高度成長の終焉(日本の歴史24)』(河野康子著)の第3章

第三章 変貌する戦後---1955年~1972年

1 保守合同の成果

 1955年2月の総選挙では、日本民主党が多数(185議席)を獲得。自由党は112議席だった。一般に保守本流という言葉は、池田・佐藤両政権期に代表される吉田茂の直系政治家を指すものとされる。しかし、上記の数字にも表れているように、自民党には吉田自由党からの連続性だけでなく、民主党からの連続性が強く受け継がれている。鳩山・石橋・岸政権期には民主党系の影響力が優位だった。民主党が自民党に政策的遺産として継承した理念とは、様々な格差の解消、いわば平等化と表現できるものであった。

 1955年11月に発足した第三次鳩山内閣では注目すべき政策的新機軸があった。政府レベルで初めて経済計画の正式決定(閣議決定)を行なった。鳩山内閣は発足直後から長期計画を経済運営の基本とする姿勢に転じ、1955年1月に「総合経済六ヵ年計画の構想」が閣議了解されている。これが1955年12月に閣議決定され、「経済自立五ヵ年計画」となった。この計画は雇用政策を重視していた。そして、1957年2月に発足した岸内閣期に「新長期経済計画」に発展され、高い成長率を維持しつつ「完全雇用」に接近する事が目標とされ、1959年の「国民所得倍増計画」に至る。完全雇用は、1958年~1961年の岩戸景気の中で実現に向かった。

 民主党から自民党へ継承されたもう一つの理念として、国民皆保険へと向かう社会保障政策がある。実は、戦前に既に健康保険法(1927年施行)と国民健康保険法(1938年公布)があった。健康保険法での加入者は国民の約3%だった。国民健康保険法は、戦争末期に空襲や疎開により基盤が失われた。選挙における有権者獲得手段として社会保障の充実が注目されたが、これは民主党系の政策理念として存在していた。そして、1958年に岸内閣の下で国民健康保険法が拡充され、市町村による国保の強制設立が実現。この基盤の延長上に、池田内閣期の1961年に国民皆保険が実現した。

2 外交の調整と自民党政治---日ソ国交回復と安保改定

 1954年12月、内閣首班指名で両派社会党は鳩山に投票し、翌日、鳩山内閣が発足。社会党はその後も、鳩山内閣期の日ソ交渉に支持の姿勢を取った。日ソ交渉では、自由党・民主党間で対立、保守合同後も新生自民党内部で対立を続けた。

 1955年から翌年にかけて合意された日ソ交渉は、平和条約締結には至らず、北方領土問題は懸案として残された。1956年10月の鳩山首相の訪ソにより、日ソ共同宣言がモスクワで調印され、日ソ国交正常化は実現した。その結果、1956年12月に日本の国連加盟が実現した。その後、シベリア抑留問題にも解決の糸口が開かれ、ソ連は抑留者の帰還を認める事になる。

[日ソ交渉の経過]
 ソ連は1951年の講和会議に出席しながら条約に調印しなかったが、これは失敗であったとの見方が強くなってきた。1953年にスターリンが死去し、平和攻勢に転じたソ連は、日本との国交回復を重視するようになる。

 1955年初め、国交回復の打診目的で、元ソ連代表部のドムニツキーが政府書簡を重光外相に届けた。重光に受け取りを拒否され、直接鳩山首相に届けた。鳩山はドムニツキーと会見し国交回復に意欲を示した。背景に、シベリア抑留者の帰国を求める世論があった。

 1955年6月から日ソ交渉が開始された。8月9日、ソ連全権マリク駐英大使から、歯舞・色丹の二島返還で妥協を図る提案があった。これに対して日本は8月30日、国後・択捉を含む四島の即時返還を求め、交渉は行き詰まった。この間の8月23日、重光外相は岸信介・河野一郎を伴い訪米。ダレス国務長官と会談。この会談後に外務省は、日本側全権に四島返還を主張するよう訓令を出した。1955年11月15日に自民党が結成され、党議として四島返還を求める事を規定した「日ソ国交の合理的調整」を正式決定した。この決定は、自由党系の主張に沿ってまとめられ、その後の日ソ交渉を制約した。

