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『帝国の昭和(日本の歴史23)』(有馬 学著)の第2章

第二章 ワシントン体制の変容と日本

 政党内閣時代の国際秩序は、ワシントン体制と呼ばれている。背景には英国に代わって主要なパワーとなった米国の台頭がある。ワシントン体制の根拠は、ワシントン会議(1921~1922年)で調印された諸条約である。ワシントン条約締結の時期は、ソ連は東アジアに積極的な外交を展開する余裕は無く、中国も政治的分裂ために、列強は中国・ソ連の要求を無視できた。しかし、1920年代半ばから、ソ連の積極的な極東外交展開と中国国民党による国内統一の開始(北伐)が密接に結合して(国共合作)、ワシントン体制に変容を迫る事になる。

 1924年の中国国民党第一回全国代表大会は多くの中国共産党員を中央執行委員などに選出し、第一次国共合作が成立した。蒋介石を校長として開学した黄埔軍官学校にも周恩来などの共産党員が政治部などに参加していた。背景に、ソ連とコミンテルンの強力な援助・工作があった。しかし、国民党は一枚岩ではなく、国共合作は永続せず、永い内戦をもたらした。

 1926年7月、蒋介石は国民革命軍総司令に就任し、北伐を宣言する。国民革命軍による武力統一の大事業が開始された。国民革命軍の進撃は反帝国主義の熱気の中で行なわれたため、列強との軋轢を避ける事は困難だった。1927年3月24日、国民革命軍は南京に入城。ここで日本、英国の領事館や米国系大学などに侵入し、略奪・暴行をはたらき死傷者を出した。いわゆる南京事件(1937年の南京事件とは別物)である。この時の日本側は、武力行使を避け隠忍(いんにん)策に徹した。国民革命軍の外国人への暴行は、共産党やソ連顧問の使嗾(しそう:指図してそそのかす)によるものが多かった。そのためもあって、1927年4月12日、蒋介石は上海で反共クーデターを起こす。9月6日には南京を首都と定めて、蒋介石が国民政府主席となった。1928年6月8日に国民革命軍は北京に入城し、北伐は一応の完了を迎えた。7月7日には国民政府は不平等条約の改定を宣言する。米国は7月25日に米中関税条約に調印し、中国の関税自主権を承認、11月3日には国民政府を承認した。英国もこれに追従した。日本は1929年6月に国民政府を承認した。

 北伐が進行していた1927年4月に、政友会総裁の田中義一が組閣した。北伐の進展に対し、田中内閣は1927年6月に第一次山東出兵を実施した。これは上記の南京事件などを念頭に置いた予防策と考えられる。英国、米国も出兵している。田中外交の当初の意図にも拘らず、対中関係を悪化させたのが済南事件であった。1928年4月半ばに国民革命軍は山東省の済南に迫った。田中内閣は4月19日に第二次山東出兵を閣議決定した。主力の熊本第六師団が5月2日に済南に到着。同日に蒋介石も済南に入っている。軍事衝突は翌3日に発生した。発端は商埠地(しょうふち:治外法権を与えず、単に外国人の居住や経済活動を保護する目的で設定された領域)内の日本人家屋に国民革命軍兵士が侵入した事をめぐる発砲事件とされる。どちらが先に発砲したかは日中の言い分が異なる。5月5日に一旦停戦したが、福田師団長は中国側に、関係者の厳罰や軍隊の立ち退き等の強硬な要求を出し、12時間の時間切れを理由に攻撃を再開、一般市民を含む多数の死傷者を出して済南を占領した。占領後の交渉で、田中は蒋介石軍による北伐の速成を期待しており、蒋介石軍に鉄道利用の便宜を図るよう参謀本部に要請していた。しかし、陸軍出先と参謀本部は、蒋介石軍に対し謝罪を含む強硬要求を譲らなかった。一時期英国に向きかけていた中国ナショナリズムの反感が、一気に日本に向かって来るようになった。

