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BD版007(スカイフォール)を正常に再生できず

 先週、DMM.com から『007(スカイフォール)』のBD版をレンタルした。ところが、コマ送り状態の映像と音声の再生となり、鑑賞できなかった。DMM.com からは現在までに9枚のBDをレンタルしており、問題なく再生できていた。今回のような不具合は初めて。

 DMM.com からは別の『007(スカイフォール)』BD版を送って頂いた。しかし、それも前回と同じ症状で鑑賞できなかった。2度続くと、この映画のBDに関しては、私のBlu-Rayドライブ(Panasonic製)と相性が悪いのかもと考え、次はDVD版の007(スカイフォール)を送って貰う事にした。

 BDが出てからかなり年数が経つが、まだこのような現象があるのに驚いた。
by utashima | 2013-06-28 09:36 | 映画・ドラマ | Trackback | Comments(0)

『明治人の力量(日本の歴史21)』(佐々木隆著)の第4章

第4章 相次ぐ転機

 日本初の政党内閣(第一次大隈内閣)は僅か4か月で倒れた。明治31年11月、第二次山県内閣が成立した。

 伊藤は、明治31年8月から11月まで、清・韓両国を視察した。翌年4月の御前会議で視察報告をしている。その中で、清国が自発的・内発的に近代化する見込みがないとの判断を示した。伊藤は清国滞在中に、戊戌(ぼじゅつ)の政変に遭遇していた。それは明治31年9月21日に、明治維新を参考に近代化政策を進めようとした康有為・梁啓超らが失脚した政変であった。この時伊藤は、梁啓超の日本亡命を手助けした。

 黒田清隆の周辺には西徳二郎、榎本武揚らのロシア通が集まっており、黒田邸で清国・韓国の問題の行方をロシア絡みでシミュレートしていた。西は、清国に対し既に結ばれた福建省不割譲宣言以上のものを求めてはならないと考えていた。清国の事より、韓国へのロシアの進出を危惧していた。西は日露戦争をシミュレートし、勝つためには、艦隊決戦での勝利が必要と考えていた。

 以下に西の経歴を示す(ウィキペディアより)。
1847年 父・西藤左衛門、母・加納ヒロの次男として生まれる。幼名を常二郎。
1870年(明治3年) ロシア ペテルブルク大学に留学。
1873年-1880年 中央アジアを調査のために踏破する。ブハラ、サマルカンド、西トルキスタン、タシケント、ウイグル、新疆を調査した。
1874年 フランス公使館書記官、帰国後は太政官大書記官。
1886年6月 駐ロシア公使を拝命(兼スウェーデン、ノルウェー公使)
1896年8月 駐ロシア公使離任
1897年3月 枢密顧問官任命
1897年(明治30年)11月6日-1898年(明治31年)1月12日 第2次松方正義内閣の外務大臣就任
1898年(明治31年)1月12日-1898年(明治31年)6月30日 第3次伊藤博文内閣の外務大臣就任
1898年(明治31年)4月25日 第3次日露協定(西・ローゼン協定)
1899年10月 清国駐在公使を拝命。1900年の義和団の乱(北清事変)では北京に籠城。
1899年(明治32年)12月27日、勲一等旭日大綬章受章
1901年1月、駐清公使離任。
1901年11月、枢密顧問官

 明治32年7月、英米独伊など12か国との間で新条約が実施され、治外法権が廃止された。外国人居留地も廃止され、日本本土での外国人の居住・経済活動が認められた。

 清国では明治32年春頃から義和団の動きが活発化。義和団は民俗宗教の色を帯びた排外運動。山東省などで活動が目立つようになり、やがて首都周辺に及び、ついに北清事変(清国事件、義和団事件などとも呼ばれる)へと発展した。

 明治33年1月27日、在北京の列国公使は清国政府に義和団の鎮圧を要求。清朝の西太后(せいたいごう)は義和団を利用して国権の回復を考え、庇護していたと言われる。5月には北京周辺でキリスト教徒の虐殺が相次ぐ。5月27日、義和団は北京南郊を襲い、鉄道・橋・電信線を破壊した。列国公使は陸戦隊の派遣要請を決めた。陸戦隊は、海軍に属する地上戦闘部隊。軽装備・小規模の軍隊である。6月3日までに列国(英仏露米独伊)と日本の陸戦隊350名が北京に派遣された。6月11日、北京公使館書記生の杉山彬が甘軍(清国の排外的な軍属の軍隊)に殺された。14日、列国連合軍と義和団の間で戦端が開かれた。15日、日本は陸軍の混成部隊の派遣を決めた。20日にはドイツ公使が甘軍に殺され、義和団は列国公使館を包囲した。21日、清国は日英仏露米独伊墺(墺はオーストリア)に対し宣戦布告した。連合軍の救援部隊は天津付近で義和団に阻止されており、イギリスは地理的に好位置にある日本に兵力増派を要請した。

