「ほっ」と。キャンペーン

<   2013年 04月 ( 4 )   > この月の画像一覧

父の7回忌の法要

 2013年4月21日(日)に、尾道市向東町で父の7回忌の法要が行なわれた。父は2007年4月23日に88歳で亡くなった。福山市に住む姉の家に泊めて頂き、家内と二人で出席した。

 乗った新幹線は残念ながら行き帰りとも、新型のN700A ではなく、N700 であった。しかし、十分満足できた。東京-福山間を3時間40分程で走る。普段は携帯電話を殆ど使わず、2100円/月程度の料金に抑えているが、偶の旅行なので少々贅沢をして、新幹線車両の中でGPSを利用した位置の連続表示を行なってみた。どこを走っているのかが良く分かって楽しい。

 21日(日)に尾道市向東町の私の実家に出向いたが、周辺が少し変わっていた。入り川を挟んで実家の向かい側には、昔から赤レンガの向島紡績の工場があった。それが昨年に取り壊され、新しい商業施設ができていた。
c0011875_2275245.jpg

赤レンガの建物は元々、1918年に作られた織布工場で、第2次世界大戦中は海軍の食料貯蔵庫として使われ、戦後の1948年に向島紡績の工場となったらしい。
 入り川に架かる東西橋も、工事が行なわれていた。交通量が増えたので拡張されるのかも知れない。
c0011875_2292880.jpg


 22日(月)に筑波に戻ってきた。東京駅で途中下車して、完全復元された東京駅丸の内駅舎を初めて鑑賞してきた。大正3年に完成した時の状態に復元されている。
c0011875_22105095.jpg


 それから、丸の内南口前に3月21日にオープンした商業施設「KITTE(キッテ)」にも寄ってみた。ここも、勿論初めて。下は、KITTE の屋上庭園からの眺め。
c0011875_22121833.jpg

by utashima | 2013-04-22 21:56 | イベント | Trackback | Comments(0)

『明治人の力量(日本の歴史21)』(佐々木隆著)の第2章

第2章 元勲内閣の手腕

 明治25年6月、松方首相の後任に推された伊藤は、元勲の総入閣を条件とした。8月8日に成立した第二次伊藤内閣は、内においては立憲政治の安定、定着に貢献した。外においては条約改正と日清戦争の勝利を実現し、三国干渉の危機を何とか乗り切った。

 陸奥宗光が第二次伊藤内閣の外相に就任、明治26年7月に条約改正案が閣議で承認された。それは内地を開放する事を条件に治外法権を廃止する事、日本に不利な関税率に多少の修正を加えるというもの。9月からイギリスと交渉に入った。

 この頃ハワイ問題が発生。独立国だったハワイ王国で明治26年1月に、在留アメリカ人や海兵隊による革命が起き(ハワイ事変、ハワイ革命)、リリオカラニ女王が廃位された。アメリカの駐布公使はハワイを保護領と宣言、2月にハワイ併合条約が結ばれたが、クリーブランド米大統領はこの条約承認を拒んだ。(しかし、5年後の明治31年7月、マッキンリー米大統領はハワイ併合決議案に署名し、ハワイの主権は正式にアメリカ合衆国へ移譲された。)この時、ハワイ王国の王党派は日本に援助を求め、駐日ハワイ公使は日布修好通商条約の対等化を申し出た。明治政府は申し出を容れ、明治26年4月に改正条約を結んだ。メキシコに次ぐ2つ目の対等条約である。11月、政府は邦人保護を理由に、巡洋艦を派遣してアメリカを牽制した。親日政権の王国政府を復活させる事は出来ず、翌年3月、巡洋艦を撤収した。北米大陸を奪い尽くしたアメリカは、新天地を求めて太平洋に押し出し、海洋通商国家として名乗りを上げた。地政学的考察に拠れば、1つの大洋には2つの海洋大国は長期的に共存できず、日本が海洋通商国家として繁栄を追求しようとすれば、いつか太平洋の覇権を争う衝突が起きる事は必至だった。