 1956年7月、訪ソした重光は、それまで四島返還を主張していたが、突然二島返還で妥結する方針に転換したため、自由党系議員から交渉中止を求める動きが強まり、政府は重光に交渉中止の訓令を出した。「重光豹変」と呼ばれる事態である。この真相は、必ずしも明らかではない。

 この頃、日ソ交渉に対する米国の意向が日本に伝えられた。1956年8月、ダレス国務長官は「日本が二島返還でソ連と妥協するのであれば、米国は沖縄の併合も辞さない。」と発言。9月に、米国務省から日本政府に、以下の覚書が伝えられ公表された。
  「対日講和条約第二条で日本が放棄した領土は、国後・択捉を含まず、国後・択捉は歯舞・色丹とともに日本固有の領土である。」


 1956年10月、鳩山首相自らモスクワを訪問、日ソ共同宣言に調印した。

[安保改定のプロセス]
 1951年9月に調印された日米安保条約は、以下の問題を持っており、不満足なものであった。
  ・米軍が、占領終結後もほぼそのまま残された。
  ・米軍基地は、条約上は日本を防衛する義務を負っていなかった。
  ・日本国内に内乱が起きた場合に在日米軍が出動できるとした内乱条項があった。
  ・事前の同意が無ければ、米国以外の外国軍隊に駐兵権を与えないという第三国条項があった。
  ・条約の期限が明示されていなかった。
 そのため、安保改定に向けた日本からの働きかけが、日ソ交渉と併行して始まる。

 鳩山内閣後の石橋内閣(1956年12月23日発足)に外相として入閣した岸信介は、石橋が病気で倒れた後、1957年2月に首相となり、第一次岸内閣を発足させた。

 1953年~1957年にかけて、在日米軍基地をめぐる被害の発生と紛争が相次いだ。石川県内灘における米軍試射場としての土地使用をめぐる住民の実力抵抗、1955年の東京都立川市(旧砂川町)における立川基地滑走路拡張工事の強行に伴う流血事件、1957年1月の群馬県相馬が原での日本人女性射殺事件(ジラード事件)など。これらの事件は、基地反対を掲げる社会党に対する有権者の支持を高めた。
 1957年6月、岸は訪米し、アイゼンハワー大統領と会談、安保条約の再検討を提案した。その内容は、米軍の対日防衛義務の明文化、米軍装備変更時(核兵器持ち込みを含む)の事前協議などであった。翌1958年2月から条約改定交渉が本格化する。1960年5月、自民党は新安保条約と関連法案の単独採決を行なった。1960年6月15日、国会周辺のデモ隊と警官隊との衝突の中、東大女子学生が死亡すると言う事態となった。参院でも自民党単独採決を行なって新安保条約を成立させた後、岸内閣は退陣した。

 1960年7月19日、第一次池田内閣が成立する。新安保条約では、旧条約の問題点を解消し、新たに事前協議制を設置した。

3 高度経済成長と開放体制への移行

 新安保条約の国会批准を待って岸内閣が退陣し、1960年7月、池田勇人内閣が発足。同年12月に池田内閣は、「国民所得倍増計画」を閣議決定した。

 日本は1952年8月にIMF(国際通貨基金)に参加、翌年にGATT(関税及び貿易に関する一般協定)に仮加盟、1955年にGATTの正式な一員となった。しかし、ヨーロッパ諸国は日本に対しGATT規約第35条を適用して対日差別を続けた。この第35条適用撤回のため、それぞれの国を相手に二国間交渉を行ない、1964年にヨーロッパ主要国による対日差別が撤回された。対日差別の理由の一つは、日本の低賃金労働であった。1959年10月の第15回GATT総会で、米国務次官が、日本に対する第35条適用を早急に撤廃するようヨーロッパ諸国に求めた。同時にこの総会では、日本に対する貿易自由化要求が強く出された。1950年代半ばから、日本は実質で二桁成長率を達成していた。1963年に自動車生産は120万台を超え、輸出は10万台を超えた。5年前と比べて、生産で7倍、輸出で10倍の伸びであった。