 田中内閣は、東三省を治める張作霖及び中国本土の蒋介石と交渉しつつ日本の権益を守るという等距離外交を考えていたが、1928年6月4日の張作霖爆殺事件により、田中外交は崩壊する。爆破そのものは関東軍高級参謀河本大作の独断による事は今日明らかになっている。しかし、全体的には不透明なところもある。張作霖の後継車となった息子の張学良は、国民政府と妥協する。

 田中内閣は1929年7月2日に総辞職する。張作霖爆殺に関し一旦関係者の厳罰方針を上奏していた田中が、6月27日になって「日本の陸軍には犯人はいない事が判明」したので、警備責任者の行政処分に留めると言う上奏を行なったため、天皇から「お前の最初に言った事と違うじゃないか」と叱責され、辞表を奉呈した。しかし、この問題のプロセスは、今日でも詳細にわたっては不明な点が残されている。

 田中内閣の総辞職の後、西園寺は民政党総裁の浜口雄幸を総理大臣に推薦した。1930年1月、金輸出を解禁し、金本位制に復帰した。浜口内閣は、金解禁・緊縮財政・産業合理化を推進した。この時の産業合理化は、企業の合同やカルテルの結成などを通して産業全体の合理化を目指すものであり、競争を排除し、過剰投資を抑制し、販売価格の維持を企てる独占体の形成を目論んだ。自由競争ではもはや難局は乗り切れないという資本主義経済の終末意識があったのではないか。この頃の民政党の政策として、ギルド社会主義の可能性が議論される雰囲気があった。

[ギルド社会主義とは(デジタル大辞泉より)]
 20世紀初め、英国に起こった政治・社会運動。当時の国家や資本主義に反対し、中世のギルドを模して労働組合を基盤につくられた産業の民主主義的連合によって、自治的社会主義を目ざす運動。


 1921~1922年のワシントン会議で海軍主力艦の保有量制限が決まり、次に補助艦の保有量を制限する会議が1930年1月からロンドンで開催された。日本側の要求より幾分少ないトン数であったが、軍令部長の賛成を得ずに、統帥事項である兵力量に関する条約を調印した事に対し、憲法12条に規定された統帥権の干犯であるとの論理が登場した。この事がその後の政治に重大な影響を及ぼした。政党内閣に反対し、幣原外交に反発する勢力のうねりが、1930年代の日本政治の一翼をなしていく。

 1930年11月14日に浜口首相が、東京駅で右翼青年に拳銃で撃たれ、重傷を負った。翌年4月に内閣は総辞職、若槻礼次郎が民政党総裁に就任し、第二次若槻内閣を組織した。浜口は8月に死去。第二次若槻内閣は、殆どの閣僚を留任させた。幣原外相、井上蔵相も留任し、英米協調・金本位制・緊縮財政堅持を目指した。
by utashima | 2013-11-28 21:27 | 読書 | Trackback | Comments(0)

Sleipnir5の使用を断念

 昨日から自宅でSleipnir5の使用を開始。今まで使ってきたSleipnir4の後継であり、文字表示がより綺麗になっている事から、使おうとした。但し、タブ表示が従来のテキストでなく、各サイトの微小イメージに変更になっている。これは使い辛いかもと思ったが、使用を開始した。

 今日、ブログ記事を、Sleipnir5で作成しようとした。記事作成時には沢山のサイトにアクセスし、必要な時にすぐに切り替える必要がある。Sleipnir5のイメージ・タブでは、全タブを表示できず、非常に操作性が悪い事を実感した。よって、再びSleipnir4に戻した。
by utashima | 2013-11-23 22:03 | パソコン | Trackback | Comments(0)

ESAの新大気モデル(DTM2013)

 2013年11月11日に落下したGOCEのデータから作成された報告書を読んで、ESAの大気密度モデルを知った。DTM2012である。DTMはDensity Temperature Model の略である。このモデルは、こちらのサイトからダウンロードできる。但し、事前に登録が必要。誰でも登録できる。幾つかの OS 上で動作するようだ。pre-compiled library が提供されている。ライブラリ自体のソースコードは含まれない。