 この頃、朝鮮との関係でも問題が発生。明治17年の甲申事変(*1)に敗れて日本に亡命していた金玉均が、明治27年3月に朝鮮政府の刺客に上海に誘い出され、宿舎で暗殺される事件が起きた。金の遺体は朝鮮に送られ、大逆犯として四肢切断の上さらされた。亡命客を殺されたことで日本のプライドが傷付き、朝鮮と清に対する反感が高まった。

 明治27年7月に日英新条約が調印された。他の列強も条約改正に追随した。

(*1)甲申事変(ウィキペディアより)
 明治17年に朝鮮で起こったクーデター。
 当時の李氏朝鮮は、明治15年の壬午事変(*2)で興宣大院君が清へ連れ去られており、閔妃(びんひ)をはじめとする閔氏一族は、親日派政策から清への事大政策へと方向転換していた。
 このままでは朝鮮の近代化はおぼつかないと感じた金玉均らの開化派(独立党)人士らは、明治12年に李東仁を日本に密入国させ、福澤諭吉や後藤象二郎をはじめ一足先に近代化を果たした日本の政財界の代表者達に接触し、交流を深めていた。日本の政財界の中にも、朝鮮の近代化は隣国として利益となる面も大きいと考え、積極的な支援を惜しまない人々が現れ、改革の土台が出来上がっていった。
 開化派の狙いは、日本と同じように君主を頂点とする近代立憲君主制国家の樹立であった。政府首脳(閔氏一族)が事大政策を採る中、金玉均らは国王高宗のいわば「一本釣り」を計画。外戚の閔氏一族や清に実権を握られ、何一つ思い通りにいかない高宗もこの近代化政策の実行を快諾した。
 金玉均らはクーデターを実施、閔氏一族を殺害、開化派が新政府樹立を宣言した。しかし、袁世凱率いる清軍が王宮を守る日本軍に攻め寄りクーデター派は敗退。結局日本軍も撤退し、親清派の守旧派が臨時政権を樹立。開化派による新政権はわずか3日で崩壊し、計画の中心人物だった金玉均らは日本へ亡命することとなった。

(*2)壬午事変(ウィキペディアより)
 壬午事変(じんごじへん)は、明治15年7月23日に、興宣大院君らの煽動を受けて、朝鮮の漢城(後のソウル)で大規模な兵士の反乱が起こり、政権を担当していた閔妃一族の政府高官や、日本人軍事顧問、日本公使館員らが殺害され、日本公使館が襲撃を受けた事件である。
 江華島事件以来、当時の朝鮮は、朝鮮は清朝の冊封国のままであるべきであるという「守旧派」(事大党ともいう)と、現状を憂い朝鮮の近代化を目指す「開化派」(独立党ともいう)とに分かれていた。加えて、宮中では政治の実権を巡って、高宗の実父である興宣大院君らと、高宗の妃である閔妃らとが、激しく対立していた。
 事変を察知した閔妃はいち早く王宮を脱出し、当時朝鮮に駐屯していた清国の袁世凱の力を借り窮地を脱した。事変を煽動した大院君側は、閔妃を捕り逃がしたものの、高宗から政権を譲り受け、企みは成功したかに見えた。
 しかし、反乱鎮圧と日本公使護衛を名目に派遣された清国軍が漢城に駐留し、鎮圧活動を行なった上で乱の首謀者と目される大院君を軟禁。これによって政権は閔妃一族に戻り、事変は終息した。以後、朝鮮の内政・外交は清国の代理人たる袁世凱の手に握られることになった。

 明治18年夏、国王の外戚閔氏一族がロシアに朝鮮の保護を求めたことが発覚、清は露韓接近に衝撃を受け干渉を強化した。明治19年夏にも、露韓密約が明るみに出た。高宗が駐韓ロシア公使に朝鮮への出兵を求める書翰を送った事が清の袁世凱に内報された。清の介入はさらに強化された。

