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『戦後と高度成長の終焉(日本の歴史24)』(河野康子著)の第1章

第一章 復興期の政党政治---1945年~1949年---

1.戦後体制への始動
 天皇による敗戦の玉音放送が行なわれた1945年8月15日に、鈴木貫太郎内閣は総辞職、東久邇宮稔彦(ひがしくにのみや なるひこ)内閣が成立する。連合国軍最高司令官D・マッカーサーが厚木飛行場に降り立ったのは8月30日。9月2日、東京湾のミズーリ号上で降伏文書への調印式が行なわれた。9月22日に、占領改革の基本指針となった「降伏後における米国の初期の対日方針」が公表された。間接統治を採用する事、日本の非軍事化・民主化などが記されていた。11月3日には、「初期の基本指令」がワシントンから伝えられた。この文書には、日本経済の復興について米国は責任を負わない等が盛り込まれていた。なお、この文書は非公表だった。

 1945年10月、幣原喜重郎内閣が発足。1946年4月まで政権を担当。東久邇宮内閣と幣原内閣は政党を基盤とするものではなかったが、1945年11月から12月にかけて、既に戦後政党の結成が進んでいた。戦後政党にとって最初の課題は、軍部と官僚によって引き起こされた戦争を、どのような論理で否定するかにかかっていた。1946年総選挙で第一党となった自由党総裁の鳩山一郎、翌47年総選挙で成立した社会党首班連立内閣とその後継の民主党首班連立内閣で相次いで首班となった片山哲と芦田均、この三人の政治家は、ある一点で繋がっていた。何れも戦時議会の少数会派の同交会に所属し、多数派であった大日本政治会(翼賛政治会の後身)とは一線を画す立場を共有していた。

2.「民主化」への時代認識
 戦後政治の一翼を担う政治家となった石橋湛山と吉田茂にとって、敗戦は慶賀すべき事態であった。石橋は敗戦3日後の日記に「予はある意味において日本の真の発展のために、米英等と共に日本内部の逆悪と戦っていたのであった。今回の敗戦が何ら予に悲しみをもたらさざる所以である。」と記している。また、1945年8月末に吉田茂が書いた書簡を見ると、「聖断」による終戦の実現を歓迎し、良き戦前への回帰としてのデモクラシー実現を予測していた事が伺える。
 このように吉田をはじめとする戦時下の反東条勢力は、敗戦を「必ずしも悪からず」と把握したが、その彼らからみても、戦後は予想を超える激震を伴って訪れた。

 ポツダム宣言が日本に要求した「民主化」を吉田茂は、戦前に日本に存在した議会制と政党政治にほぼそのまま置き換える事で実現できると予想していたと思われる。吉田にとってデモクラシーとは、軍部台頭によって中断された政党政治を回復し再建する事であった。これは実は大きな誤解であった事が、その後すぐに吉田自身が苦い思いで受け入れる事になる。

 吉田が入閣する1945年9月頃から、事態は大きく変化する。変化の兆しの1つは、1945年9月11日、総司令部が戦犯として東条英機元首相らの逮捕命令に踏み切った事である。労働改革・財閥解体などの方針が次々に打ち出され、総司令部と日本政府の間での基本認識の齟齬が強まってくる。総司令部は政治犯の釈放の方針を示し、これに反対した山崎内相などを罷免した。東久邇宮内閣は退陣した。
 幣原喜重郎が次の首相となる。1945年10月11日マッカーサーと会い、以下の五大改革が口頭で示された。
  ①婦人参政権の付与  ②労働組合結成の奨励  ③学校教育の自由主義化  ④圧制的諸制度の廃止
  ⑤経済機構の民主化

吉田外相の記名のある翌日付の日本政府の以下の文書が残されている。
 「米国の目的は、日本を非軍事化し、民主主義化し合理化するにあり。天皇および日本政府はこの見地よりこれを利用するに止まりてこれを支持するものにあらず。」
 日本政府は、経済民主化(財閥解体)に複雑な反応を見せた。吉田外相は、改革に批判的態度を明らかにする。吉田は会見で、軍部に協力したのはもっぱら新財閥であり、旧財閥は戦時体制とは距離を置いていたとして、財閥解体論に異論を唱えた。吉田の発言は、根拠のないものではなかったが、国際世論から強い反発を招いた。