 この記事を書くために上記サイトに再びアクセスすると、新版のDTM2013も公開されていた。DTM2013にはGOCEで得たデータも反映されているらしい。
by utashima | 2013-11-23 21:44 | 宇宙開発トピックス | Trackback | Comments(0)

GOCE データによる大気モデル評価

 2013年11月11日に、ESAのGOCE がミッションを達成し、燃料切れで落下した。

GOCEは2009年3月17日にロシアのロコット・ロケットで、昇交点地方時18時の太陽同期軌道に投入され、高度295kmでロケットから分離された。大気抗力で高度を下げた後、イオン・エンジンの連続噴射により、高度260km付近を Drag-free で飛行。2012年8月からは高度を235kmに下げて運用を行ない、世界で最も低い高度を周回する衛星であった。GOCEの目的は、100km程度の地表分解能でジオイド高を約1cmの精度で求める事であった。

 落下した後、すぐにネットで調べると、GOCEの加速度計などで得られたデータから大気密度を求め、既存の幾つかの大気モデルと比較した報告書が見つかった。こちらのサイトに公開されている。詳細な数値データは、一部の研究者だけがアクセスできるようだが、そのサイト下のdocumentation欄の資料は誰でもダウンロードできる。validation reportfinal report は大いに参考になる。これらは、サイズの大きいPDFファイルである。
by utashima | 2013-11-23 20:27 | 宇宙開発トピックス | Trackback | Comments(0)

『帝国の昭和(日本の歴史23)』(有馬 学著)の第1章

第一章 普通選挙と政党内閣

 1924年5月の総選挙で護憲三派(憲政会・政友会・革新倶楽部)が勝利し、憲政会の加藤高明が組織した護憲三派内閣から、1932年の五・一五事件で犬養毅内閣(政友会)が総辞職するまでの時期は、政党内閣時代と呼ばれている。その間の8年という期間は短く、政党内閣制は確立しなかったと表現するのが一般的だろう。政党内閣制とは議院内閣制であり、政党内閣制の確立には、内閣総理大臣を議会が選出するという憲法上の規定が必要であった。しかし、明治憲法には、そのような規定はなく、元老という超憲法的存在が総理大臣を天皇に奏請していた。更に、奏請されるのは政党ではなく、個人(首相)に対してであった。

 1922年に結成された日本共産党は1924年2月には解党を決定したが、1926年12月に秘密裏に再建された。共産党とは別に、合法政党としての無産政党も幾つか結成された。労働農民党(左派)、社会民衆党(右派)、日本労農党(中間派)である。普選になって三回の当選者数は無産各派を合わせても、それぞれ一桁であった。国民大衆の世論は陸軍の支持に向かった。

 1925年3月に成立した普通選挙法の下で、1928年2月20日に初めての選挙が行なわれた。前年の1927年6月に憲政会と政友本党が合同して立憲民政党が成立、政友会と民政党の二大政党制が誕生する。初の普通選挙の1か月後の3月15日に日本共産党の一斉検挙(三・一五事件)があり、5月3日には中国山東省の済南で日中両軍の衝突(済南事件)、6月4日には関東軍による張作霖の爆殺と、昭和史の激動を象徴する諸事件が起こった。

