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デスクライトの故障、換装

 今日まで使って来た書斎のデスクライトのスイッチが壊れた。いつ買ったか覚えていない程古い製品なので、廃棄処分にした。長男の部屋の机の上に、使っていないデスクライトが2つあった。小さくてシンプルな方を借用する事にした。下の写真がそのライト。消費電力23Wの蛍光灯スタンド。ライトの向こうにある緑色枠の時計は、今年1月の職場のボーリング大会で頂いた商品。第二ゲームで141を出したが、学生時代は200アップも何度か達成しており、150以上は固いと思っていたので、ちょっとショックだった。時計の右は、普段は充電中の携帯電話。
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by utashima | 2012-07-31 12:56 | 省エネルギー | Trackback | Comments(0)

日本リモートセンシング学会誌に解説記事掲載

 日本リモートセンシング学会の学会誌に、「Q & A in Remote sensing (リモートセンシング質問箱)」というコーナーがある。今回、『地球観測のための衛星軌道について』というタイトルで、執筆させて頂いた。今年7月発行のVol. 32 No. 3 に掲載された。

 以下の質問項目に対して、解説すると言う形で記述している。

 Q. 衛星が採り得る軌道にはどのようなものがありますか?
 Q. 一旦軌道に乗せれば後は,永遠に同じ軌道に居続けるのでしょうか?
 Q. 衛星の軌道決定や軌道制御は,どのように実施するのでしょうか?
 Q. 将来はどのような軌道にどのような衛星の打上げが検討されていますか?
 Q. 手軽に使える軌道計算ツールはありますか?

 日本リモートセンシング学会の会員の方は、学会誌をご覧下さい。学会員でない方も、約半年後に、こちらのサイトで読めるようになります。
 なお、記事の中で、ADEOS-Ⅱの打上げ年を1996年と書きましたが、2002年の誤りでした。失礼しました。編集者には連絡しました。次号に訂正記述を入れて頂けるそうです。

[追記(2012年12月30日)]
 今日、日本リモートセンシング学会の上記サイトに、Vol. 32 No. 3 も公開されているのを確認した。なお、ADEOS-Ⅱの打上げ年の誤記は修正されていないので、ご注意ください。
by utashima | 2012-07-25 20:24 | イベント | Trackback | Comments(0)

『文明としての江戸システム(日本の歴史19)』(鬼頭 宏著)の第4章

第4章 人間を取り巻く環境

 伊能忠敬は1821年に、正確な日本地図『伊能図』を完成させた。これに対して、浮世絵師の鍬形蕙斎(くわがた けいさい)は、『扶桑国略図』(扶桑国とは日本の事)を描いた。正確さでは『伊能図』と比べる事はできないが、別の美しさを持つ。太平洋上空を飛ぶ衛星から見下ろす視点で、日本全体が描かれている。ネット上で鑑賞できるか調べてみたが、残念ながら見つける事はできなかった。神戸市立博物館に所蔵されているらしい。
 蕙斎は1809年に『江戸一目図屏風』という作品も残している。隅田川の東岸上空から、西に向かって江戸の町並み全体を描いたもの。津山郷土博物館に所蔵されている。東京スカイツリーの第一展望台で展示されているようだ。

 江戸幕府成立前後の2世紀余りの時代は、歴史上有数の列島改造の時代であった。17世紀になると、本格的な河川改造・干拓工事が始まった。家康が江戸入府後の1594年に利根川を東へ、寛永6年(1629年)に荒川を西へと、それぞれ付け替える工事(瀬替、せがえ)が行なわれた。こちらのサイトをご覧下さい。
これらにより、江戸市街が水害から守られ、舟運の便も良くなり、江戸周辺が穀倉地帯に替えられた。全国でも活発に新田開発が行なわれ、江戸時代前期に耕地面積は飛躍的に増大した。

 一方、急速な開発が環境を破壊するようになり、1666年2月に老中から、「諸国山川掟」という三ヵ条の法令が出されている。乱開発による災害を防ぐために、木の根の掘り出しを禁じ、苗木の植え立てを命じたもの。森林は一旦枯渇の危機に瀕したが、再び回復した。その最も大きな要因は、人口の停滞であった。人口停滞の実現と節約が、環境資源に対する総需要を抑制し、江戸システムの維持を実現した。

 江戸時代は小氷期と呼ばれる地球的規模の寒冷化の時代であった。被害が大きかったのは、寒冷化の第二のピークの宝暦(1751~1763年)・天明(1781~1788年)・天保(1830~1843年)期を中心とする18世紀中期から19世紀中期の約1世紀だった。稲作を基調とする日本にとって、冬の寒さや降雪よりも、冷夏の霖雨による日照不足・低温であった。享保(1716~1735年)飢饉は「蝗害(こうがい)」と記録されるイナゴ・ウンカ・ズイムシ等の虫害が大きく、天保飢饉では高熱・下痢を伴う疫病がはやった。1780年代の天明飢饉で甚大な被害は、陸奥国と北関東に集中している。弘前藩では、1783年11月頃から餓死した人があちこちに転がっていた。初めの内は死者を埋葬したが、それも追いつかなくなり、放置されて犬や鳥の餌食になってしまった。