 日清戦争の直接の端緒となったのは、朝鮮半島の動乱に伴う清国軍の出動である。明治27年2月、全羅道古阜郡の郡守の悪政に対し東学(*3)の幹部が決起し郡守を敗走させた。これが農民の大規模な蜂起へとつながり、騒乱が拡大。6月1日に高宗は清国の李鴻章に清国軍の派兵を要請。天津条約により、日清両国は朝鮮に派兵する場合、文書による通報をする事になっていた。6月7日に清国の公使が朝鮮に派兵すると通報してきた。日本も公使館警護のため派兵すると通報した。6月14日、朝鮮の駐日公使が、乱が収拾に向かったので撤兵を求めてきたが、陸奥外相はこれを拒否。16日、陸奥外相は、清の公使に、東学党の共同鎮圧と朝鮮の共同改革を申し入れた。清はこれを受け入れず日本に撤兵を求めた。日本はこれを拒否。6月末に、日本の大鳥公使は、軍を漢城付近に移動して圧力をかけて、朝鮮政府に清との宗属関係の解消を迫り、高宗に朝鮮が自主独立の国である事を確認させ、内政改革を約束させた。ロシアの公使は、6月30日に日本に清と同時撤兵するよう申し入れてきた。

 7月20日、大鳥公使は朝鮮に清との宗属関係の解消と牙山(あさん)の清国兵を撤退させる事を要求した。朝鮮は拒否したので、23日早朝に歩兵一個連隊に王宮を包囲させ親日政権の樹立に取り掛かった。7月19日には日本の連合艦隊が編成され、7月23日に佐世保を出港。7月25日、日本海軍は兵員輸送中の清国艦と交戦、撃退した。8月1日、日清両国は宣戦を布告し、正式に戦争状態に入った。

 清国の北洋海軍はドイツで建造した甲鉄艦「定遠」と「鎮遠」を持っており、東洋最強と言われていた。日本は中型・軽装甲の「松島」型巡洋艦三隻をフランス等で建造したが、勝利の確算は立たなかった。当時の清国では正規軍が機能せず、有力者の抱える地方軍が主力だった。兵器は旧式・不統一であった。清軍は9月16日に平壌から撤退。17日に連合艦隊は黄海中央で「定遠」以下の北洋海軍と交戦。カタログ・データは清国優勢に見えたが、日本側は艦速と火砲の発射速度で圧倒し5隻を沈めて撃退した。黄海・渤海の制海権は日本の手に移った。

 10月24日に第一軍は満州に進攻、第二軍は11月21日に旅順を占領した。朝鮮は12月13日に独立を宣言している。
 明治27年年末にアメリカを介して清から講和使節派遣の申し入れがあった。翌年1月28日に清国講和使節が長崎に来航したが、清国側の全権委任状が不完全だったため、日本側は2月2日に交渉を拒否。この日、日本軍は北洋海軍の本拠地を占領し、北洋海軍は12日に降伏した。清は、アメリカを介して李鴻章を頭等全権とする使節団の派遣を申し入れてきた。3月20日に第一回会談が行われた。交渉の間に日本は澎湖列島(ほうこ、台湾の西の島々)を占領した。4月17日、交渉が妥結し、日清講和条約(下関条約)が締結された。その骨子は、以下の通り。
①清は朝鮮の独立を認め、宗属関係を廃止。
②遼東半島・台湾・澎湖列島の割譲。
③償金2億両の支払
④荊州・重慶・蘇州・杭州の開市港。

 下関条約の6日後、三国干渉が発生した。不羈独立への道は遠いという現実に正対せざるを得なかった。

(*3)東学
 1860年に崔済愚(さいせいぐ)が興した教学。儒教・仏教・道教を融合した独自の教義を持つ。「西学」(キリスト教)に対する東の学という事に由来する。やがて東学の道徒は排他的なナショナリズムを発揮する。

by utashima | 2013-04-19 16:08 | 読書 | Trackback | Comments(0)

『大隕石衝突の現実(天体衝突からいかに地球をまもるか)』日本スペースガード協会著

 株式会社ニュートンプレスから表記の本が出版された。これは約2ヶ月前のロシアへの隕石衝突やその翌日に生じた直径45mの小惑星(2012 DA14)の静止軌道内側の通過といった衝撃的な出来事を受けて、1998年に刊行された『小惑星衝突 最悪のシナリオをいかに回避するか?』を最新情報に基づいて加筆・改定したもの。