 桂陸相は、列強が日本の軍事力に頼らざるを得ない一方、日本に主導権を取られたくないと考えていることを承知していた。桂は、日本の存在を高値で売りつける事を狙っていた。7月5日、英国外相ソールズベリは列強を代表して、派兵可能なのは日本だけであり反対する国はないと派兵を督促してきた。これを受けて日本は第5師団(約8000名)の派遣を閣議決定した。

 この年(明治33年)の日本を見つめてみる。この年の日本内地人口は4483万人(男2263万人、女2220万人)であった。東京府が201万人、新潟県が171万人であった。新潟市の人口は5万人程に過ぎず、新潟県が豊かな農村を多数抱えていた事が分かる。十万人を超える市は8つだけだった。零歳の平均余命は男43.97年、女44.85年だった。この短命は乳児死亡率が高いためであり、成人できれば60歳まで生きる可能性が大きかった。名目国民総支出はほぼ10年毎に倍増している。明治23年に10億2800万円、明治33年に28億8900万円、明治43年に41億4200万円と増えた。

 日本の第5師団は明治33年7月21日には天津に達した。そこに列強8か国の軍隊が集結。1万6000人の連合軍が編成された。この約半数が日本軍だった。連合軍は8月14日に北京に入城、包囲されていた公使館区域は解放され、西太后と光緒帝は北京から逃亡した。北京入城の際、連合軍兵士による略奪・放火・殺傷が多発したが、日本軍の軍紀の厳正さが報じられ、国際的評価が高まった。東アジアにおける日本の軍事的・政治的プレゼンスが飛躍的に増大した。列強と清国の和平交渉は明治33年12月30日に妥結した。日本は賠償金3479万海関両を得た。これは列強が得た総額の7.7%である。これは1/8にも満たない比率であり、日本の自制的な姿勢が高く評価された。なお、賠償金総額の4億5000万両(利払いを含めると8億5000万両になる)という額は、当時の清朝の年間予算1億両足らずの10倍近い天文学的な要求であった。

 さて、北京解囲作戦の最中、ロシアは満州に侵入し8月3日にハルビンを、27日にチチハルを占領している。9月28日には遼陽、10月2日には奉天を占領し、満州要域を制圧した。
 明治34年6月、第一次桂内閣が発足した。外相には小村寿太郎駐清公使が就任した。第一次桂内閣は新世代中心であり、軽量級の短命政権との不安があったが、実際には4年7か月という戦前最長政権となった。
by utashima | 2013-06-15 12:51 | 読書 | Trackback | Comments(0)

BD-R DL (50GB) を初めて使用

 昨年10月にTV付きPCを購入してからは、見たい地デジ番組は全てHDDに予約録画してから見ている。観終わった番組は、大抵すぐに消去するが、面白かった映画やNHKスペシャル、世界遺産番組などは、BD-Rにダビングして保存している。今までは、地デジ番組3時間分の容量(25GB)のBD-Rを使っていた。2時間番組の映画は1つしか入らないため、1時間程度の別の番組も入れないと勿体ない。50GBのBD-Rが25GBのものの2倍程度の価格であれば、映画3本を50GBのBD-Rにダビングしたいと思っていた。

 現在、25GBのものは、1枚当たり百数十円で買える。よって、1枚当たり300円を切れば、50GBのBD-Rを買ってみようと考えていた。今日、ヤマダ電機で、Panasonic製のBD-R DL 2倍速 10枚組が2880円で売られていたので早速購入し、3つの映画を1枚のBD-Rにダビングしてみた。ディスクは2倍速と書いてあるが、2時間の映画は30分程度でダビングできた。再生してみて、問題なかった。

 ダビングした3つの映画は、刑事物語2と3、名探偵コナン(11人目のストライカー)である。刑事物語2と3は1983年と1984年の武田鉄矢主演の映画である。今回初めて観て面白かった。
by utashima | 2013-06-01 17:47 | パソコン | Trackback | Comments(0)

『明治人の力量(日本の歴史21)』(佐々木隆著)の第3章

第3章 島帝国の孤独

 三国干渉の後、朝鮮では親露派の勢いが強まり、日本の影響下で作られた制度の見直しが始まった。これを憂慮した三浦公使は、本国に無断で明治28年10月8日、大院君を擁立してクーデターを起こし、閔妃らを殺害した。王城事変、閔妃事件などと呼ばれている。日本政府は事件を把握しておらず、小村寿太郎政務局長らの調査で真相が判明、三浦らは本国に召還され、逮捕された。日本政府は無関係であることを伝え、邦人の関与に遺憾の意を表明したが、朝鮮における日本の信望と影響力は大きく後退した。三浦らは翌年1月、証拠不十分で不起訴となった。出先の暴走が糾明・粛正されなかった。同様のパターンが、昭和に入って満州事変などで繰り返された。