 気象災害だけでなく、火山活動や大地震も大きな被害をもたらした。江戸時代は幕藩制によって統治領域が分断されており、隣接地域の飢饉に対して救済措置が取られなかった。そのため、仙台藩や津軽藩で数十万の死者を出していても、白河藩では一人の餓死者も出さなかったという事が有った。

 江戸では、初めは赤坂溜池と神田上水の水が供給されたが、市街の発展により水不足となり、1652年に計画された玉川上水が造られた。これらの水は濾過や消毒がなされていないため、衛生上問題があった。消化器系病気が流行すると、広範囲に伝染し、命を落とす人が多かった。18世紀になるとコレラが猛威を振るった。一説によると、1858年7月から9月の間に、江戸市中の寺院で扱った死者だけで28万人を数えたという。僅か2ヶ月で江戸人口の1/4が死亡した事になる。

 当時の日本の都市は、ロンドンやパリと比べて、快適な環境を保っていた。資源のリサイクルが徹底していたからである。テムズ川やセーヌ川が汚物に充ちていたのと対照的に、隅田川河口で白魚がとれ、品川・大森の海岸で浅草海苔が作られていた。江戸は現在の東京湾岸地域と同様に、ゴミで海を埋め立てて街区を拡大させていった。
by utashima | 2012-07-22 14:21 | 読書 | Trackback | Comments(0)

『文明としての江戸システム(日本の歴史19)』(鬼頭 宏著)の第3章

第3章 人口にみる江戸システム

 8代将軍吉宗は1721年(享保6年) に、「子午改め(しごあらため)」と呼ばれるようになった人口調査を開始した。武士を除く諸階層の人口を、子年と午年に6年毎に定期的に調査するもの。それによると、江戸時代中・後期125年間(1721年~1846年)の人口増加率は3%、年率では0.03%にも達しない低さであった。幕府調査で把握されなかった人口は、明治初期の人口との比較から、約20%と考えられる。そうすると、1721年の全国人口は約3128万人、1846年では約3229万人と考えられる。
 江戸時代前期(1600年頃)の人口は、別の方法で推計するしかない。幾つかの推計がなされているが、著者は1500万人~1600万人であろうと考えている。

 江戸前期は著しく人口が増加した時代だった。1600年から1721年(享保6年)までの増加率は、年率約0.56%となる。125年間で1550万人から3128万人に増加したとして計算した。

 エリザベス1世(1533年~1603年)やシェークスピア(1564年~1616年)が活躍し、勢力を世界に伸ばしたイングランドでさえ、16世紀半ばから17世紀半ばの人口増加は、年率0.5%でしかなかった。その間の人口は、約300万人から約500万人への増加であり、江戸時代の日本は人口においてイングランドの数倍も大きかった。

 江戸時代前半の人口成長は、何が原因だったのか。有力な理由は、市場経済の全国への拡大と社会各階層への浸透である。内戦が終了して平和になり、社会のエネルギーが破壊から建設へ向かう事で、人口増加と市場拡大が正のスパイラルによって相互に刺激しあったためであろう。

 農村では、親子三世代からなる直系家族が一般化し、人口が増加した。それ以前には、平均世帯規模が7名に近い農業経営であった。世帯規模の大きい農家には、名子・下人などの隷属者が多かった。隷属労働者や傍系親族を同居させて大規模経営を行なうより、直系家族から成る労働集約的経営が有利と判断された。アダム・スミスは『国富論』の中で、作ったものが自分のものにならない労働力は、勤勉には働かないのでコスト高である、と述べている。
 人口増加の要因として死亡率の低下も認められる。稲の品種改良や耕地の改良によって、裏作としての麦作が拡がり、恒常的な飢渇から人々を救った。

 江戸中期になると、人口は停滞する。その理由として、「小氷期」という寒冷化により頻繁に飢饉が起きたためと言われて来た。しかし、それ以上に、出生率にブレーキが掛かるようになった事が重要である。意図的な出生抑制が江戸時代中期の出生率低下の理由として重要である。堕胎や嬰児殺しが行なわれたと考えられる。多くの藩領で堕胎・間引きを禁ずる法令が出されている。
 子供数を抑制する方法として間引きのような荒々しい手段だけでなく、長期間の母乳哺育が医師により薦められていた。母親が授乳すれば排卵が妨げられ、次の妊娠を遅らせる事に気付いていた。現在、開発途上国で推進している事を日本では元禄期に実践していた。
 江戸時代の研究を行なったアメリカの経済史学者トーマス・C・スミス氏(2004年に87歳で亡くなっている)は、出生率の抑制は貧しさ故に行なわれたのではなく、将来の生活水準の低下を招く事を避ける目的で計画的に行なわれたと解釈している。産業革命前夜のイングランドでも出生抑制が行なわれていた。出生抑制が可能になった背景に、幼児死亡率の低下があった。

 幕末になって全国人口は再び増加に転じた。
by utashima | 2012-07-09 21:53 | 読書 | Trackback | Comments(0)