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『戦後と高度成長の終焉(日本の歴史24)』(河野康子著)の第3章

第三章 変貌する戦後---1955年~1972年

1 保守合同の成果

 1955年2月の総選挙では、日本民主党が多数(185議席)を獲得。自由党は112議席だった。一般に保守本流という言葉は、池田・佐藤両政権期に代表される吉田茂の直系政治家を指すものとされる。しかし、上記の数字にも表れているように、自民党には吉田自由党からの連続性だけでなく、民主党からの連続性が強く受け継がれている。鳩山・石橋・岸政権期には民主党系の影響力が優位だった。民主党が自民党に政策的遺産として継承した理念とは、様々な格差の解消、いわば平等化と表現できるものであった。

 1955年11月に発足した第三次鳩山内閣では注目すべき政策的新機軸があった。政府レベルで初めて経済計画の正式決定(閣議決定)を行なった。鳩山内閣は発足直後から長期計画を経済運営の基本とする姿勢に転じ、1955年1月に「総合経済六ヵ年計画の構想」が閣議了解されている。これが1955年12月に閣議決定され、「経済自立五ヵ年計画」となった。この計画は雇用政策を重視していた。そして、1957年2月に発足した岸内閣期に「新長期経済計画」に発展され、高い成長率を維持しつつ「完全雇用」に接近する事が目標とされ、1959年の「国民所得倍増計画」に至る。完全雇用は、1958年~1961年の岩戸景気の中で実現に向かった。

 民主党から自民党へ継承されたもう一つの理念として、国民皆保険へと向かう社会保障政策がある。実は、戦前に既に健康保険法(1927年施行)と国民健康保険法(1938年公布)があった。健康保険法での加入者は国民の約3%だった。国民健康保険法は、戦争末期に空襲や疎開により基盤が失われた。選挙における有権者獲得手段として社会保障の充実が注目されたが、これは民主党系の政策理念として存在していた。そして、1958年に岸内閣の下で国民健康保険法が拡充され、市町村による国保の強制設立が実現。この基盤の延長上に、池田内閣期の1961年に国民皆保険が実現した。

2 外交の調整と自民党政治---日ソ国交回復と安保改定

 1954年12月、内閣首班指名で両派社会党は鳩山に投票し、翌日、鳩山内閣が発足。社会党はその後も、鳩山内閣期の日ソ交渉に支持の姿勢を取った。日ソ交渉では、自由党・民主党間で対立、保守合同後も新生自民党内部で対立を続けた。

 1955年から翌年にかけて合意された日ソ交渉は、平和条約締結には至らず、北方領土問題は懸案として残された。1956年10月の鳩山首相の訪ソにより、日ソ共同宣言がモスクワで調印され、日ソ国交正常化は実現した。その結果、1956年12月に日本の国連加盟が実現した。その後、シベリア抑留問題にも解決の糸口が開かれ、ソ連は抑留者の帰還を認める事になる。

[日ソ交渉の経過]
 ソ連は1951年の講和会議に出席しながら条約に調印しなかったが、これは失敗であったとの見方が強くなってきた。1953年にスターリンが死去し、平和攻勢に転じたソ連は、日本との国交回復を重視するようになる。

 1955年初め、国交回復の打診目的で、元ソ連代表部のドムニツキーが政府書簡を重光外相に届けた。重光に受け取りを拒否され、直接鳩山首相に届けた。鳩山はドムニツキーと会見し国交回復に意欲を示した。背景に、シベリア抑留者の帰国を求める世論があった。

 1955年6月から日ソ交渉が開始された。8月9日、ソ連全権マリク駐英大使から、歯舞・色丹の二島返還で妥協を図る提案があった。これに対して日本は8月30日、国後・択捉を含む四島の即時返還を求め、交渉は行き詰まった。この間の8月23日、重光外相は岸信介・河野一郎を伴い訪米。ダレス国務長官と会談。この会談後に外務省は、日本側全権に四島返還を主張するよう訓令を出した。1955年11月15日に自民党が結成され、党議として四島返還を求める事を規定した「日ソ国交の合理的調整」を正式決定した。この決定は、自由党系の主張に沿ってまとめられ、その後の日ソ交渉を制約した。