 近衛は1945年10月11日に内大臣府御用掛に任命され、憲法学者佐々木惣一の協力を得て、憲法問題に取り組み始めた。これが報道されると、10月31日、ニューヨーク・タイムズなどは戦犯の疑いのある近衛による憲法改正着手を非難した。12月には近衛は戦犯容疑で逮捕されることになり、逮捕前日に自殺する事態となった。

 1946年1月に、ワシントンから総司令部に憲法改正についての方針が伝えられた。2月にマッカーサーは三原則として、①天皇の地位は憲法に従う事(天皇を象徴とする)、②戦争を放棄する事、③封建制を廃止する事、を挙げ、憲法改正草案を日本側に示した。これを受け取った吉田外相らは愕然としてなすすべがなかったと伝えられている。2月22日、幣原首相は天皇に拝謁し、天皇から「象徴で良いではないか」との意向があったとされている。3月に入って、日本側は総司令部案を一部修正の上で受諾、7日に「憲法改正草案要綱」を新聞発表した。総司令部案の骨子であった、天皇の地位を象徴とする事と戦争放棄を受け入れ、これを日本政府案として公表したのだった。

 1946年4月の総選挙後に第一次吉田内閣が発足し、憲法改正草案が審議された。8月に衆議院で可決、続いて貴族院の審議を経て、10月7日に可決成立、11月3日に公布された。これが日本国憲法である。施行は1947年5月3日である。政府案がマッカーサー草案に基づくものという事は、公には言ってはならんと総司令部から堅く口止めされていた。

 国内市場の拡大という点からも、1946年10月公布の自作農創設特別措置法によって実施された第二次農地改革は、画期的なものだった。農地改革構想はマッカーサー五大改革にも掲げられてはいなかった。日本の農林省官僚が第一次改革案を作成し、これに対して、より改革的要素を強めた法案が対日理事会(英米中ソの代表からなる対日占領監視機関)から出されるという経緯だった。

 戦後間もない当時、過去の戦争に向き合うという作業は、国内世論がこれを問うという形では進まず、戦争の帰結と責任は、極東国際軍事裁判に集約され、ここで決着が図られた。1946年1月、極東国際軍事裁判所条例が公布され、5月3日に裁判が開始された。裁判は1948年まで開かれ、A級戦犯25名が有罪となった。東条英機・広田弘毅など7名が死刑となり、12月23日に刑が執行された。

3.保守連立の出発
 1946年の総選挙は、衆議院議員選挙法改正による完全普通選挙による最初の選挙であった。第一党は自由党、続いて、進歩党、社会党であったが、第二、三党の議席差は1でしかなかった。自由党総裁の鳩山一郎が組閣する筈のところ、組閣目前に鳩山一郎は公職追放となった。幣原の推輓を受けた吉田茂が首相となって第一次吉田内閣を組閣する。自由党と進歩党の保守連立であった。

4.中道連立の経験
 社会党・民主党・国民協同党の三党を与党とした社会党首班三党連立内閣が1947年6月に成立した。片山哲内閣である。民主党は1947年3月31日に結成され、芦田均が総裁となった。国民協同党は1947年3月8日に結成され、書記長に三木武夫が就任。総司令部はこの三党連立を支援する方針を明確にしていた。しかし、1948年2月には補正予算編成を巡り、社会党内に亀裂が生じた。社会党左派の造反であった。片山は2月10日に政権を投げ出す。3月10日に芦田均内閣が成立する。

5.自由党の軌跡---結党から1949年総選挙まで
 1948年10月に芦田内閣が総辞職したため、自由党が政権に復帰。同年3月に自由党は民主自由党と改名していた。その頃から自由党内には、貿易立国論を政策基盤とする方針が固まりつつあった。自由党は、既に発足していたIMF(国際通貨基金)に関心を持っていた。1944年に米国ニューハンプシャー州ブレトン・ウッズで国際会議が開かれ、第二次大戦の起因するところに鑑みて国際経済秩序の創設と強化が議論され、ブレトン・ウッズ協定が結ばれた。この協定は、ドルと金の交換を自由にし国際通貨制度を金本位制からドル本位制に転換し、国際通貨基金制度を発足させることを決めた。これにより、1945年にIMFが創設された。
 民主自由党は、1949年1月の総選挙で過半数の議席を獲得し、社会党の議席数は解散前の1/3に減った。
by utashima | 2014-01-30 20:52 | 読書2 | Trackback | Comments(0)