 1963年、日本はGATT12条国から11条国へ移行した。これは、国際収支上の理由で輸出入制限をしてはならないという義務を受け入れる事を意味した。1964年には日本はIMF八条国へ移行した。これにより、国際収支上の理由で為替取引制限を行なう事ができなくなった。1964年、日本はOECD(経済協力開発機構)に加盟した。これにより、日本が先進国クラブへ仲間入りしたとして注目された。この年の秋、東京オリンピックが開催された。

 1958年7月~1961年12月までの42か月間、「岩戸景気」と呼ばれた好景気が続き、1965年11月~1970年7月までの57か月間、「いざなぎ景気」と呼ばれた好景気が続いた。国民総生産は、1968年には実質で1960年の2倍を超えていた。1970年において日本の国民総生産は、米国に次ぐ世界第二位となり、国民所得(一人当たりドル換算)も英国とほぼ同水準となった。貿易収支も1968年以降は黒字が定着していた。

4 二党制の苦悩と多党化現象

 自民・社会の両政党が国会議席の大半を占める状況は、1960年代半ばには揺らぎ始めた。多党化の波が押し寄せた。二大政党の議席数減少は、先ず社会党に現れ、次に自民党に現れた。この変化の大きな要因は、民社党と公明党の出現である。社会党内の西尾派と河上派の一部が離党して1960年1月に民主社会党を作った。初代委員長は西尾末広である。社会党の分裂は、労働勢力の分裂と連動する。労働勢力の再編の結果、社会党と総評、民社党と同盟、という提携関係が形成された。1976年の総選挙で落選した江田三郎は、翌1977年3月に社会党を離党して社会市民連合(社市連)結成に向かったが、5月に死去。江田の死後、社会党を離党した田英夫らが社市連(菅直人らのグループも参加)に合流し、社会民主連合(社民連)となった。1960年代の国会は、雇用対策法・調整年金・健保特例法などの生活関連重要法案の審議が進んでいたが、社会党は、福祉国家という考えが資本主義の延命策であるとの批判的立場を取って、積極的な対応をしなかった。そして、社会党の議席は低落傾向をみせた。

 宗教団体の創価学会は、1955年頃から政界進出を試み、1962年に創価学会政治連盟を改称して公明政治連盟を立ち上げた。これを母体に、1964年に公明党が結成される。1969年には衆院で社会党に次ぐ第三党となった。1970年6月の党大会で新綱領を決定、国民政党を標榜して創価学会との分離を表明。1976年には自民党から新自由クラブが離脱。こうして、政党政治は二党制から多党化への変化を定着させた。

 1960年に池田内閣が国民所得倍増計画を決定し、「全国総合開発計画」が策定されて、太平洋ベルト地帯の各都市に石油コンビナートの建設が相次ぐ。三重県四日市市では1960年頃から重い喘息症状の人々が急増。これは工場群から排出される亜硫酸ガスや窒素酸化物が原因であった。1956年には熊本県水俣で有機水銀による中毒症状の患者が報告されている。公害に対して国よりも早く対応したのは、横浜市や東京都などの先進的な自治体だった。1967年8月、公害対策基本法が公布された。これには「調和条項」が盛り込まれ、企業の利益を損なわないような配慮が示されていた。「調和条項」に対する世論の反発は強く、1970年に公害対策基本法の改正が行なわれ、「調和条項」が削除された。四大公害訴訟(熊本水俣病・新潟水俣病・四日市公害・イタイイタイ病)の裁判は1970年代初めにかけて次々に結審、患者側の勝訴となった。1971年、環境庁が発足した。