 1956年7月、訪ソした重光は、それまで四島返還を主張していたが、突然二島返還で妥結する方針に転換したため、自由党系議員から交渉中止を求める動きが強まり、政府は重光に交渉中止の訓令を出した。「重光豹変」と呼ばれる事態である。この真相は、必ずしも明らかではない。

 この頃、日ソ交渉に対する米国の意向が日本に伝えられた。1956年8月、ダレス国務長官は「日本が二島返還でソ連と妥協するのであれば、米国は沖縄の併合も辞さない。」と発言。9月に、米国務省から日本政府に、以下の覚書が伝えられ公表された。
  「対日講和条約第二条で日本が放棄した領土は、国後・択捉を含まず、国後・択捉は歯舞・色丹とともに日本固有の領土である。」


 1956年10月、鳩山首相自らモスクワを訪問、日ソ共同宣言に調印した。

[安保改定のプロセス]
 1951年9月に調印された日米安保条約は、以下の問題を持っており、不満足なものであった。
  ・米軍が、占領終結後もほぼそのまま残された。
  ・米軍基地は、条約上は日本を防衛する義務を負っていなかった。
  ・日本国内に内乱が起きた場合に在日米軍が出動できるとした内乱条項があった。
  ・事前の同意が無ければ、米国以外の外国軍隊に駐兵権を与えないという第三国条項があった。
  ・条約の期限が明示されていなかった。
 そのため、安保改定に向けた日本からの働きかけが、日ソ交渉と併行して始まる。

 鳩山内閣後の石橋内閣(1956年12月23日発足)に外相として入閣した岸信介は、石橋が病気で倒れた後、1957年2月に首相となり、第一次岸内閣を発足させた。

 1953年~1957年にかけて、在日米軍基地をめぐる被害の発生と紛争が相次いだ。石川県内灘における米軍試射場としての土地使用をめぐる住民の実力抵抗、1955年の東京都立川市(旧砂川町)における立川基地滑走路拡張工事の強行に伴う流血事件、1957年1月の群馬県相馬が原での日本人女性射殺事件(ジラード事件)など。これらの事件は、基地反対を掲げる社会党に対する有権者の支持を高めた。
 1957年6月、岸は訪米し、アイゼンハワー大統領と会談、安保条約の再検討を提案した。その内容は、米軍の対日防衛義務の明文化、米軍装備変更時(核兵器持ち込みを含む)の事前協議などであった。翌1958年2月から条約改定交渉が本格化する。1960年5月、自民党は新安保条約と関連法案の単独採決を行なった。1960年6月15日、国会周辺のデモ隊と警官隊との衝突の中、東大女子学生が死亡すると言う事態となった。参院でも自民党単独採決を行なって新安保条約を成立させた後、岸内閣は退陣した。

 1960年7月19日、第一次池田内閣が成立する。新安保条約では、旧条約の問題点を解消し、新たに事前協議制を設置した。

3 高度経済成長と開放体制への移行

 新安保条約の国会批准を待って岸内閣が退陣し、1960年7月、池田勇人内閣が発足。同年12月に池田内閣は、「国民所得倍増計画」を閣議決定した。

 日本は1952年8月にIMF(国際通貨基金)に参加、翌年にGATT(関税及び貿易に関する一般協定)に仮加盟、1955年にGATTの正式な一員となった。しかし、ヨーロッパ諸国は日本に対しGATT規約第35条を適用して対日差別を続けた。この第35条適用撤回のため、それぞれの国を相手に二国間交渉を行ない、1964年にヨーロッパ主要国による対日差別が撤回された。対日差別の理由の一つは、日本の低賃金労働であった。1959年10月の第15回GATT総会で、米国務次官が、日本に対する第35条適用を早急に撤廃するようヨーロッパ諸国に求めた。同時にこの総会では、日本に対する貿易自由化要求が強く出された。1950年代半ばから、日本は実質で二桁成長率を達成していた。1963年に自動車生産は120万台を超え、輸出は10万台を超えた。5年前と比べて、生産で7倍、輸出で10倍の伸びであった。