『帝国の昭和(日本の歴史23)』(有馬 学著)の第6章

第6章 総力戦の諸相

 第二次近衛内閣(1940年7月~1941年7月)が当初に行なった外交上重要な決定は、1940年7月27日の大本営政府連絡会議で決定された「世界情勢の推移に伴う時局処理要綱」と、9月27日に調印された日独伊三国軍事同盟である。この前者の中で、「南進」が登場する。南進とは、ドイツの勝利で宗主国を失った形の旧フランス領インドシナ(仏印、ベトナム・ラオス・カンボジアを合わせた領域に相当)や旧オランダ領インドシナ(蘭印、1949年にインドネシア共和国として独立)に対しての進出である。南進は日米関係に緊張をもたらすため、海軍は慎重であった。陸軍も南進に関して意見がまとまっていた訳ではなかった。1940年6月に、蒋介石政権支援ルートの停止状況監視のために陸軍の機関がハノイに派遣されていた。部隊の進駐は9月23日に行なわれたが、その過程で事前の了解を破って出先軍部が武力行使を行なった。米国は9月26日に屑鉄の全面禁輸という報復措置を取り、日米関係は険悪化した。
 日ソ関係は、松岡が1941年3月からモスクワに出向いて交渉し、4月13日に日ソ中立条約を成立させた。

 1941年の日本外交の主題は日米交渉となった。近衛と松岡の間で対米交渉の考えが異なり、近衛は総辞職した後、外相を松岡から豊田貞次郎に替えて第三次近衛内閣を作った。近衛は日米交渉を何とか成立させようと考えていた。

 1941年7月28日、日本は南部仏印進駐を実行、米国は7月25日に在米日本資産凍結、8月1日に石油を含む対日全面禁輸という報復措置をとった。日本側はこのような強硬措置を予想していなかった。日本は9月6日の御前会議で、「帝国国策遂行要領」を決定。これは外交交渉の期限を10月上旬とし、10月下旬に戦争準備を完成させるというものだった。近衛は10月16日に総辞職する。

 後継首相は東条英機に大命が降下した。東条は9月6日の御前会議決定の再検討に入った。戦争決意の下に作戦準備と外交を併行、武力発動を12月初頭とし対米交渉が12月1日午前0時までに成立したら武力発動を中止するとした。米国からの回答は11月26日に日本側に手交された。所謂ハル・ノートであり、中国・仏印からの全面撤兵、三国同盟の否認などから成っていた。米側は前日に、ルーズベルト、ハル、陸海軍首脳の間で、日本に最初の一撃を撃たせることを確認していた。

 対米英蘭開戦は、1941年12月8日、南方軍のコタバル(マレー半島)上陸と、真珠湾奇襲攻撃によって始まった。真珠湾攻撃では、第一航空艦隊の艦載機は停泊中の戦艦6隻を全て撃沈した。10日には海軍の基地航空機がマレー沖を航行中の英国極東艦隊の主力、プリンス・オブ・ウェールズとレパルスの2隻を撃沈した。南方軍は1942年1月2日にマニラを占領、2月15日にシンガポールを陥落させ、3月8日にビルマの首都ラングーンを占領、3月9日にはバンドンを占領した。こうして5月上旬までにはほぼ当初の目的通り南方諸地域の占領が完了した。日本は占領諸地域をどうしようと計画していたのだろうか。

 1941年12月12日の閣議で、この戦争を「大東亜戦争」と称する事を決め、戦争目的を「大東亜共栄圏確立」とした。参謀本部は1941年2月から占領地行政の研究を行なっていた。ビルマとフィリピンの独立承認を考えていたが、開戦前には具体的な方針は確定していなかった。開戦後の1942年1月の79議会において東条首相は、ビルマとフィリピンに独立を与える方針を示した。マレー、シンガポールなどは、日本の領土化または保護領化が検討された。

 1943年11月5、6日、東京で開催された大東亜会議において、大東亜共同宣言が調印・発表された。調印したのは、中華民国(南京政府:1940年に重慶の蒋介石政権に対抗して汪兆銘が南京に立てた政権)行政院長の汪兆銘、タイのワン・ワイタヤコーン親王、満州国の張景恵国務総理、フィリピンのラウレル大統領、ビルマのバー・モウ首相、である。日本はこの年にビルマとフィリピンの独立を承認した。10月30日には汪兆銘と日華同盟条約を締結し付属議定書で戦争状態終了後の撤兵を約した。なお、9月30日の御前会議で「今後採るべき戦争指導大綱」を決定し、絶対国防圏を「千島、小笠原、内南洋及び西部ニューギニア、スンダ、ビルマを含む地域」に後退させた。
 大東亜共同宣言では、大東亜戦争の原因を米英の飽くなき侵略搾取と規定、大東亜を米英の桎梏(しっこく)より開放する事を戦争目的とした。大東亜会議と共同宣言は、4月に外相に就任した重光葵の新政策の一環であった。

