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『高エネルギー加速器とは』(数理科学2013年8月号の記事)

 表記の科学雑誌の記事を読んで、以下の事を知った。

 高エネルギー加速器は一般に円周に沿って加速され、粒子は光速に近い速さで周回する。この時、何億周回にも及ぶ周回運動の安定性が問題となる。粒子の軌跡の半径は、ある周回で突然に変化を始め、急速に発散するような挙動となる。加速器の設計には、この不安定性を考慮しておかねばならないが、数値シミュレーションに拠るしかない。

 米国で1993年に中止されたSSC(Superconducting Super Collider) 計画では、当時の計算機能力が不十分だったために不安定性を過小評価した結果となり、小口径の電磁石で設計を行なった。しかし、計算機能力の向上に伴ない、より大口径の電磁石が必要と分かり、建設予算が数倍に膨らみ、中止に至った。

 CERN のLHC の設計では、SSC の経緯を反映して十分なビームの安定域を実現できた。

 SSC が中止になったニュースは記憶している。しかし、その背景に計算機能力の不足があった事は知らなかった。
by utashima | 2013-08-29 10:56 | 読書 | Trackback | Comments(0)

『政党政治と天皇(日本の歴史22)』(伊藤之雄著)の第2章

第二章 第一次世界大戦と日本の跳躍

 第二次大隈内閣が出来た1914年当時、日本経済は不況による税収の落ち込みと日露戦争での外債の重圧で破産寸前であった。1914年6月28日、オーストリア=ハンガリー帝国内のボスニアの中心都市サラエボで、同帝国の皇位継承者夫妻がセルビア王国の民族主義者に暗殺された。当時、ドイツはオーストリア=ハンガリー帝国及びイタリアと三国同盟を結んでいた。一方、イギリス、フランス、ロシアは三国協商を結んで、ドイツを包囲していた。7月28日、オーストリアがセルビアに宣戦布告し、戦火は欧州全体に広がった。戦争は予想に反して長期化し、4年3か月も続いた。戦闘員だけで双方合わせて3000万人が死傷した。

 日本は、第一次世界大戦を「天佑」ととらえた。1914年8月7日、日本の同盟国イギリスは山東半島の膠州湾を根拠地とするドイツ艦隊を攻撃する助力を求めてきた。日本は、8月15日に参戦を正式に決め、8月23日にドイツに宣戦布告した。日本は、久留米の第18師団を主力とする約2.9万名で青島を攻撃する部隊を結成、約2800名の英国軍と協力して、青島のドイツ軍を11月7日に降伏させた。日本は山東半島を占領した。他方、日本の第1艦隊南遣支体は、太平洋のドイツ東洋艦隊を追撃、10月中に赤道以北のドイツ領南洋諸島を占領した。

 その後、1917年2月に、英国の要請に応じて地中海に第二特務艦隊(巡洋艦1、駆逐艦8)を派遣、マルタ島を基地として連合国側の船舶をドイツの潜水艦(Uボート)から守った。

 1915年1月、日本は中国の袁世凱政権に21か条の要求を提示した。現代の感覚からすると、非常に高圧的な要求であった。しかし、当時は帝国主義時代であり、国際法の保護を受けられるのは「文明国」のみとの暗黙の合意があった。中国は列強から「文明国」とみなされていなかった。このような当時の感覚からしても、ルールを無視した要求(第5号:中国を日本の保護国とするような内容)が21か条の要求には含まれていた。日本は第5号を秘密にしようとしたが中国は激怒して列強に第5号要求を暴露した。米国は当初は日本の要求に異を唱えなかったが、第5号を知って中国を擁護する。日英同盟を結んでいる英国でさえ日本に第5号を諦めるよう通告した。結局、1915年5月9日に第1号から第4号の要求を概ね中国に承諾させた。5月9日は、以後中国の反日運動を鼓舞する記念日となる。加藤高明外相の21か条を要求は、帝国主義時代の外交基準に照らしても稚拙なものだった。

 これに対して、政友会総裁の原敬は、21か条要求は日中関係を悪化させ、列強の猜疑心を増大させたと批判している。また、原は、当時の日本人の間で一般的であった中国を一ランク下の国とみる風潮を戒め、東洋の平和を維持するには親善の道を図らねばならないと発言。英国は、その後、日英同盟を維持すべきか否か内部で検討を始め、1921年にワシントン会議で日英同盟の破棄が決定された。
 1916年10月、寺内内閣が発足。寺内内閣は1917年から18年にかけて、中国の袁世凱の後の段祺瑞政権に、1億4500万円もの借款を供与した。これは1917年の日本の歳出額の約20%にもあたる大きな額である。その目的は、第一次世界大戦で獲得した膨大な外貨を財政難の段祺瑞政権に貸すことで日本が中国をコントロールしようというものだった。段政権はこの殆どを南方の反対派鎮圧等の政権維持に使った。そのため、借款の約83%が焦げ付きとなり、十数年後の満州事変に至る事になる。

 大正天皇は1916年頃より健康状態が悪化、1921年11月25日、当時20歳だった皇太子・裕仁親王(後の昭和天皇)が摂政に就任した。

 1917年3月12日、ロシアの首都ペトログラードで三月革命が発生、ニコライ二世は退位させられた。三月革命でできた政権も戦争を継続したので、レーニンらボルシェビキ勢力が労働者や農民の厭戦感情を利用して11月革命を起こし政権を握った。レーニン政権は11月、各国に対し全戦線の即時休戦と講和会議の即時開催を要望した。連合国側は1914年の単独不講和宣言に違反するとして反発。英国は南部ロシアの反革命勢力を援助する方針を決め、日本にシベリア方面でも革命に干渉する事を求めた。