 1963年、日本はGATT12条国から11条国へ移行した。これは、国際収支上の理由で輸出入制限をしてはならないという義務を受け入れる事を意味した。1964年には日本はIMF八条国へ移行した。これにより、国際収支上の理由で為替取引制限を行なう事ができなくなった。1964年、日本はOECD(経済協力開発機構)に加盟した。これにより、日本が先進国クラブへ仲間入りしたとして注目された。この年の秋、東京オリンピックが開催された。

 1958年7月~1961年12月までの42か月間、「岩戸景気」と呼ばれた好景気が続き、1965年11月~1970年7月までの57か月間、「いざなぎ景気」と呼ばれた好景気が続いた。国民総生産は、1968年には実質で1960年の2倍を超えていた。1970年において日本の国民総生産は、米国に次ぐ世界第二位となり、国民所得(一人当たりドル換算)も英国とほぼ同水準となった。貿易収支も1968年以降は黒字が定着していた。

4 二党制の苦悩と多党化現象

 自民・社会の両政党が国会議席の大半を占める状況は、1960年代半ばには揺らぎ始めた。多党化の波が押し寄せた。二大政党の議席数減少は、先ず社会党に現れ、次に自民党に現れた。この変化の大きな要因は、民社党と公明党の出現である。社会党内の西尾派と河上派の一部が離党して1960年1月に民主社会党を作った。初代委員長は西尾末広である。社会党の分裂は、労働勢力の分裂と連動する。労働勢力の再編の結果、社会党と総評、民社党と同盟、という提携関係が形成された。1976年の総選挙で落選した江田三郎は、翌1977年3月に社会党を離党して社会市民連合(社市連)結成に向かったが、5月に死去。江田の死後、社会党を離党した田英夫らが社市連(菅直人らのグループも参加)に合流し、社会民主連合(社民連)となった。1960年代の国会は、雇用対策法・調整年金・健保特例法などの生活関連重要法案の審議が進んでいたが、社会党は、福祉国家という考えが資本主義の延命策であるとの批判的立場を取って、積極的な対応をしなかった。そして、社会党の議席は低落傾向をみせた。

 宗教団体の創価学会は、1955年頃から政界進出を試み、1962年に創価学会政治連盟を改称して公明政治連盟を立ち上げた。これを母体に、1964年に公明党が結成される。1969年には衆院で社会党に次ぐ第三党となった。1970年6月の党大会で新綱領を決定、国民政党を標榜して創価学会との分離を表明。1976年には自民党から新自由クラブが離脱。こうして、政党政治は二党制から多党化への変化を定着させた。

 1960年に池田内閣が国民所得倍増計画を決定し、「全国総合開発計画」が策定されて、太平洋ベルト地帯の各都市に石油コンビナートの建設が相次ぐ。三重県四日市市では1960年頃から重い喘息症状の人々が急増。これは工場群から排出される亜硫酸ガスや窒素酸化物が原因であった。1956年には熊本県水俣で有機水銀による中毒症状の患者が報告されている。公害に対して国よりも早く対応したのは、横浜市や東京都などの先進的な自治体だった。1967年8月、公害対策基本法が公布された。これには「調和条項」が盛り込まれ、企業の利益を損なわないような配慮が示されていた。「調和条項」に対する世論の反発は強く、1970年に公害対策基本法の改正が行なわれ、「調和条項」が削除された。四大公害訴訟(熊本水俣病・新潟水俣病・四日市公害・イタイイタイ病)の裁判は1970年代初めにかけて次々に結審、患者側の勝訴となった。1971年、環境庁が発足した。

 その後、健保・年金などの社会保障分野の課題が次々と政治の舞台に上がってくる。環境問題や社会保障問題に対して、自民党の対応は立ち遅れ、これが1970年代以降の自民党長期低落傾向の一因となる。

5 日米協調と地域外交

 日本が国連加盟を許された翌年の1957年に出された「外交青書」第一号は、以下の外交三原則を掲げた。外交青書は、現在日本が発行している白書の中で唯一「青書」と呼ばれているが、これは外交青書を作成し始めた当時、参考としたイギリス議会の外交委員会の報告書の表紙が青色であったので、これに倣ったもの(ウィキペディアより)。
  ①国連中心主義
  ②自由主義諸国との協調
  ③アジアの一員としての立場の堅持