 その後、健保・年金などの社会保障分野の課題が次々と政治の舞台に上がってくる。環境問題や社会保障問題に対して、自民党の対応は立ち遅れ、これが1970年代以降の自民党長期低落傾向の一因となる。

5 日米協調と地域外交

 日本が国連加盟を許された翌年の1957年に出された「外交青書」第一号は、以下の外交三原則を掲げた。外交青書は、現在日本が発行している白書の中で唯一「青書」と呼ばれているが、これは外交青書を作成し始めた当時、参考としたイギリス議会の外交委員会の報告書の表紙が青色であったので、これに倣ったもの(ウィキペディアより)。
  ①国連中心主義
  ②自由主義諸国との協調
  ③アジアの一員としての立場の堅持

 しかし、現実の対アジア外交は、多くの困難に満ちていた。戦後賠償を巡るアジア諸国との交渉は難航した。賠償額が折り合わなかった。フィリピン、南ベトナム、インドネシア、ビルマ(現ミャンマー)も賠償を要求した。これらの諸国からの請求総額は約300億ドルといわれる。ビルマとは1955年に妥結、インドネシアとは1958年、南ベトナムとは1959年に賠償交渉がまとまった。フィリピンとは1956年に賠償協定が調印され、1976年にようやく支払いが終結した。戦争終結後、賠償支払い終了までに20年以上が費やされた。

 池田内閣期に既に日韓国交正常化への取り組みが進められていた。社会党は、北朝鮮を除外して韓国との国交正常化を先行させるのは朝鮮半島の分断につながるとして反対した。日韓国交正常化は、米ラスク国務長官が1961年に訪日した時に、日本に求めた。ラスク長官は、韓国の対日賠償請求権問題の解決は、米国による対韓援助の前提条件であると発言。病気のため辞任した池田の後、1964年11月に第一次佐藤内閣が発足。その直後の1965年2月、椎名外相をソウルに派遣し、基本条約に向けての協議を進めた。日韓併合以来の旧条約は「もはや無効」という表現で清算し、請求権については、経済協力という形で有償(2億ドル)、無償(3億ドル)、民間信用供与(11億ドル以上)を行なう事で了解に達した。当時の韓国の国家予算は3.5億ドル、日本の外貨準備額は18億ドル程度であった。この日韓基本条約は1965年6月に東京で調印された。しかし、その批准国会は、自民党・社会党の全面対決となった。自民党は強行採決を図り、4日間にわたる徹夜国会で衆院を通過させ、参院では公明党を含む野党が退場する中、自民党と民社党のみで成立させた。結成から1年の公明党は、この国会では反自民の立場を明確にしていた。
 社会党は、日韓国会の翌年、階級政党としての立場を主張し、「日本における社会主義への道」を決定した。当時は、この新綱領を守る事が、社会党にとって次第に現実との接点を見失う結果になるとは、予想されていなかった。

 沖縄の法的地位は、1951年講和条約第三条と、講和会議でのダレス米代表とヤンガー英代表の演説により確認されている。具体的には、沖縄・奄美大島・小笠原諸島などの第三条地域に対し、米国が施政権を行使できるが、主権は日本に残されている事が認められていた。この第三条の規定は、沖縄の地位に関して、日米間だけの協議で決定可能と認められていた。そのため、日本は講和条約調印後の早い時期に日米間の取り決めが行なわれることを期待した。しかし、米側は、沖縄基地の戦略的重要性を主張する軍部の意向で、この取り決めに応じなかった。

 1953年12月、日米協定により奄美大島返還が実現した。これ以降、沖縄の基地建設は本格化した。1960年の安保改定の際、日本側は沖縄問題よりは条約改定を優先し、米側は、本土の米軍基地が縮小された結果、沖縄への基地機能移転が進み、沖縄の長期保有を考えていた。