 1998年当時は、直径1km以上の地球に接近する小惑星を検出対象としていたが、その後の観測によりほぼ達成され、現在は直径150m程度以上のものに対象を広げていた。そこに、直径17mの隕石がロシアに落下し大きな被害をもたらした。これを受けて、日本スペースガード協会は、2013年2月24日に、「直径10m以上の地球接近小惑星を衝突2日前までに検出可能な観測システムを構想し、整備を目指す」との緊急声明を発している。

 私は、1998年の出版では、第5章4節の後半の「スペースガード宇宙望遠鏡からの観測」と題した2頁余りを執筆した。今回の出版でも第5章2節の最後にほぼそのまま掲載されている。直径10mまでの小天体を昼間に接近する場合でも検出するには、宇宙からの観測が必須と思われる。
by utashima | 2013-04-14 11:30 | 読書 | Trackback | Comments(0)

『明治人の力量(日本の歴史21)』(佐々木隆著)の序章と第1章

序章
 明治時代を通して様々な人に広く使われた言葉に、『不羈(ふき)独立』がある。羈は馬具のたづなの事。不羈とは束縛されない事という意味。明治25年頃の伊藤博文の文書から、欧米列強の仲間入りする事が国家レベルの不羈独立であり、不平等条約の治外法権条項がその障害と見ていた事が分かる。

第1章 立憲政治の開闢
 明治政府は西欧列強を軸とする国際社会に参入するため、立憲政治を導入。当面の目標として、幕末に結ばれた不平等条約の改正があった。憲法と付属法を整備する上で、特に天皇の位置付けが問題であった。出来上がった条文には、起案者たちの政治観の違いを反映した矛盾や詰めの甘い点があった。そのため、帝国議会が開設されると、予算審議権を巡って政府と民党の間で死闘が展開された。

 明治22年2月11日、天皇臨席の下、大日本帝国憲法発布の式典が宮中で催された。この時の総理大臣は黒田清隆。参考までに、明治初期の内閣を以下に記す。なお、明治憲法においては、閣僚は個別に天皇を輔弼するとされていたので、省庁・閣僚が割拠する可能性もあった。

[明治初期の内閣]
 1.第1次伊藤内閣(伊藤博文) 明治18年12月~明治21年 4月
 2.黒田内閣    (黒田清隆) 明治21年 4月~明治22年10月
 3.三条暫定内閣 (三条実美) 明治22年10月~明治22年12月
 4.第1次山県内閣(山県有朋) 明治22年12月~明治24年 5月
 5.第1次松方内閣(松方正義) 明治24年 5月~明治25年 8月
 6.第2次伊藤内閣(伊藤博文) 明治25年 8月~明治29年 8月

 憲法制定作業は、明治8年の立憲政体の詔書に基づいて始まった。しかし、国体と海外法の整合性、君権と民権の関係など問題が噴出し、明治13年12月にそれまでの案は岩倉らによって握り潰された。
 天皇は立憲政体についての意見書を参議に求め、明治14年5月までに出揃った。大隈重信の意見書を巡って抗争が生じ、明治14年の政変(*)が起きている。この時、明治23年に国会を開くことが公約され、それまでに憲法も制定される事となった。

(*)明治14年の政変(ウィキペディアより)
 1881年(明治14年)に自由民権運動の流れの中、憲法制定論議が高まり、政府内でも君主大権を残すビスマルク憲法かイギリス型の議院内閣制の憲法とするかで争われ、前者を支持する伊藤博文と井上毅が、後者を支持する大隈重信とブレーンの慶應義塾門下生を政府から追放した政治事件。

 制憲事業は岩倉と伊藤博文が主導した。天皇欽定、天皇大権、二院制、制限選挙、予算不成立時の前年度予算施行などの帝国憲法の基本は、明治14年の政変前に既に見えていた。伊藤は明治15年3月、渡欧して憲法と政治制度の調査を行なった。明治21年に憲法草案ができ、草案審議のために枢密院が設置され、伊藤が議長に就任した。

 欧州諸国の憲法は、専制的な君主と臣民の闘争の結果、君権の制限と民権の保障を目的としている。明治憲法の場合、西欧標準の憲法を整える事で価値観を西欧と共有していることを顕示し、臣民の政治参加を促し国家建設への協力を引き出す事が目的であったと考えられる。