 しかし、現実の対アジア外交は、多くの困難に満ちていた。戦後賠償を巡るアジア諸国との交渉は難航した。賠償額が折り合わなかった。フィリピン、南ベトナム、インドネシア、ビルマ(現ミャンマー)も賠償を要求した。これらの諸国からの請求総額は約300億ドルといわれる。ビルマとは1955年に妥結、インドネシアとは1958年、南ベトナムとは1959年に賠償交渉がまとまった。フィリピンとは1956年に賠償協定が調印され、1976年にようやく支払いが終結した。戦争終結後、賠償支払い終了までに20年以上が費やされた。

 池田内閣期に既に日韓国交正常化への取り組みが進められていた。社会党は、北朝鮮を除外して韓国との国交正常化を先行させるのは朝鮮半島の分断につながるとして反対した。日韓国交正常化は、米ラスク国務長官が1961年に訪日した時に、日本に求めた。ラスク長官は、韓国の対日賠償請求権問題の解決は、米国による対韓援助の前提条件であると発言。病気のため辞任した池田の後、1964年11月に第一次佐藤内閣が発足。その直後の1965年2月、椎名外相をソウルに派遣し、基本条約に向けての協議を進めた。日韓併合以来の旧条約は「もはや無効」という表現で清算し、請求権については、経済協力という形で有償(2億ドル)、無償(3億ドル)、民間信用供与(11億ドル以上)を行なう事で了解に達した。当時の韓国の国家予算は3.5億ドル、日本の外貨準備額は18億ドル程度であった。この日韓基本条約は1965年6月に東京で調印された。しかし、その批准国会は、自民党・社会党の全面対決となった。自民党は強行採決を図り、4日間にわたる徹夜国会で衆院を通過させ、参院では公明党を含む野党が退場する中、自民党と民社党のみで成立させた。結成から1年の公明党は、この国会では反自民の立場を明確にしていた。
 社会党は、日韓国会の翌年、階級政党としての立場を主張し、「日本における社会主義への道」を決定した。当時は、この新綱領を守る事が、社会党にとって次第に現実との接点を見失う結果になるとは、予想されていなかった。

 沖縄の法的地位は、1951年講和条約第三条と、講和会議でのダレス米代表とヤンガー英代表の演説により確認されている。具体的には、沖縄・奄美大島・小笠原諸島などの第三条地域に対し、米国が施政権を行使できるが、主権は日本に残されている事が認められていた。この第三条の規定は、沖縄の地位に関して、日米間だけの協議で決定可能と認められていた。そのため、日本は講和条約調印後の早い時期に日米間の取り決めが行なわれることを期待した。しかし、米側は、沖縄基地の戦略的重要性を主張する軍部の意向で、この取り決めに応じなかった。

 1953年12月、日米協定により奄美大島返還が実現した。これ以降、沖縄の基地建設は本格化した。1960年の安保改定の際、日本側は沖縄問題よりは条約改定を優先し、米側は、本土の米軍基地が縮小された結果、沖縄への基地機能移転が進み、沖縄の長期保有を考えていた。

 しかし、1961年に発足したケネディ政権が、60年安保での日本国内の反米感情に配慮してライシャワーを大使に任命した事は、沖縄問題を日米関係の安定化の観点から見直す事に繋がった。ライシャワー駐日大使の夫人は、元首相の松方正義の孫である。その後、国務省と国防省は特別研究グループを発足させ、軍部に対する説得を試み始めた。

 1964年に発足した佐藤内閣は、当初から沖縄問題に対する関心を持っていた。1965年1月に訪米した佐藤首相は、ラスク国務長官との会談で沖縄問題を話題にしている。1967年11月、第二次佐藤・ジョンソン会談で、「両三年内に」返還の期日を決定するとの合意に達した。なお、「両三年」とは2~3年という意味。この会談で、小笠原諸島の返還が合意された。1967年12月、臨時国会で佐藤首相は「非核三原則」を打ち出した。核兵器を「作らず」、「持たず」、「持ち込ませず」である。

