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『帝国の昭和(日本の歴史23)』(有馬 学著)の第4章

第四章 「非常時」の表と裏

 1930年3月26日、関東大震災からの復興が成り、天皇臨席のもとで、帝都復興完成式典が挙行された。この頃から「大東京」という呼び方が定着する。行政も1932年10月に周辺5郡を市域に編入してから大東京という呼称を使うようになる。この合併で、東京市の面積は6倍になった。この時、品川、世田谷、渋谷、杉並、豊島、葛飾、江戸川などが東京市に編入された。これらの地域の人口は、都心からの移住者や地方からの転入者で急増。これらの人々を新宿や渋谷などのターミナルに運ぶ私鉄は、1930年代には今日のものが全て揃っていた。

 1932年3月1日、満州国建国宣言が発表された。当時の犬養内閣は、現状を追認するが直ちに満州国の正式承認はしないという方針だった。五・一五事件後に成立した斎藤内閣は、満州国承認に向けて舵を切った。日本政府は、リットン調査団の報告書提出以前に満州国を承認し、1932年9月15日、首都・新京(長春)で日満議定書が調印された。議定書の本文は僅か二か条から成るだけであるが、それ以前に関東軍司令官と満州国執政・国務総理との間で交わされた往復文書が付属文書として効力が確認されている。溥儀から関東軍司令官に宛てた書簡においては、満州国は国防及び治安維持を日本に委託する事、国防上必要な限り、鉄道・港湾などの管理新設を日本に委託する事、満州国参議その他官吏に関東軍司令官の推薦により日本人を登用する事などが書かれていた。勿論、日本側が作成して溥儀に署名させたもの。

 リットン調査団は、1932年2月末から6月初めにかけて、満州、日本、中国で調査を行ない、報告書を作成した。報告書の要点は、満州における中国政府の主権を確認しつつ、実質的に日本の地位を承認しようとするものだった。この報告書に基づき、12月から国際連盟で審議された。焦点は満州国の否認問題だった。審議中の1933年1月に関東軍は山海関を占領し熱河省に侵攻するなどの行動をして、連盟側を強く刺激した。2月24日の国際連盟総会でリットン案よりさらに厳しい勧告案が賛成42、反対1(日本)、棄権1(シャム)で採択された。日本は翌3月27日に国際連盟に正式に脱退通告を行なった。帰国した松岡洋右は、国民に凱旋将軍のように迎えられた。

 斎藤内閣と陸軍とは、満州国承認と国際連盟脱退については、距離はそれほどなかった。問題は内政であった。陸軍陸相は高橋是清蔵相の財政論に全く対抗できず、齋藤首相の老獪さにしてやられた。荒木の陸軍内における威信は低下した。この事は、後に皇道派と統制派と称される陸軍内の派閥対立を顕在化させる一因となる。斎藤内閣は2年を超える長命内閣となったが、帝人事件と呼ばれる疑獄事件により、1934年7月に総辞職した。後継総理大臣として海軍の岡田啓介に大命が下った。

 斎藤・岡田内閣を現状維持的として批判する最大のグループが、陸軍内の「革新」を主張する勢力だった。岡田内閣期には、「革新」を主張する勢力内の対立(統制派と皇道派)が深刻な段階に入る。1934年3月に後に統制派の総帥と目される永田鉄山少将が陸軍省軍務局長に就任。陸軍首脳間で人事問題その他を巡って、荒木・真崎(皇道派)と林・永田(統制派)の対立が激しくなった。

 陸軍における深刻な政治抗争が最初に表面化したのは、1934年の11月事件である。陸軍士官学校中隊長だった統制派の辻政信が、学生をスパイに使って調査し、「クーデター計画」が発覚したとして陸大学生の村中孝次、一等主計の磯部浅一らを処分したもの。クーデター計画は立証されず、逆に村中、磯部らが辻らを告訴する事態に。