 この頃の簡単な年表を以下に記す。

1922年(大正11年) 7月 :日本共産党の結成
1924年(大正13年) 2月 :日本共産党の解党を決定
1924年(大正13年) 6月11日:憲政会総裁の加藤高明が護憲三派の連立内閣(第一次加藤内閣)を組織。
1925年(大正14年) 3月 :加藤高明内閣の下で、普通選挙法が成立。
1925年(大正14年) 8月 2日:第二次加藤内閣成立。
1926年(大正15年) 1月28日:加藤高明首相が肺炎がもとで急死。
1926年(大正15年) 1月30日:若槻(礼次郎)内閣が成立。
1926年(大正15年) 3月 5日:労働農民党が結成された。左派無産政党となる。
1926年(大正15年)12月 5日:社会民衆党が結党式を挙げた。右派。
1926年(大正15年)12月 9日:日本労農党が結成された。中間派。
1926年(大正15年)12月 4日:日本共産党の再建(山形県五色温泉で秘密裏に)
1927年(昭和 2年) 4月20日:政友会総裁の田中義一に組閣の大命が降下した。
1927年(昭和 2年) 6月 1日:憲政会と政友本党が合同し、立憲民政党を創立。総裁は浜口雄幸。
1928年(昭和 3年) 2月20日:普通選挙法下での初の選挙が行なわれた。
             3月15日:日本共産党の一斉検挙(三・一五事件)
             5月 3日:中国山東省の済南で日中両軍の衝突(済南事件)
             6月 4日:関東軍による張作霖の爆殺
by utashima | 2013-11-17 10:39 | 読書 | Trackback | Comments(0)

BD再生専用機を購入

 今日(2013年11月1日)、近所の家電量販店でBD再生専用機の価格を比較し、最も廉いものを購入した。LGのBP125である。HDMI ケーブルも付属して、8450円だった。5000円位まで下がるのを待ちたかったが、買ってしまった。

 私は、東芝REGZA PC (D732/T7、TV機能付き) を使っており、BD再生も勿論できる。しかし、このPCに付属のBDプレーヤーソフトは、地デジの録画機能が動作している時は、使えない。私は見たい番組は全てこのPCで予約録画しているため、その合間でしかBD再生が出来ないという不自由さがあった。DVD再生はWMPでいつでもできるのに比べ、大きな制約である。早く改善して欲しい。

 もう一つの問題もあった。レンタルDVD/BDで映画を観ているが、BDの場合、1~2割の比率で、私のPCでは正常な再生が出来ないものがある。一般に、再生専用機の方が再生できる範囲が広いと言われているので、今回購入した製品では再生できるかも知れないと思っている。なお、レンタルBDを再生できない時は、連絡すれば別のものを送ってくれるか、同じタイトルのDVDを借りる事が出来る。今後、レンタルBDをPCで再生できない時、この専用機に入れてみる。

[補足]
 このBD再生機は、別の液晶テレビに接続している。

[追記(2013年11月3日)]
 BP125に、地デジ番組をダビングしたBDを幾つか入れてみた。BD-R(25GB)は問題なく再生できた。しかし、BD-R DL(50GB)は3枚の内2枚は問題なかったが、1枚は再生できたり出来なかったり。動作が不安定。LG社のサイトで問い合わすと、「点検・修理に出してください」との事だったので、購入した店に持参した。
 購入して2日しか経っていないので、在庫の別商品と交換してくれた。
 これにBD-R DLの上記3枚を順番に入れてみた。まだ多少不安定なところはあるが、最初の製品よりは良いと思った。これを使って行こうと思う。
 今後、再生できない現象が多発したら、保証期間の1年の間に、修理に出そう。

[追記(2013年11月8日)]
 昨日、レンタルしたBD-RをBP125に入れてみた。再生できるが、音声・字幕を日本語にできない。BP125の設定では、言語を日本語にしている。このBD-RをPC に入れてみると、日本語で正常に再生できた。この現象の原因は不明。次に借りるBD-R にも同じ現象が発生したら、レンタル会社の了解を貰って、BP125とBD-RをLG社に送ろうと考えている。LG社から、そうして欲しいと提案があった。
 なお、DVDは、BP125で日本語音声での再生ができている。

[追記(2013年11月11日)]
 今日、レンタル会社からBD-Rに入った別の映画が届いた。早速BP125に入れてみた。全く問題なく日本語音声での再生が出来た。
by utashima | 2013-11-03 19:00 | 映画・ドラマ | Trackback | Comments(0)