 1969年1月のニクソン政権発足後、国家安全保障会議(NSC)で沖縄返還に伴う基地機能の変化について重要な決定が行なわれた。返還時期を1972年とし、返還時に沖縄基地の核兵器を撤去、その後は事前協議制を適用するという内容のNSC文書に大統領がサインした。注目すべきは、緊急時の韓国・台湾防衛に当たっては、事前協議制の適用を緩和するという了解を日本から取りつける事が代償となっていた。返還条件は1969年11月の佐藤・ニクソン会談で合意された。1971年6月17日、沖縄返還協定が調印され、1972年5月15日に返還された。

 1971年7月と8月に、ニクソン大統領は対外政策に関する大きな転換を行なった。日本へは事前の説明はなかった。1971年7月、ニクソンは早期の北京訪問と中華人民共和国との国交正常化方針を公表した。
 1951年の講和会議には中華人民共和国・中華民国の双方とも招かれず、日本は米英の取り決めにより講和後にいずれかの政府との間で講和・友好条約を結ぶ事となっていた。但し米国は中華民国との間で講和を結ぶ事を望んでおり、1952年4月、台湾国民政府との間で「日華平和条約」を結んだ。池田内閣期に入って、自民党の高碕達之助、中国の廖承志(りょう しょうし)が参加して貿易協定に調印。両名のイニシャルを取りLT貿易と呼ばれた。これにより、国民政府との間は悪化した。このような状況の時、1971年7月のニクソン・ショックが起きた。1972年2月にニクソンは訪中した。
 更に8月、第二次ニクソン・ショックが発生。米国は金とドルの交換停止決定を通告した。

 1972年5月の沖縄復帰式典を終え、7月に佐藤内閣が退陣、後継の田中角栄内閣が1972年7月に発足する。自民党内では、かねて吉田外交に対抗する意味で、松村謙三・田川誠一などの党内反主流派が中国との交流を進めていた。田中内閣発足の7月、田川は北京との間で田中訪中についての中国側の意向を確認している。公明党は、田中内閣以前から竹入委員長を中心とする訪中団が中国政府と接触し、周恩来からの親書を田中に取り次いでいる。その親書は、中国政府も田中訪中を歓迎する立場である事を表明していた。同時に以下の日中復交三原則を提示していた。
      ①北京政府を中国の唯一合法政府と認める。
      ②台湾を中国の一省と認める。
      ③日華平和条約を廃棄する。

 日本は三原則を受け入れ、1972年9月の田中訪中が実現する。しかし、共同声明作成は難航した。三原則の③について、日本外務省からの異論が強かった。「廃棄」ではなく、「自然消滅」とすべきとした。結局、「廃棄」を盛り込まず、台湾との外交関係は終了したとの大平外相の談話を北京での記者会見で発表する事で落ち着いた。最終的に日中平和友好条約が結ばれるまでには、長期の交渉を要した。条約は福田内閣期の1978年にようやく調印された。
by utashima | 2014-02-22 21:59 | 読書2 | Trackback | Comments(0)

『戦後と高度成長の終焉(日本の歴史24)』(河野康子著)の第2章

第二章 国際環境のなかの講和と安保---1949年~1955年

 1946年には米国政府内で、対日講和の検討が始まっていた。この頃、日本に対する懲罰的な講和が検討されていた。

 1948年から49年にかけて、米国の対日占領政策は徐々に変化した。西ヨーロッパは、ソ連不参加の下で、米国からのマーシャル・プラン(ヨーロッパ復興計画)の受け入れを決定していた。アジアにおいて、中国の国民党・共産党の内戦は、1948年秋頃には共産党優位のもとで終結に向かいつつあった。

 1949年1月、衆議院で単独過半数を占める政党(民主自由党)が、初めて現れた。一方、社会党は議席数を大幅に減少させた。社会党・共産党は全面講和を提唱していたが、民主自由党政府(吉田首相)は単独であっても早期講和を選択する立場を表明した。
 1950年に吉田は、池田勇人を米国に派遣し、講和後の日本に米軍基地を残すことを日本側から容認し申し出るという内容の伝言を大統領特別顧問のドッジに伝えさせた。この内容は外務省にも知らされていなかった。池田が1956年に出した回想の中で初めて明らかになった。

