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『政党政治と天皇(日本の歴史22)』(伊藤之雄著)の第5章

第5章 改革のうねり---国際協調とデモクラシー---

 第一次世界大戦により、米国が英国に代わり、世界最強国になった。日本が影響力を増した中国に、米国も強い関心を示した。米国はパリ講和会議において、山東問題で日本の要求に屈していた。米国は第三次日英同盟が1921年7月12日に10年の満期となるので、その更新を妨げたかった。その前日の7月11日、米国大統領ハーディングは、ワシントンで国際会議を日英仏伊に提案。ワシントン会議は原首相が暗殺されて1週間後の1921年11月12日から始まった。1921年12月13日、日英米仏で太平洋問題に関する四か国条約が結ばれ、日英同盟が破棄された。翌1922年2月6日、海軍軍縮条約と中国に関する九か国条約などを調印してワシントン会議は終わった。
 海軍軍縮条約では、戦艦・空母などの主力艦の保有トン数比率を、米:英:日:仏:伊=5:5:3:1.67:1.67と規定した。この他に、ワシントン会議では、中国が若干の補償金を払う事と交換に、日本がドイツから奪った山東省の権益の大部分を中国に返還し、日本軍は山東半島から撤兵する協定が成立した。この体制をワシントン体制という。

 原首相が暗殺された後、西園寺公望の発案で高橋是清が後継首相に就任した。高橋は、中国に安定した政権ができるよう援助するという強い姿勢があった。高橋は内閣を改造して改革路線を推進しようとしたが、保守派の抵抗で高橋内閣は1922年6月6日に総辞職した。次に組閣した加藤友三郎は、高橋内閣以上に財政緊縮方針を立てた。しかし、加藤は1923年8月、胃ガンのため死去した。

 1923年8月27日、70歳の山本権兵衛(海軍大将)が後継首相に推薦された。この年の9月1日、関東大震災が起きた。死者9万9474名、負傷者10万2961名、行方不明者3万8782名。被害総額は50億~200億円と言われ、前年の政府の歳出決算14億2969万円の3.5~14倍であった。9月2日、山本内閣が発足した。大震災直後の恐怖の中で、多数の朝鮮人が暴動を起こすという流言が広まり、パニック状態の民衆は刀剣・竹槍などで武装し、朝鮮人を見つけると暴行を加えた。9月7日頃までに、約6000名の朝鮮人、約200名の中国人が殺された。12月27日、議会の開院式に行啓する摂政裕仁が、虎の門外で二発の弾丸を発射される事件が起きた。裕仁に怪我はなかった。犯人は無政府主義者であった。

 当時の女子の繊維産業従事者(女工と蔑称された)は、二交代制昼夜業であり過酷な勤務だった。1929年7月、改正工場法で女子と16歳未満の年少者は、22時から5時までの徹夜作業が禁止された。看護婦は、男子の巡査と共に、小学校しか出られない庶民の子女が目指す職業の一つだった。1915年6月、国家レベルで初めて看護婦資格が定められ、看護婦が専門的職業として定着した。小学校の女性教員は、女性の職業の中では恵まれた職業だった。1920年、宮崎県で日本初の女性の小学校長が誕生。1918年には美濃電気軌道で日本初の女性車掌が誕生した。

 明治の日本では女性に参政権は無く、治安警察法第五条で、女性の政談集会への参加も禁止されていた。女性自らによる本格的な政治運動は、第一次世界大戦後の新婦人協会の創立に始まる。その主唱者は平塚雷鳥(本名は明(はる))。平塚は1911年に婦人文芸雑誌『青鞜』を発刊。創刊号で「元始、女性は太陽であった」という有名なエッセイを載せた。イギリスでは婦人参政権は1918年に実現、ドイツも翌年に実現し、米国も1920年に効力を発した。1920年、33歳の平塚は、26歳の市川房枝の協力を得て、新婦人協会の発会式を挙行。新婦人協会は、婦人参政権でなく、治安警察法第五条の改正を当面の目標とした。市川と平塚はその後意見が対立し、1921年に市川は協会の理事を辞任。奥むめおが後を引き継いだ。1922年3月、治安警察法第五条二項の削除と女性の政治集会参加の自由を認める法案が成立した。
by utashima | 2013-09-25 22:14 | 読書 | Trackback | Comments(0)