 1935年になって、天皇機関説事件が発生。天皇機関説は、美濃部達吉の憲法解釈であり、国家法人説と呼ぶのが正当であり、天皇機関説は俗称である。天皇を「機関」とするとは何事かという、馬鹿げた感情が作用した。在郷軍人会や民間右翼団体がこの問題を増幅し、陸軍皇道派が利用した。岡田首相は当初の立場を変更し、議会で機関説反対を言明。内務省は、美濃部の主著を発売禁止とした。しかし、皇道派の真崎は7月16日に教育総監を更迭される。1935年8月、永田軍務局長が陸軍省の自室で白昼斬殺される事件が起きた。犯人は皇道派の相沢三郎中佐。真崎更迭に対する皇道派の反撃と考えられる。真崎更迭から相沢事件と続く混乱は、二・二六事件に繋がっていく。

 話は少しさかのぼるが、国際連盟でリットン報告書をめぐる議論が行なわれている中、関東軍は天皇の憂慮にも拘らず熱河省侵攻を開始した。1933年5月下旬には日本軍は北京に迫る勢いだった。国民政府は、停戦を求めざるを得なかった。5月31日に停戦協定が調印された。協定内容は日本側の案文を押しつけたもの。この協定後、満州事変への世界の関心は急速に薄れた。1933年9月に広田弘毅が外相に就任し、重光次官とともに広田・重光外交を進めた。重光らの方針は、満州国は独立国として発展せしめ、中国本土については干渉せず中国政府に任せると言うものだった。この方向で満州問題は解決するという見通しだった。中国側にも、満州国の承認に対して、対日妥協の姿勢が見えて来た。日本と中国は、それぞれが三原則を相手に提示し交渉したが、その間に関東軍は華北分離工作を進行させており、三原則交渉はまとまらなかった。中国側の三原則は、①日中相互の独立尊重、②真正な友誼の維持、③両国間の事件は平和的外交手段に拠る事、であり、これを日本が承認して以前の休戦協定を破棄すれば、中国側は満州国の独立を承認する態度を明らかにしていた。この時の交渉が、満州事変後の関係改善の最後のチャンスであったと言えるかも知れない。

 1930年代半ばには陸軍内部の政治抗争は抜き差しならぬ敵対的なものとなっていた。皇道派の青年将校グループには直接行動への意志が高まっていた。1936年2月26日未明、青年将校に率いられた、重機関銃・軽機関銃・小銃で武装した部隊が、降り積もった雪の中を出動した。目標は、鈴木貫太郎侍従長官邸、首相官邸、警視庁、陸相官邸、内務大臣私邸、教育総監私邸、大蔵大臣高橋是清私邸、湯河原で静養中の前内大臣牧野伸顕である。内大臣、高橋大蔵大臣、教育総監が死亡、鈴木侍従長は重傷。首相官邸では、容貌が似ていた岡田首相の妹婿松尾伝蔵大佐が誤認されて殺害された。首相は女中部屋に隠れていて、翌日まで死亡と信じられていた。岡田首相は弔問客に紛れて脱出に成功した。1480余名の決起部隊は、一帯を4日間にわたって制圧した。荒木・真崎らによって暫定内閣成立の上部工作が行なわれた。しかし、速やかに反乱を鎮圧せよとの昭和天皇の意志が事態を決定づけた。処罰は厳しく、17名が死刑となった。

[統制派と皇道派](ウィキペディアより)
 統制派は、陸軍内にかつて存在した派閥。当初は暴力革命的手段による国家革新を企図していたが、あくまでも国家改造のため直接行動も辞さなかった皇道派青年将校と異なり、その態度を一変し、陸軍大臣を通じて政治上の要望を実現するという合法的な形で、列強に対抗し得る「高度国防国家」の建設を目指した。

 天皇親政の強化や財閥規制など政治への深い不満・関与を旗印に結成され陸大出身者がほとんどいなかった皇道派に対し、陸大出身者が主体で軍内の規律統制の尊重という意味から統制派と呼ばれる。統制派は、皇道派のような明確なリーダーや指導者は居らず、初期の中心人物と目される永田鉄山も軍内での派閥行動には否定的な考えをもっており、「非皇道派=統制派」が実態だとする考え方も存在する。ただ永田亡き後、統制派の中心人物とされた東條英機などの行動や主張が、そのまま統制派の主張とされることが多い。