 第9議会に政府は明治29年度予算案を提出。歳出総額は1億9598万円であった。これには陸海軍の増強、製鉄所設立、台湾経営費などが含まれ、予算規模は倍増した。新財源には、酒造税増税、営業税・登録税の新設、葉煙草専売化、清国賠償金が充てられた。清国賠償金は、明治31年5月までに総額3億6486万円が払い込まれた。倍増前の予算規模(約1億円)の約3.5倍である。その8割以上が軍事費関係に使われた。

 明治29年2月、高宗の露館播遷事件(ろかんはんせんじけん)が起きた。李氏朝鮮の第26代王・高宗がロシア公使館に移り朝鮮王朝の執政を執ったことを言う。朝鮮の親日的と目された人々が殺害され、親露的な人々が朝鮮を制した。

 第10議会で明治30年度予算が決定され、海軍拡張計画が認められた。英露のどちらか1国とその他の1~2国の連合に対抗できる海軍を目標とし、軍艦20隻、駆逐艦23隻、水雷艇63隻を建造するものだった。日露戦争の連合艦隊の主力はこの計画で整備されたもの。この議会では貨幣法が成立し、明治30年10月から金本位制が施行された。

 米国は明治30年6月16日にハワイを併合した。係争地に親米政権や「独立国」を作り、彼らの要請に応える形で介入し、ついには領土化するのは米国の得意技だった。明治31年2月、スペイン領キューバのハバナに停泊中の米国戦艦「メイン」が爆沈。米国はスペインの謀略と決めつけてスペインを挑発し、キューバを独立国とした。4月には米国-スペイン間で戦いとなり、米国はフィリピン、グアム、プエルトリコを領土化し、キューバを衛星国とした。

 明治30年11月1日、山東省で起きたドイツ人宣教師殺害事件を理由に、ドイツ艦隊が11月4日に膠州湾(山東半島南岸)を占領。この事は、ドイツと対抗関係にあるロシアを刺激した。12月7日にロシアのローゼン公使が西外相に、「ドイツに対抗するため、ロシア艦隊を一時、大連湾・旅順港に停泊させる」と通告してきた。

 列強の清国分割は、日清戦争における清国の惨敗が招いた。日本にとっては不羈独立の階梯だったはずだが、皮肉にも危機を誘発した。

 明治31年1月12日、第三次伊藤内閣が発足。列強は、清国・韓国を蚕食し日本の不羈独立を脅かしていたが、日本の軍事力・経済力では打つ手がなかった。同盟政策をとりたくても、日本を同盟の相手に足る国と見てくれる国がないので、同盟政策の取りようがなかった。かつての文化の師たる中華帝国が列強の侵略の前に為すところなく分割されていく姿は、文学者にも絶望感・無力感をもたらした。「荒城の月」で知られる詩人の土井晩翠は、列強の侵略を異文明・異文化の衝突と認識し、キリスト教文明の独善性・排他性に嫌悪感を示した。

 明治31年3月、ロシアは清国と遼東半島租借条約を結び、旅順・大連を含む遼東半島先端部を25年間の期限で租借し、半島中北部は中立地帯とされた。東清鉄道の支線(後の南満州鉄道)を大連まで敷設する権利がロシアに与えられた。日本はイギリスの介入を期待したが、イギリスは旅順・大連を自由港とする条件でロシアの進出を黙認した。イギリスは長江沿岸への進出に忙しく、ロシアとの摩擦を避けていた。

 フランスは南清地方に利権を拡張、明治30年3月に海南島の不割譲を約束させ、31年4月には広州湾を租借した。不割譲は、第3国に割譲・租借させないことを約束させるものだが、その地域に優越権・発言権を持つ事を確認させる効果があった。

 日本は、租借攻勢から台湾を守るため、明治31年4月22日に対岸の福建省の不割譲を清国に約束させた。

 明治31年6月30日、第一次大隈内閣、いわゆる隈板内閣が成立した。前外務大臣兼農商務大臣の大隈重信が第8代内閣総理大臣に任命され、明治31年11月8日まで続いた。与党となった憲政党のうち、旧進歩党系の大隈を首相に、旧自由党系の板垣退助を内務大臣に迎えて組織したため、大隈の「隈」と板垣の「板」をとって隈板内閣(わいはんないかく)ともいう。日本最初の政党内閣である。
by utashima | 2013-06-01 11:50 | 読書 | Trackback | Comments(0)