 独裁政権に見えた東条内閣期にも複雑で激しい政治力学が存在した事は、伊藤隆氏によって初めて明らかにされた。東条内閣期における反東条勢力の中核は、近衛文麿であった。当初近衛は「革新」派のシンボル的存在だったが、大政翼賛会を巡る論戦の中で怪しくなり、対米英開戦後は明確に反「革新」派としての立場をとった。この近衛の転向について、巧く説明するのは困難である。真崎甚三郎を中心とする陸軍皇道派が反東条で動いた。反東条派は戦争の早期終結を政治目標としていた。近衛が最も早く、徹底した和平派になった。反東条派の多くが依然として名誉ある和平を考えていた1944年半ばの段階で、近衛は即時和平論者だった。現実には東条内閣が崩壊しても、反東条派が構想した政権は実現しなかった。その第一の理由は、天皇に皇道派に対する信頼がなかった事であろう。彼らの真意が天皇に伝わっていなかったと解釈するしかない。

 近衛は、1945年2月14日に天皇に拝謁した時、上奏文を伝えた。「近衛上奏文」と呼ばれている。その冒頭で、「敗戦は遺憾ながら最早必至なりと存候」と、敗戦の見通しを単刀直入に表現した。上奏文は、1日も速に戦争終結の方途を講ずべしと主張する。しかし、軍部内の一味(革新派)を一掃せずに和平に着手するは、国内の混乱を惹起する。よって、その一味の一掃が肝要。それが可能なのは皇道派であり、皇道派を起用して政局を運営できるのは近衛である、と言外に主張する。

 時計の針を少し戻す。緒戦の勝利が一段落した後の戦争指導方針は明確ではなかった。1942年3月7日の大本営政府連絡会議で決定された「大綱」では、長期不敗の政戦態勢を整えるという陸軍の主張と、機を見て積極的方策を講ずという海軍の主張を足したものだった。「積極的方策」として山本五十六大将が計画したのが、ミッドウェー海戦である。ミッドウェー島を攻撃して米艦隊を引き出し、打撃を与えようというもの。6月5日に展開された空母戦は、暗号を解読して待ち受けていた米艦隊の勝利に終わり、日本海軍は主力空母4隻を全て失った。太平洋における戦局の最大の転換点となった。

 米国の本格的反攻は1942年8月に開始された。ソロモン群島の要衝を攻撃し、日本海軍最大の航空基地であるラバウルの攻略を目指すもの。ラバウルが失陥すれば、太平洋の日本の艦隊根拠地であるトラック島が空襲にさらされる。米軍の攻撃は日本が飛行場を建設していたガダルカナル島に向けられた。1943年2月初め、大本営は「転進」と称してガダルカナルから撤退した。1943年4月18日、連合艦隊司令長官の山本五十六の搭乗機がブーゲンビル島上空で撃墜された。事前に暗号を解読されていたためという。

 1943年は世界的にも戦局の転換点であった。2月にスターリングラード攻防戦でドイツ軍が降伏、7月には連合軍がシチリア島に上陸しムッソリーニは政権から追われた。11月22日からルーズベルト、チャーチル、蒋介石が参加したカイロ会談が行なわれ、台湾・満州の返還、朝鮮独立などを含む対日戦後処理方針が決められた。11月28日からルーズベルト、チャーチル、スターリンの間で行なわれたテヘラン会談では、ドイツ降伏後のソ連の対日参戦が約束された。

 米軍の次の攻勢は、マリアナ諸島に向けられた。サイパン、テニアン、グアムなどが米軍の手に落ちると日本本土の殆どがB29による爆撃圏内に入る。1944年6月15日、米軍はサイパンに上陸を開始。19日にマリアナ沖海戦が行なわれたが、日本は惨憺たる敗北を喫した。