 1950年にかけて、総司令部により日本共産党中央委員に対する公職追放が行なわれた。1945年秋に自らの手で解放した共産党に対し、総司令部は厳しい取り締まりに転じた。1949年には国鉄労組に対する人員整理が始まり、下山事件・三鷹事件・松川事件など、鉄道関係の不穏な事件が続いた。

 1950年4月、野党勢力は芦田均、三木武夫を中心とした国民民主党を結党。社会党と自由党の中間の政治を目指した。社会党、自由党(与党)、国民民主党の三党の間で、講和論争が繰り広げられた。国民民主党の若手議員の間では、全面講和と永世中立論が根強い支持を広げていた。しかし、芦田は永世中立と全面講和の非現実性を認識していた。

 1950年6月25日、朝鮮戦争が勃発。芦田は、永世中立不可能論を雑誌『文芸春秋』(1950年7月号)に公表し、その後更に、国防軍創設による自主防衛論を展開した。

 講和と安保は、1951年9月8日の同じ日に、サンフランシスコで調印され(時刻と場所は異なる)、翌4月に同時発効した。講和構想は1946年頃から検討されてきたが、日米安保の考えは、1950年頃に現れた。
[講和条約の成立過程(戦後初期からの変転ぶり)]
 米国のバーンズ国務長官は、1946年6月、「日本の武装解除及び非軍事化に関する四か国条約案」を提示。四か国とは、英米中ソである。国務省極東局は1946年10月、対日講和条約の起草に着手。この時期の講和構想は、著しく懲罰的な性格を持っていた。具体的には、
 ①独立後25年間は国際監視機構を置いて日本を監視する事
 ②日本に相応の賠償金を課すこと
 ③再軍備を禁止し、工業能力を制限する事
などである。国際監視機構には英米中ソが参加する事が想定されていた。起草の中心となったH・ボートンに因み、ボートン草案と呼ばれ、1947年3月に完成した。東京のマッカーサーらに伝えられたが、マッカーサーがいち早く反論を寄せた。マッカーサーは25年間の対日監視に反対し、寧ろ日本に経済復興を許すべきとした。1947年3月、マッカーサーは記者会見を行ない、早期講和を提唱した。その中で、非軍事化と民主化の目的は、占領後に既に達成されており、日本の安全保障を国際連合に委ねる事で日本と講和条約を結ぶべきとした。
 マッカーサー構想もボートン草案も、米ソ両国の大国間協調に対して楽観的見通しに基づくものだった。米国務省は、ボートン草案を骨格とした講和条約草案(八・五草案)を1947年8月に完成させた。

 八・五草案に対し、国務省政策企画室のケナン室長は、根底的な批判を加えた。ケナンは、対日講和を、米国の太平洋地域での政策目的との関連で構想し、日本をアジアにおける友好的で信頼できる同盟国とする事が米国の利益であると主張した。1948年3月、ケナンは日本を訪問し、マッカーサーとの会談を行ない、帰国後、対日政策の本格的な再検討に取り組む。この動きは政府上層部を動かし、国家安全保障会議(NSC)の正式決定としてトルーマン大統領の承認を得た。「NSC13/2」と呼ばれる重要な文書である。その骨格は、講和は非懲罰的なものにすべきとし、経済復興に関する部分に重点を置いていた。米国の援助計画により日本の対外貿易を再建し私企業を奨励するとした。なお、この頃は、日米二国間の安全保障に関する取り決めが前提とされていた訳ではなかった。しかし、1950年6月の朝鮮戦争勃発で状況が変わった。

 ヨーロッパにおいては、1947年2月にパリでイタリアをはじめとする各国と連合国との講和条約が調印された。1947年10月に日本の外務省がまとめた資料に、講和以後の日本の安全保障の選択肢の一つとして、米国との間の安全保障に関する取り決めが挙げられていた。

 講和条約促進が決まった頃、国際環境は急変しつつあった。中国では1949年10月、共産党政権が成立。それに先立つ4月にヨーロッパにNATO(北大西洋条約機構)が成立、9月には西ドイツ政府が発足していた。