 皇道派は、二・二六事件に失敗し挫折する。統制派は、革新官僚とも繋がりを持つ軍内の近代派であり、近代的な軍備や産業機構の整備に基づく、総力戦に対応した高度国防国家を構想した。中心人物は永田鉄山、東條英機。

 皇道派は反ソ・反共を掲げ、右派色が強かったのに対して、統制派は南進論と中国への一撃を主張し、英米を敵とし、ソ連との不可侵条約の締結を推進した。

 統制派中心人物の永田鉄山が、皇道派の相沢三郎陸軍中佐に暗殺された(相沢事件)後、皇道派との対立を激化させる。この後、皇道派による二・二六事件が鎮圧されると、皇道派将校は予備役に追いやられた。陸軍内での対立は、統制派の勝利という形で一応の終息をみる。

 その後、統制派は、陸軍内での勢力を急速に拡大し、軍部大臣現役武官制を利用して陸軍に非協力的な内閣を倒閣するなど政治色を増し、最終的に、永田鉄山の死後に統制派の首領となった東条英機の下で、共産国家に近く全体主義色の強い東條内閣を成立させるに至る。
by utashima | 2013-12-19 21:23 | 読書 | Trackback | Comments(0)

『帝国の昭和(日本の歴史23)』(有馬 学著)の第3章

第三章 「挙国一致」内閣の時代

 陸軍内部に、満蒙問題に対する中国政策への不満が明確な形を取りつつあった。陸軍内の長州閥人事を打破し満蒙政策を一新する事を目指した政治的な軍人たちを、ここでは陸軍中堅層と呼ぶことにする。この軍人たちの結社の一つが木曜会である。岡村寧次、永田鉄山、東条英機石原莞爾、鈴木貞一、根本博らが中心的メンバーであった。1927年には既に会合を持っていた。彼らは、帝国自存のため、満蒙領有を志向していた。1927年頃から二葉会と呼ばれる会合も持たれ、木曜会と二葉会が合流して、1929年に一夕会(いっせきかい)が結成された。この会のメンバーが間もなく陸軍の要職を占めるようになる。彼らが課長クラス以上になる頃に、満州事変が勃発する。

 満州事変の発端となった1931年9月18日の柳条湖事件(満鉄線爆破)は、石原莞爾や板垣征四郎らの計画的陰謀であった。9月18日夜10時過ぎ、奉天近郊の柳条湖付近で、関東軍は満鉄線を爆破し、これを中国軍の仕業として、中国軍の拠点北大営を攻撃。19日には長春地方、21日には吉林地方を占領した。その際、朝鮮軍司令官(林銑十郎)の独断越境による後方支援があった。

 若槻内閣は不拡大方針を決定するが、陸軍中枢の強硬姿勢に押し切られ、閣議は柳条湖事件以後の関東軍の行動を承認する。また朝鮮軍の独断越境も認め、そのための経費支出を承認した。陸軍中堅層の考えは、満蒙の領有であったが、参謀本部中央の同意を得られず、9月22日に親日政権樹立という方向を打ち出す。これが後の満州国建国に繋がる。

 関東軍は、幣原による国民政府との外交交渉や、英米などの幣原外交支持の動きを牽制しようと、10月8日に錦州爆撃を行なう。錦州には張学良が設けた仮政府があった。国際連盟は10月15日に非加盟国の米国をオブザーバとして招致することを可決し、24日に期限付きの撤兵勧告を採択した。反対は日本だけ。