『零戦(その誕生と栄光の記憶)』(堀越二郎著)

 近所の書店を覘いてみると、宮崎俊監督のアニメ『風立ちぬ』に関連の書籍がたくさん並べられている。その中で私は、表記の本を購入した。最初の出版が1970年3月であり、その年の4月に私は九州大学の航空工学科に入学しており、もしかしたら、学生時代に読んだ本かも知れない、という思いがあった。

 読んでいる内に、学生時代に読んだ記憶が甦るかもという期待を持って読み進めた。結論から言うと、学生時代に読んだという確信は持てなかった。しかし、好きな航空機の勉強ができる楽しい日々を送っていた学生時代の気持ちを、幾らか思い出す事ができた気がする。アニメ『風立ちぬ』はまだ観ていないが、必ず観ようと思う。
by utashima | 2013-09-19 22:17 | 読書 | Trackback | Comments(0)

『政党政治と天皇(日本の歴史22)』(伊藤之雄著)の第4章

第4章 天皇と立憲君主制

 1918年1月、宮内省から久邇宮邦彦王(くにのみやくによしおう)の第一女良子(ながこ)を皇太子裕仁(ひろひと、後の昭和天皇)の妃に予定する旨の御沙汰書が伝達された。そして翌1919年6月10日、宮内省から良子が皇太子妃に内定したとの御沙汰が出され、公表された。
 偶々学習院の体格検査を命じられた軍医は、久邇宮家に島津家から色覚異常遺伝の要素が入っていて、良子の子孫にも遺伝する可能性がある事を発見した。その事が1920年5月に元老筆頭の山県有朋に伝わった。子世代の女子は全て健常者であるが、男子は半数が色覚異常となる恐れがあると分かった。山県らは皇室に色覚異常の系統が入るのを防ごうと考え、久邇宮に内約辞退を願う事にした。これを「宮中某重大事件」という。
 原内閣と政友会の主流も内約辞退を求める側であった。これに対し、良子の婚約を支持する側には、国粋主義者のグループの他、野党第一・第二党も加わった。婚約破棄への支持が弱い事を感じた中村宮相は1921年2月10日、婚約内定の遂行通知を新聞社宛に出し、辞職した。大正天皇の皇后は皇太子と良子の結婚に賛成していなかった。
 11月4日に原首相が暗殺され、その約3か月後に山県が死去し、良子と皇太子の結婚に異議を唱える最有力者がいなくなった。摂政となった皇太子の同意を得て、1922年6月に結婚は正式に決定した。しかし、婚儀は1923年9月の関東大震災のために延期され、1924年1月26日に挙行された。

 1919年11月、山県や原敬は、皇太子が結婚前に欧(米)を遊歴すべき事で一致した。大正皇后節子が消極的だったため、洋行の決定は順調には進まなかった。1921年1月、松方内大臣が奏上してやっと裁可を得た。奏上された皇太子の日程は、6~7か月間の予定で軍艦でインド洋から欧州へ行き、帰路は米国を通って帰国というものだった。しかし宮内省から、米国は危険であり見合わせる案が原に伝えられた。1921年3月3日、皇太子は横浜港から御召艦「香取」に乗船し、「鹿島」を随艦として従え、渡欧の途に就いた。英・仏・ベルギー・オランダ・イタリアを訪問した。5月18日、ケンブリッジ大学でタンナー教授から、英国憲法史の進講を受けている。立憲王国での王の権限の制限、国王の公の意思は議会の世論によって裏書きされる必要がある事、英国国王は時に内外の政策を調整緩和する事を実施している等、英国の立憲君主制の本質が正確に講じられた。皇太子は、1921年9月3日に無事横浜港に帰着した。