 サイパンの失陥により、東条も退陣を余儀なくされた。次期内閣は小磯国昭が奏請された。小磯内閣のもとで「天王山」と呼号されたのがレイテ決戦だった。10月20日、米軍はフィリピンのレイテ島に上陸を開始。連合艦隊は総力を結集して最後の決戦を挑んだ。囮(おとり)となった部隊が米機動部隊を誘出する事に成功したが、後年謎とされたように、栗田健男中将の指揮する主力艦隊は何故かレイテ湾に突入せずに反転し、作戦は失敗に終わった。このレイテ沖海戦で連合艦隊は主力艦船を失い、以後組織的な作戦が不可能となった。この時、神風特別攻撃隊により特攻攻撃が初めて行なわれた。

 1944年9月5日の最高戦争指導会議にて、杉山元陸相が独ソ和平工作、対重慶和平工作、対英米和平工作について発言しているが、小磯内閣の外交は一元化されていなかった。1945年2月19日には硫黄島に米軍が上陸。3月以降、サイパンを基地とするB29の本土爆撃は激しさを増した。3月9日から翌日未明にかけての約300機による東京大空襲では約23万戸が焼失した。2月に、異例の措置として天皇が個別に重臣を招いて意見聴取が行なわれた。近衛の奏上は、その一つであった。4月1日、米軍は沖縄本島に上陸を開始。陸海軍機による特攻攻撃が繰り返され、連合艦隊も戦艦大和を中心とする特攻艦隊を出撃させ、大和は4月7日に撃沈される。4月5日にソ連のモロトフ外相が日ソ中立条約(1946年4月が期限)を延長しない事を通告、小磯は内閣総辞職を行なった。

 後継首相奏請のための重臣会議は、海軍の鈴木貫太郎を選んだ。日本は対ソ特使として近衛を派遣する事をモロトフ外相に伝えたが、モロトフはスターリンに随行してポツダムに向かった。7月26日にポツダム宣言が発表された。この10日前に米国は原爆実験に成功していた。ソ連の回答を待っていた鈴木内閣は、ポツダム宣言を黙殺するとの声明を発表したが、8月6日に広島に、8月9日に長崎に原子爆弾が投下され、8月8日にはソ連は対日宣戦を布告した。

 8月9日に最高戦争指導会議が開かれ、ポツダム宣言受諾では大筋合意を見たが、天皇制の存続、自発的な武装解除、連合軍の本土進駐の回避、戦犯の自主的処罰の4条件を付する問題で紛糾。翌未明になって、鈴木は天皇の決断を仰ぎ、天皇は外務大臣の案(皇室の安泰のみを条件として受諾する)に同意する旨の発言を行なって決着した。
by utashima | 2014-01-13 18:47 | 読書2 | Trackback | Comments(0)

カテゴリ毎の目次が満杯に

 2014年1月にブログ記事を1つ作成し、「読書」カテゴリ目次に登録しようとした。「読書」カテゴリ目次を保存しようとすると、「文字数が多すぎる。xx文字削除しなさい。」といったメッセージが出た。「読書」カテゴリ目次は、普通の記事と同じで、ただ「読書」に関する記事へのリンクを記述したもの。そのリンク数は167になっていた。

 1つの記事の文字数制約が幾らなのか、把握していないが、取り敢えず「読書2」という別のカテゴリを作り、新しく作った記事をそちらにリンクした。

[追記(2014年1月4日)]
 エキサイト・ブログの1記事当たりの文字数制限は、全角で約10000文字でした。なお、目次は大量のリンク情報を含んでおり、画面表示の文字数以上を使用しています。
by utashima | 2014-01-04 09:31 | ブログ作成の経過 | Trackback | Comments(0)

『帝国の昭和(日本の歴史23)』(有馬 学著)の第5章

第五章 革新の光明?

 1936年の二・二六事件後の首相選定において、西園寺はかねてから期待していた近衛文麿を推薦するが、近衛は辞退。陸軍も近衛に期待していた。近衛の辞退理由の一つは、軍の派閥統制に自信がなかった事という。大命は広田弘毅に下った。広田は吉田茂を組閣参謀として組閣にあたったが、陸軍による組閣干渉が行なわれた。直接的な政治への口出しとしては最初である。陸軍は吉田茂(自由主義者)、下村宏らの入閣を阻止した。馬場鍈一は軍部に売り込んで大蔵大臣になったという評がもっぱらであった。馬場は、増税や公債発行によって大幅な軍拡を呑み込んだ大規模予算(前年比26%増)とした。国際収支が一気に悪化し、政府は輸入為替管理によって直接統制に踏み切った。「準戦時」統制経済の始まりである。1936年11月に日独防共協定が調印された。コミンテルン(1919年から1943年まで存在した、共産主義政党による国際組織)の脅威に共同して対抗する事をうたった。日独双方とも将来は英国も参加させることを考えていた。