 しかし、1961年に発足したケネディ政権が、60年安保での日本国内の反米感情に配慮してライシャワーを大使に任命した事は、沖縄問題を日米関係の安定化の観点から見直す事に繋がった。ライシャワー駐日大使の夫人は、元首相の松方正義の孫である。その後、国務省と国防省は特別研究グループを発足させ、軍部に対する説得を試み始めた。

 1964年に発足した佐藤内閣は、当初から沖縄問題に対する関心を持っていた。1965年1月に訪米した佐藤首相は、ラスク国務長官との会談で沖縄問題を話題にしている。1967年11月、第二次佐藤・ジョンソン会談で、「両三年内に」返還の期日を決定するとの合意に達した。なお、「両三年」とは2~3年という意味。この会談で、小笠原諸島の返還が合意された。1967年12月、臨時国会で佐藤首相は「非核三原則」を打ち出した。核兵器を「作らず」、「持たず」、「持ち込ませず」である。

 1969年1月のニクソン政権発足後、国家安全保障会議(NSC)で沖縄返還に伴う基地機能の変化について重要な決定が行なわれた。返還時期を1972年とし、返還時に沖縄基地の核兵器を撤去、その後は事前協議制を適用するという内容のNSC文書に大統領がサインした。注目すべきは、緊急時の韓国・台湾防衛に当たっては、事前協議制の適用を緩和するという了解を日本から取りつける事が代償となっていた。返還条件は1969年11月の佐藤・ニクソン会談で合意された。1971年6月17日、沖縄返還協定が調印され、1972年5月15日に返還された。

 1971年7月と8月に、ニクソン大統領は対外政策に関する大きな転換を行なった。日本へは事前の説明はなかった。1971年7月、ニクソンは早期の北京訪問と中華人民共和国との国交正常化方針を公表した。
 1951年の講和会議には中華人民共和国・中華民国の双方とも招かれず、日本は米英の取り決めにより講和後にいずれかの政府との間で講和・友好条約を結ぶ事となっていた。但し米国は中華民国との間で講和を結ぶ事を望んでおり、1952年4月、台湾国民政府との間で「日華平和条約」を結んだ。池田内閣期に入って、自民党の高碕達之助、中国の廖承志(りょう しょうし)が参加して貿易協定に調印。両名のイニシャルを取りLT貿易と呼ばれた。これにより、国民政府との間は悪化した。このような状況の時、1971年7月のニクソン・ショックが起きた。1972年2月にニクソンは訪中した。
 更に8月、第二次ニクソン・ショックが発生。米国は金とドルの交換停止決定を通告した。

 1972年5月の沖縄復帰式典を終え、7月に佐藤内閣が退陣、後継の田中角栄内閣が1972年7月に発足する。自民党内では、かねて吉田外交に対抗する意味で、松村謙三・田川誠一などの党内反主流派が中国との交流を進めていた。田中内閣発足の7月、田川は北京との間で田中訪中についての中国側の意向を確認している。公明党は、田中内閣以前から竹入委員長を中心とする訪中団が中国政府と接触し、周恩来からの親書を田中に取り次いでいる。その親書は、中国政府も田中訪中を歓迎する立場である事を表明していた。同時に以下の日中復交三原則を提示していた。
      ①北京政府を中国の唯一合法政府と認める。
      ②台湾を中国の一省と認める。
      ③日華平和条約を廃棄する。

 日本は三原則を受け入れ、1972年9月の田中訪中が実現する。しかし、共同声明作成は難航した。三原則の③について、日本外務省からの異論が強かった。「廃棄」ではなく、「自然消滅」とすべきとした。結局、「廃棄」を盛り込まず、台湾との外交関係は終了したとの大平外相の談話を北京での記者会見で発表する事で落ち着いた。最終的に日中平和友好条約が結ばれるまでには、長期の交渉を要した。条約は福田内閣期の1978年にようやく調印された。
# by utashima | 2014-02-22 21:59 | 読書2 | Trackback | Comments(0)