 大正天皇の病気は1920年末の議会の開院式等に出られないほどに悪化していた。1921年9月3日に皇太子が帰国すると、摂政設置への動きが進んだ。11月4日に原首相は暗殺されたが、摂政設置の路線は揺るがなかった。11月25日、皇族会議、枢密顧問官の会議を経て、摂政設置が承認された。

 1921年11月4日午後7時30分頃、原首相は東京駅で短刀により暗殺された。65歳だった。原はその年の2月に遺書を4通書いていた。久邇宮良子の結婚問題や皇太子の渡欧問題に関し原を暗殺しようとする情報があったからである。原の死は日本国家の行く末に大きな影響を及ぼした。イギリスにかなり類似した立憲君主制が原のもとで形成されていたからである。原の暗殺は、満州事変から日中戦争・太平洋戦争への道を変え得た一つの可能性を摘み取った。原の葬儀は遺言により地元の盛岡市で行なわれ、会葬者は約3万人にもなった。原は地元盛岡市など岩手県に、他の東北諸県より遅れた形でしか公共事業を行なっていない。原への追悼者は、原の人柄と国民全体への奉仕精神の良き理解者達であった。

 明治天皇の解釈において、天皇の権限を限定的にとらえる天皇機関説と、絶対的にとらえる天皇主権説があった。1911年夏、東京帝大法科教授の美濃部達吉は、文部省主催の教員講習会において憲法を講義。その講義録は『憲法講話』の名で出版された。そこで38歳の美濃部は、天皇主権説を取る穂積八束(東大法科の教授)の学説を、専制的思想を国民に吹き込み、国民の権利を抑えて絶対の服従を要求し、専制政治を行なおうとする主張であると、攻撃した。両教授の論争は1913年まで続いた。学界・官界・ジャーナリズムの過半の支持を得たのは、美濃部の天皇機関説であった。天皇機関説は、1935年に政府によって否定されるまで、明治憲法の主流的解釈であった。

 政治学者の吉野作造は積極的にジャーナリズムに身を乗り出してデモクラシー思想を普及させた。東京帝大法科の教授だった吉野は、37歳だった時、『中央公論』1916年1月号の巻頭に掲載された「憲政の本義を説いて其有終の美を済すの途を論ず」という論文で、一般読者に向けて民本主義の第一声を発した。吉野は、言論の自由や選挙権の拡張、政党内閣制の実現を主張した。吉野は1919年から盛り上がる普選運動を導いた。
 1919年に朝鮮と中国で三・一運動や五・四運動が起こると、吉野は、反軍閥・反侵略から発した中国の排日運動は大正デモクラシー運動と目的を同じくするものと論じた。原内閣は吉野の姿勢を容認していたと考えられる。吉野は、収入のかなりの部分を日本に留学している朝鮮・中国人の学生に、自らの金銭と明かさずに給付していた。
 ウィキペディアによると、吉野は憲兵に狙われており、関東大震災直後、憲兵が吉野宅を急襲したが、近隣の住民に気付かれ暗殺は未遂に終わった。
by utashima | 2013-09-19 21:14 | 読書 | Trackback | Comments(0)

『政党政治と天皇(日本の歴史22)』(伊藤之雄著)の第3章

第三章 原敬首相の信念---「秩序」の再生と漸進的改革

 1918年9月27日、原は組閣の命を天皇から受け、初めての本格的政党内閣として政友会を与党とする内閣を組織した。当時の慣例に従い、陸・海軍大臣と外務大臣は政党員ではなかった。原は、強大化した米国を中心とする連合国側との協調を重んじた。むやみな大陸への出兵や進出には反対だった。

 原は、第41議会に官立の高等教育機関の充実計画案を提出。1919年度から1924年度に亘る6か年計画で、帝国大学4学部、医科大学5校(新潟医大、岡山医大、千葉医大、金沢医大、長崎医大)、商科大学1校(後の一橋大学)、高等学校10校(弘前・松江・東京・大阪など)などを創設し、帝国大学6学部などを拡張する内容だった。専門学校だった慶応義塾大学・早稲田大学・明治大学・法政大学・中央大学・日本大学・国学院大学・同志社大学の大学昇格を積極的に認めた。これらは、第二次世界大戦後の高等教育の土台となった。