 農本主義者で農業指導者だった加藤完治は、1927年に茨城県内原に日本国民高等学校を開校し、校長として農業移民を推進していた。満州事変により年来の主張を実現する好機を得た加藤は、各方面に働きかけ、満蒙移民は国策として取り上げられるようになる。訓練所が置かれた内原は、満蒙移民のメッカとして視察者が相次いだ。1932年から拓務省による試験移民が開始された。
拓務省とは、1929年(昭和4年)から1942年(昭和17年)にかけて日本に存在した省で、外地と言われた日本の植民地の統治事務・監督のほか、南満州鉄道・東洋拓殖の業務監督、海外移民事務を担当した。

大規模な移民政策が開始されるのは二・二六事件後の広田内閣になってからである。実際に敗戦までに27万人の移民が送出された。

 林銑十郎内閣が倒れた後、西園寺は近衛文麿を奏請、近衛は今度は大命を受けた。近衛は国民的人気が高かったが、とりわけ陸軍の期待が大きかった。近衛は昭和10年代に三次にわたって内閣を組織し、その期間に、盧溝橋事件、日独伊三国同盟、南部仏印進駐(日米開戦への岐路となる)の日本の命運を決めた事件が発生している。

 西園寺は1919年のパリ講和会議に全権として出席する時、近衛を随員に加えている。近衛はパリに入る前に雑誌『日本及日本人』に、「英米本位の平和主義を排す」という論文を発表し、西園寺に叱責されている。近衛の考えは、講和会議で高唱される平和主義は英米の帝国主義に都合のいいものであり、領土も資源も乏しい後発国の日本は彼らに対して資源の再配分を要求せざるを得ないというもの。彼は人種平等に基づく世界改造を主張した。近衛は対外方針として「国際正義に基づく真の平和」、「単純なる現状維持に非ざる真の平和」を、国内政策として「社会正義に基づく施設」を唱えた。
 期待を背景に出発した近衛にとって、予想外だったのは組閣1か月後の1937年7月7日に盧溝橋事件が勃発した事である。その半年前の1936年12月に西安事件が起こっていた。共産党軍攻撃を行なっていた張学良が西安で蒋介石を逮捕監禁した事件である。周恩来ら共産党首脳との連絡の下で張、蒋の話し合いが行なわれ、蒋介石は南京に戻ったが、1937年2月に国民党は国共合作に応ずる決定をした。盧溝橋事件の前には中国国内情勢の急変があった。7月7日の夜、夜間演習中の支那駐屯軍が十数発の小銃射撃を受け兵1名が行方不明になった。日中両軍の衝突となったが一旦停戦。しかし7月末には本格的な戦闘となり、8月13日には上海に戦火が拡大した。8月17日の閣議で「不拡大方針を放棄」する決定を行なった。こうして日本は、長期にわたる中国との戦争に入り込んだ。

 1937年12月13日に中国国民政府の首都の南京が陥落。南京の占領に際して虐殺が発生したのは、今日知られている通りである。日本政府は1938年1月16日に、後に「対手(あいて)とせず」声明と呼ばれる声明を公表。「帝国は爾後国民政府を対手とせず、帝国と真に提携するに足る新興支那政権の成立発展を期待し、是と両国国交を調整して更生新支那の建設に協力せんとす」という趣旨のもの。多くの人が事変解決を困難にしたと評価する「対手とせず」声明は、陸軍省と近衛の主張で出された。
 近衛は1938年5月に内閣改造を行なった。外相となった宇垣一成は英国の仲介による和平交渉を探る。しかし陸軍革新派の反対を受ける。陸軍は、北京や南京に傀儡政権を樹立させ、武漢・広東を占領した。宇垣は9月下旬に辞任した。

 宇垣工作とは別に、国民政府ナンバーツーの汪兆銘との間に極秘工作が進行していた。1938年11月までにまとまった両者の了解は、満州国の承認、将来的な日本軍の撤兵などを条件に、汪兆銘が重慶を脱出し日本と提携する新政権を樹立するというもの。汪兆銘は12月20日に重慶を脱出して飛行機でハノイに到着した。汪兆銘は、こののち漢奸(対日協力者)として指弾される。11月下旬の汪兆銘は、「これまでの決定を全て覆し、検討を要すると言い出す」など、動揺を見せていた。