 日本国内でも、クーデター計画が進行していた。橋本少佐は桜会を結成し、1931年に宇垣陸相をかつぐクーデターを立案、陸軍内部にも賛同者がいた。国家主義者の大川周明と組んだ計画だったが、実行はされず、三月事件として密かに伝えられた。
 橋本ら桜会は満州事変後も新たなクーデターを計画。首相官邸を襲撃して首相や政財界の要人を殺害し、荒木貞夫陸軍中将を首相とする軍部内閣を樹立しようとするもの。これは事前に洩れて、橋本らは憲兵隊に検束された。決行予定が10月だったので十月事件と呼ばれる。橋本らは軽い処分を受けただけだった。若槻内閣は事件を公表しないという閣議決定をした。若槻内閣は、1931年12月11日に総辞職した。

 若槻内閣総辞職の翌日、元老西園寺は政友会総裁の犬養毅を後継総理大臣に推薦した。政友会の単独内閣である。犬養内閣で注目すべきは、大蔵大臣の高橋是清である。高橋は組閣直後に金輸出を再禁止し金兌換も停止した。もう一つ注目すべき事は陸軍大臣に荒木貞夫が就任した事。陸軍中堅層の宿願の実現だった。犬養内閣は翌年の2月に総選挙を実施する。政友会は301名という空前の多数を獲得した。民政党は146名。

 1932年1月末に上海事変(第一次)が起きる。上海で日蓮宗僧侶が殺害される事件がきっかけだが、陸軍の田中隆吉少佐による謀略であった。戦後、田中自身が認めている。上海で戦闘が行なわれている頃、満州では関東軍による「満州国」建国の動きが進んでいた。1932年2月に、関東軍が工作して集めた地方の有力者から成る東北行政委員会が独立を宣言、3月1日に溥儀を執政とする「満州国」の建国が宣言された。建国宣言を急いだのは、国際連盟のリットン調査団が来る前に「建国」の既成事実を作るためだった。

 三月事件、十月事件は未発に終わったが、1932年初めに、血盟団事件と呼ばれるテロ事件が発生。2月9日に井上準之助前蔵相が、3月5日に三井合名理事長の団琢磨が、いずれも拳銃で射殺された。血盟団グループが検挙された後、1932年5月15日、海軍青年将校の三上卓らは首相官邸を襲い、犬養首相を射殺した。

 西園寺は5月22日に海軍大将の斎藤実を総理大臣に奏請した。高橋蔵相と荒木陸相は留任した。不況の克服と陸軍の動向が政局運営の焦点だった。

 満州事変勃発後に、様々なメディアによる報道が国民の熱狂的な支持を創り出していた。報道の中で使われた「生命線」という言葉が最も効果的に機能した。松岡洋右が1931年1月の衆議院本会議の議会演説で使ったのが有名である。この年の流行語になった。

 世界恐慌は1934年に収束するが、世界経済に大きな変化をもたらし、ブロック経済的な傾向が支配的になる。日本は1932年から景気回復に入り、かつてない経済発展を迎えた。高橋是清は、円の為替レート低下を放任、低金利を維持し、財政支出を激増させた。政府支出の膨張は、満州事変費を中心とする軍事費、時局匡救費という名目の不況対策の公共投資であり、日銀引き受けによる赤字国債の発行という新手法が取られた。工業生産の水準は飛躍的に増大した。この時期、軍需産業を足場に、「新興財閥」が急速に成長した。日本産業(日産)、日本窒素肥料、昭和電工、理化学研究所(理研)、中島飛行機などである。

[日産コンツェルン](ウィキペディアより)
 日本の十五大財閥の1つ。鮎川財閥とも呼ばれる。日立鉱山(久原鉱業、日本鉱業、ジャパンエナジー、新日鉱ホールディングスを経て現在のJXホールディングス)を源流として、機械・銅線部門を独立させての日立製作所などを加え、持ち株会社・日本産業のもとにコンツェルン化した戦前の財閥。戦後は、その自動車部門であった日産自動車が日産の名を残す後継企業としては最も大きいため、現在は同社のグループのみを指してを日産グループと呼ぶことが多い。

by utashima | 2013-12-04 19:23 | 読書 | Trackback | Comments(0)