 1950年1月5日、ソ連の参加が得られなくとも英米で講和を進める事が、トルーマン大統領によって表明された。1950年4月に国務長官顧問に任命されたダレス(John Foster Dulles)が講和条約担当となる。ダレスは、ドイツに対して第一次大戦後に課された懲罰的講和がナチス台頭に至ったとの歴史観を持っていた。ダレスは、1950年6月の訪日を皮切りに翌51年にかけて4回訪日し、講和と安保の両条約を成立させていった。

 日米二国間協定で講和以後も米軍基地を保持する考えは、1950年7月に国務省・国防総省間で実質的な合意に至る。9月に講和と同時に安全保障に関する日米協定を結ぶことで米政府内の同意が得られた。これに基づいてダレスは講和7原則を取りまとめ、関係各国に提示した。7原則は、日本に対する賠償請求権の放棄を認めた上で、再軍備や工業生産能力などに制限を加えないというものだった。ダレスは先ず英国に7原則を提示、最後にソ連のマリク国連代表と会談、マリクは7原則に反対の意見を示した。しかし、ダレスは、極東委員会メンバーからの反対があっても講和を推進する事を表明した。
 オーストラリア・ニュージーランドなどは7原則の中の「日本の再軍備に制限を加えない」事に懸念を表明していた。そこで米国は、ANZUS(オーストラリア・ニュージーランド・アメリカ相互防衛条約)を結ぶ事にし、1951年9月に調印した。
[55年体制への道---社会党統一と保守合同---]

 講和の成立は、政党政治に2つの側面から衝撃を与えた。1つは、公職追放されていた政治家たちの追放解除であり、1951年6月と8月に実施された。かつての大物政治家たちが復帰し、政党再編へと向かう。もう一つは、講和と安保による独立は、不完全なものであるとして吉田外交への批判が高まった事である。

 追放解除と講和の正当性の議論の波に最も早く洗われたのは、社会党だった。1951年10月の講和批准国会の会期中に、社会党は左派社会党と右派社会党に分裂。分裂した両派社会党は、1955年10月の再統一までの3回の国政選挙でそれぞれ画期的な議席増を実現した。

 1950年に結成された国民民主党には、2つの潮流が生じていた。1つは穏健な勤労者を味方に付けるという方向であり、もう1つは芦田や中曽根康弘などが主導した自衛軍創設論である。自由党の吉田外交は、再軍備に消極的であった。国民民主党はその後の党再編で改進党となるが、1952年の改進党による選挙公約の中に、社会保障と軍備拡充が掲げられた。

 一方の自由党では、復帰した鳩山一郎を中心に分派自由党が1953年3月に結成されて、自由党から分かれた。

 1951年11月、『シカゴ・サン』紙の特派員マーク・ゲインが書いた『ニッポン日記』の翻訳が出版され、新憲法制定の事情が明かされた。幣原内閣末期に総司令部民生局から提示された草案を基本的に踏襲したものが日本政府案として公表された経緯が、占領終結を目前にして初めて広く知られる事となった。

 1954年9月、岸信介・石橋湛山らの新党結成準備会に、重光葵が改進党を率いて参加、これが母体となって11月、鳩山を総裁とする新党、日本民主党が結成された。1955年11月、日本民主党と自由党がそれぞれ解党して自由民主党を結成した。衆院で299名、参院で118名が参加し、過半数を上回る議席を得た。翌1956年4月に鳩山が初代総裁に選出された。この保守大合同の背景には、1952年から55年の3回の総選挙で急速に議席を伸ばした左派社会党の存在があった。日本民主党と自由党の合同の直前の1955年10月に、両派社会党の統一が実現していた。
 右派社会党は、議会主義の厳守を掲げていたが、左派社会党は、議会で多数を占めた後は、社会党政権を恒久化する事を考えていた。永久政権論である。両派社会党の統一に際し、議会主義を基本とするも永久政権論の影響も残されていた。こうして日本社会党が発足した。

by utashima | 2014-02-09 18:12 | 読書2 | Trackback | Comments(0)