 この辺りから支那事変は分かり難い戦争になって行く。

 近衛内閣は「対手とせず」声明を、その年(1938年)の11月の政府声明で修正している。日本側の真意は領土や戦費賠償を求めるものではなく、「帝国の希求する所は、東亜永遠の安定を確保すべき新秩序の建設に在り。・・・」と説明する。12月22日には近衛首相による声明もあった。「支那の主権を尊重するは固より、進んで支那の独立完成のために必要とする治外法権を撤廃し且つ租界の返還に対して積極的なる考慮を払うに吝かならざるものである。」とうたった。日中戦争が帝国主義的な国家間の戦争とは異なる性格のものである事を主張。この考えをここでは「聖戦」イデオロギーと捉えよう。相手を殺すことが、「独立完成」を支援することになる? ここに「聖戦」イデオロギーの据わりの悪さがある。

 社会大衆党は「聖戦」イデオロギーを最も積極的に鼓吹した。日本内部の資本主義を改革して全体主義の制度を建設するための国家「革新」的意義を有する戦争であるとする。
 一方、1940年の議会において、政府及び軍部の戦争指導を批判する質問演説を行なった齋藤隆夫は、資本主義の弊害(貧富の懸隔など)は認めるが、資本主義に対する抑制が限度を超えて自由競争を減殺し、社会政策が度を越して国民の依頼心を増進せしめるのは、国家社会の発達を促すゆえんではないとの立場であった。

 日中戦争が長期化する事が明らかとなり、軍事費の増大と経済の統制化が行なわれた。1938年4月に国家総動員法が公布された。この法律は経済活動の諸分野のみならず、言論などに関する統制の権限を、統制内容を条文上に明示せずに政府に委ねるもので、議会の審議で激しい論争をよんだ。戦時統制を担う官庁として1937年10月に企画院が創設された。そして1938年後半から価格統制、配給統制が強化された。窮屈な戦時生活は、この頃から始まる。

 近衛は1939年1月に内閣を投げ出した。その要因の一つに、ドイツと陸軍から出た日独防共協定の強化がある。対ソ戦を想定した軍事同盟化だったが、ドイツは攻守同盟の対象にソ連以外の第三国からの攻撃も含めようとしていた。日本はこれを忌避した。次の平沼騏一郎内閣の時も防共協定問題は検討されていたが、欧州ではドイツは1939年8月に独ソ不可侵条約を締結した。平沼内閣は「欧州情勢は複雑怪奇」との声明を発表して総辞職した。独ソ不可侵条約では、ヒトラーとスターリンによるポーランド分割の密約が記されていた。ヒトラーはこの条約締結の1週間後にポーランドに侵攻を開始した。

 平沼内閣の後、1939年8月に陸軍の阿部が、さらに1940年1月に海軍の米内が内閣を組織したが、いずれも短命に終わり、1940年7月に再び近衛が組閣する。松岡洋右を外相に、東条英機を陸相にした。

 日本国内の「革新」勢力は、1940年4月のドイツ軍の北欧侵攻と5月のベネルクス三国侵攻に始まる電撃戦の成功により、勢い付けられた。ドイツ軍のパリ入城は1940年6月14日。当時の東京朝日新聞は6月15日の社説に、「仮に米国が対独参戦したとしても、ドイツが打倒されるとは考えられない」と書いている。あっという間に英仏軍をダンケルク(ドーバー海峡に面したフランス北西部の町)から追い落としたドイツの勢いに、そんな雰囲気が支配的だった。近衛再登場・革新断行の要求が、このような雰囲気を背景に高まった。

 近衛と彼を担いだ勢力は、新たな政治体制の構築を目指した。近衛は東大法学部教授の矢部貞治に新しい政治体制のプラニングを依頼していた。当時、陸軍や社会大衆党は「一国一党」的な新党理念を持っていたが、矢部は、その理念は対抗勢力から非難を浴びる可能性が大きいと考えた。天皇と国民の間にあって実質的な統治者として権力を行使する機構もしくは集団は「幕府」であり、一国一党の首領の近衛が同時に内閣の首班になる事は、「幕府」政治であり、憲法違反との非難を招く可能性があるとした。