 帝国憲法では、秘密外交を一存で行なったドイツやロシアの皇帝のような独走はできない規定になっていたが、かといって儀礼的存在でもなかった。明治天皇は、戦争・講和、同盟・条約などの外交問題や重要国内問題の採否などに主導権を取る事は無く、憂慮や感想を述べるに止まった。天皇は助言者・調整者ではあったが、国家権力の行使者からは遠かった。帝国憲法は外面をプロイセン憲法に近い体裁で整え、運用は天皇の権利不行使という不文法によったと思われる。つまり憲法の上に、不文の上位法があった。

 内閣と議会などが極限まで対立した場合、憲法上は天皇以外に決定者はいなかったが、天皇は生の政治に触れないのが不文律。そこで、天皇の代わりに諸勢力の調整を行なったのが「元勲」、後の「元老」である。元勲は幕末・維新期に大きな功績を挙げた長老政治家。彼らは、首班銓衡、重要政策の策定・承認などを行ない、彼らの会合(元勲会議、黒幕会議、元老会議などと呼ばれた)は閣議の上に位置付けられた。この時点の元勲は、伊藤博文、井上馨、山県有朋、山田顕義、黒田清隆、西郷従道、松方正義、大山巌の8人。内閣制度発足後の15年間は、首班候補は彼らに限られていた。

 元老は天皇の権力不行使を不文の前提とする帝国憲法の安全装置であったが、時間の経過と共に元老は減少するので、時刻表示のない時限爆弾でもあった。帝国日本は統合の低下に伴う割拠化による軍部の暴走を契機として滅亡した。

 黒田は条約改正に取り組んだ。大隈が作成した改正案が明治21年11月に閣議決定された。その案には、外国人が被告の裁判では、大審院で外国人裁判官が過半を占める法廷構成で審理を行なう条項があった。英紙『タイムズ』のリークと伝えられている。明治22年10月18日、閣議で山県が大隈案に反対を表明したが黒田・大隈は動じなかった。しかし、夕刻、外相官邸に戻った大隈の馬車が来島恒喜の爆弾テロに遭い、大隈は右脚切断の重傷を負った。黒田は政権を投げ出し、辞表を提出した。

 明治22年12月24日、第一次山県内閣が発足。第一回衆議院議員選挙が明治23年7月1日に実施された。定数は300、選挙人資格は直接国税15円以上を納めた25歳以上の男子だった。当時の有権者は、45万人で内地人口3993万人の1.13%であった。北海道・沖縄県・小笠原は選挙法が未施行であった。

 第一回帝国議会は明治23年11月29日に開会した。これに伴い帝国憲法が施行された。議席数は、自由党131、改進党43、無所属41、大成会85であった。大成会は政府に近い議員たちが作ったもので、温和漸進路線と不偏不党性を強調した。自由党と改進党が「民党」を称する野党であり、過半数を占めた。

 明治23年12月6日、山県首相は衆議院本会議で有名な「主権線・利益線演説」を行なった。特に質疑や反論は無かった。その内容は、日本の安全を確保するには主権線(国境)を防衛するだけでは不十分で、その安危に密接にかかわる利益線を守る必要があると言うもの。利益線の焦点は朝鮮であった。

 明治24年4月に山県首相は辞意を奏上し、5月に松方正義が首相に就任した。松方が組閣にもたつく内に、5月11日に大津事件(湖南事変)が突発した。日本を親善訪問中のロシア皇太子ニコラス(後のニコライ2世)が警護の津田三蔵巡査に斬りつけられて負傷した。当時、ロシアは日本を侵略する可能性の高い国と見られていた。謀殺未遂罪の適用が適切とする児島惟謙(これたか)大審院長に、政府は密約(青木外相が駐日ロシア公使に、ロシア皇太子が危害を加えられた場合、刑法第116条の皇室罪(皇室に危害を加えた者、又は加えようとした者は死刑に処す)を適用する)を明かして翻意を迫ったが、児島は拒否した。大津臨時裁判所は津田に無期徒刑の判決を下した。青木外相の密約は、伊藤と井上馨の強要があったためとも言われている。
by utashima | 2013-04-02 13:29 | 読書 | Trackback | Comments(1)