 英国の求めに積極的に応じたのは田中義一参謀次長だった。田中は、シベリアに出兵し極東に、ロシア革命や「独墺勢力」への緩衝国を作り、資源を獲得する事を主張した。本野外相もシベリア出兵に積極的に対応した。日本は1918年2月に、日本の出兵に向けての米、英、仏の合意を取り付けにかかったが、3月、米国のウィルソン大統領は日本の出兵を黙認する方針を撤回した。日本は出兵構想を一先ず放棄した。

 1918年6月、チェコスロバキア兵救出問題が起きた。米国はチェコ軍団を救出すべきとして米軍7000名と同数の日本兵をウラジオストックに集結させる決定をする。日本は8月23日に第二師団(仙台)に、24日に第三師団(名古屋)に出動命令を発した。11月時点での出征部隊の人数は7万人を超えていた。同時期に出兵した米、英、仏等に比べて日本軍の数が突出していた。

[チェコスロバキア兵救出問題について](以下はリンク先の冒頭部)
 1918年5月25日,シベリア鉄道によりロシア東端の海軍都市ヴラジヴォストークに向けて移送中であったチェコスロヴァキア軍団の一部が,彼らに対するボリシェヴィキ政府の対応に反発し,ウラル山脈南東部に位置する都市チェリャビンスク(話はそれるが、2013年2月に隕石が衝突した都市)にて蜂起して同市を占領するという事件が起こった。やがて彼らチェコスロヴァキア軍団の兵士たちは,8月までにヴォルガ川流域からヴラジヴォストークに至るシベリア鉄道沿線の主要都市を制圧し,ボリシェヴィキ政府に軍事的な圧力をかけるという前代未聞の事態を引き起こした。
 これら一連の騒動はチェコスロヴァキア軍団事件と呼ばれ,各地で反ボリシェヴィキ勢力(主に白衛軍)抬頭とソヴィエト政権を葬り去ろうとする外国軍の武力介入を誘発し,ボリシェヴィキ革命を崩壊一歩手前にまで追い詰めるまでに至った。


 第一次世界大戦中の好景気と急速な工業発展により、国内に激しいインフレが起きた。米価が特に高騰した。米屋や資産家を襲う一揆が全国に広がり、京都や名古屋では軍隊が出動して鎮圧した。寺内内閣は米騒動の責任を取って1918年9月に総辞職した。
by utashima | 2013-08-24 14:29 | 読書 | Trackback | Comments(0)

『政党政治と天皇(日本の歴史22)』(伊藤之雄著)の第1章

第一章 大正政変

 明治天皇が満59歳で永眠した後、直ちに皇太子嘉仁(よしひと)が32歳で即位し、1912年7月30日から大正と改元された。明治天皇は、元来の保守的な考えを少しずつ改め、伊藤を理解し、藩閥内部の対立や藩閥と民党の対立を調整する能力を身につけ、立憲国家の発展に大きく貢献した。

 新天皇の嘉仁は、幼児に脳膜炎・百日咳、13歳の頃にチフス、16歳の頃に結核性肋膜炎・肺炎などに罹り、成年の頃になっても学業が遅れていた。ドイツ人医師ベルツは、日本政府から求められて嘉仁を診察のため、1908年に再来日していた。

 1911年秋に辛亥革命が始まり、翌年2月に清朝が滅亡。桂らが懸念したのはアメリカの動きだった。日露戦争の講和を斡旋した親日派のルーズベルト大統領は日本が移民を自主的に制限すれば、交換として日本の満州での優越権を認めて良いと考えていた。しかし、次のタフト大統領は満州への介入を強めてきた。

 護憲運動は1913年2月にかけてピークとなる。護憲運動とは、藩閥勢力や官僚系勢力に対し、衆議院(国民を背景とした政党)の力を伸ばそうという運動である。2月9日の第3回憲政擁護大会は両国国技館に1万3000人以上の聴衆を集めた。そして数万の群衆が議会を包囲した。2月11日未明まで、警察署・交番や政府系の国民新聞社などを襲い、焼き打ちを行なった。2月11日、第三次桂内閣は組閣以来53日で辞職した。1912年12月の西園寺内閣の総辞職から桂内閣の総辞職までを「大正政変」という。桂は激しいストレスにより胃ガンに冒された。桂は1913年10月に65歳の生涯を終えた。

 桂太郎は、1848年に長州藩士の子として生まれ、騎兵隊に参加、戊辰戦争にも従軍した。明治3年からドイツに3年間留学し、帰国後、山県のもとでドイツ式陸軍の建設に努めた。明治34年に念願の首相となった。日英同盟を結び日露戦争を指導し、戦勝の後、4年半務めた首相職を辞任。明治天皇の信頼も厚くなり、伊藤博文と並ぶまでになった。これまで桂は山県に従う子分とみられて評価は高くなかった。しかし、近年、桂などの残した史料に則して再評価が行なわれ、桂は、陸軍など山県系官僚閥の利害と異なっていることが明らかにされている。
by utashima | 2013-08-02 10:52 | 読書 | Trackback | Comments(0)