 新政治体制問題は大政翼賛会に帰結したが、この時期、2つの政治的潮流が激突した。革新右翼と観念右翼である。当時の国内政治は、天皇に帰一する万民翼賛を国家の正統性の根拠とする以外に存在し得ず、その意味では全て「右翼」である。革新右翼は、日中戦争解決のために三国同盟に依拠し、公益優先、強力な政治的リーダーシップの一元化を求める勢力。観念右翼はそれに反対する右翼である。この衝突は1941年初頭の76議会で、憲法論争の形をとって全面化した。

 組閣1か月後の1940年8月、新体制準備会が設置された。1か月の審議後に、大政翼賛運動綱領草案を決定し、以後の扱いを総裁(近衛が想定された)一任として任務を終了した。近衛内閣は9月27日(日独伊三国同盟の調印式の日)の閣議で、大政翼賛会の設置などを決定した。なお、76議会などで近衛は現状の大政翼賛会に憲法上の問題がある事を事実上認めている。
by utashima | 2014-01-03 14:25 | 読書2 | Trackback | Comments(0)

2014年の正月 & 家内の退院

 新年明けまして、おめでとうございます。本年も、宜しくお願いします。

 暮れの12月21日(土)に家内が肺炎で緊急入院しましたが、本日(2014年1月1日)退院できました。

[経過]
 12月初旬から家内と娘は共に風邪気味でした。娘は回復しましたが、家内が中々回復せず気にはしていました。そんな状態の12月16日(月)の夕方、家内から職場の私に、「もう動けないから、病院に連れて行って」という電話がありました。すぐに帰宅しましたが、家内の行き付けの内科は診察時間を終えており、私の行き付けの内科に行きました。高熱(40度)と咳が主な症状でした。内科でインフルエンザ検査をして貰い、陰性を確認。通常の風邪の投薬をして貰って帰宅しました。

 12月19日(木)まで薬を飲みながら養生しましたが、食欲が無く、改善しません。16日と同じ内科に再度掛かり、咳が酷くなっていたので、その関係の薬などを貰いました。本人は熱は無いと思うと言っていたので検温もせず。しかし、その時も高熱があった可能性があります。

 翌日になっても改善しないので、21日(土)の午前中に家内の行き付けの内科に掛かりました。その時も本人は熱は無さそうと言いますが、私は体温計を借りて測ってみました。39度の熱でした。すぐに肺のレントゲン検査をしてくれ、画像を見た先生は、「ここでは対処できない。総合病院へ予約を入れておくから、すぐに行きなさい。」と言われました。肺の広い範囲に白っぽい影が写っていました。

 車で15分程度の所にある総合病院に行き、血液検査を受けると、炎症の程度を測るCRPという項目が35もありました。重い肺炎でもCRP値は10程度。先生に、「もう1日遅ければ危なかったよ」と言われました。

 その日(12月21日)に入院し、抗生剤を入れた点滴を処方して貰いました。CRP値は数日後に16に下がり、更に2日後に4まで下がりました。そして、本日退院できました。

 入院した翌日には群馬県で病院勤務している長男が様子を見に来てくれ、心強かった。24日には弘前から次男が帰省し、長女と共に家事などを手伝ってくれ、助かりました。家内が長期に家にいないと如何に大変かが分かりました。冷蔵庫の中や台所の引き出し内が整理されていなかったので、主に次男が大胆に整理してくれました。おせち料理は、家内が生協に注文しており、12月30日に届けられました。-18度以下の冷凍室に保管し、31日に解凍する必要がありましたが、次男が既に冷蔵庫内を片付けてくれていたので納める事が出来、無事におせち料理を楽しむ事が出来ました。

[今思う事]
 肺炎がこんなに身近な病気だとは思ってもいませんでした。私も風邪をこじらせて、気管支の炎症まで進む事はありますが、肺炎になった事は有りません。でも、高熱と咳が続いている時は、先ずインフルエンザを疑いますが、それが陰性の時は肺炎も視野に入れて、レントゲンや血液検査を受けるべきでしょう。
 入院して数日間は、もしもの事が脳裏に浮かび、心が沈みました。今回入院した総合病院へは、同居している家内の両親も2年前に重篤な病気で入院し、二人とも死の淵から戻して戴きました。感謝します。
by utashima | 2014-01-01 12:51 | イベント | Trackback | Comments(0)