 原は社会秩序の維持を重視し、第一次大戦以降に強まった普選運動や労働運動に対しては漸進的改革の立場から急進的なものに対しては強い姿勢で抑圧した。

 1918年1月、米国大統領ウィルソンは14か条綱領を発表。その最後の14番目に政治的独立と領土保全を保障するための国際連盟の設立があった。

 1918年11月11日、ドイツが降伏して4年3か月にわたった第一次世界大戦が終わった。戦闘員の死者850万人、負傷者2120万人、捕虜及び行方不明者770万人を出した。講和会議は、1919年1月18日から6月28日までパリで開催された。日本の方針は、赤道以北のドイツ領南洋諸島の割譲と中国山東省のドイツ権益の譲渡であった。中国は山東省権益は全て中国に返還するよう要求した。米国は中国に同情して支援したが、日本が条約に調印しないとの強硬な態度を示したため、ウィルソンは日本に譲歩した。

 中国ではロシア革命の影響により、マルクス主義の洗礼を受けた学生・知識人による反植民地運動が広がり始めた。日本がドイツ権益を継承する報を聞き、憤慨した北京大学などの学生3000名が1919年5月4日に激しいデモを行なった。これが「五・四運動」の始まりである。

 日本で普選を要求する政治運動の夜明けは日清戦争後の1897年(明治30年)に普通選挙期成同盟会が結成された時であるが、間もなく衰退していった。第一次世界大戦後の世界的なデモクラシーの潮流が日本にも押し寄せ、原内閣の最初の議会(第41議会)の間に普選運動は大衆運動として都市部で急速に盛り上がった。当時の選挙権は、1900年改正の選挙法に拠っており、直接国税10円以上を納める25歳以上の男子に限られていた。1919年2月11日に東京で初めての本格的な普選要求のデモが、早稲田大学の学生など3000名によって行なわれた。

 1920年に入ると普選運動が更に活発になった。その頃原は、まだ普選に向けて進むべきでないと考えており、国会を解散して1919年に改正した選挙法(選挙資格を直接国税3円に引き下げた)の下で総選挙を行ない、政友会を衆議院の過半数政党にして権力基盤を固めようとした。1920年5月10日の総選挙で政友会は281議席(総議席数の60.6%)を取り、圧勝であった。この総選挙後、普選運動は1.5年余り沈滞する。

 第一次世界大戦後、労働者の待遇改善を要求する大きな争議が流行した。その象徴が、神戸の川崎造船所の争議と、八幡市(現、北九州市)の官営八幡製鉄所の争議。川崎造船所では職工16000人がサボタージュに入り、会社が折れて実質8時間労働制となった。八幡製鉄所の争議では、数百名の警官・憲兵・守衛と衝突。八幡市内まで騒乱状態となった。原首相は、ストの中心となった組合を壊滅状態にして争議を終わらせると共に、12時間昼夜二交代制を8時間三交代制に変えさせ、月平均7円(現在の3.5万円程度に相当)の賃金を増額させて労働者の待遇を改善した。

 1920年5月2日には日本で最初のメーデーが上野公園で行なわれた。1921年7月、神戸の三菱・川崎両造船所で激しい争議が起きた。団体交渉権を会社側に認めさせること、会社横断的に組織された労働組合への加入の自由を認める事、などを要求。姫路の第十師団から歩兵一個大隊が出動するまでになった。労働者側は敗北のまま争議を終結させた。1922年7月には、日本共産党が秘密裏に非合法に設立され、革命を目指した。
 この頃から大企業では、会社側の委員と従業員の委員から成る工場委員会を作り、両者の意思疎通機関として活動するものも増えて行った。そして、共済組合・購買会・診療所・寄宿舎・社宅などの福利厚生施設が整備され、労働者は企業内に丸抱えされる形になっていった。1960年代から1990年代までの日本企業の主流となる日本型労使関係の原型ができた。
by utashima | 2013-09-08 17:05 | 読書 | Trackback | Comments(0)