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グループホーム入居の母との面会と、父・兄の墓参り

 2012年5月25日(金)~27日(日)に、故郷の尾道に帰り、3月からグループホームに入居している母に会って来た。母は今年95歳になる。

 26日午前、福山市に住んでいる姉夫妻の車で尾道市のグループホームに連れて行って貰った。母は、キッチンでキュウリを切って、昼食の準備をしていた。元気そうだった。私の顔はすぐに認識してくれたが、私の名前を思い出せない。メモ用紙に太い字で「昌由」と書いて示すと、やっと分かってくれた。私の住んでいる茨城県や子供達の住んでいる青森県や東京を、日本地図をざっと描いた上に記入して説明した。母は、私が以前に青森県に住んでいたと思い込んでいた。私は青森県には住んだ事は無く、何故そのように思っているのか不思議だ。2年前に二男が青森県弘前市の大学に受かった報告をしているが、それと混同しているのかも知れない。それから母も一緒に、向島にある父と兄の墓参りに行った。母をグループホームに送り届けた後、鞆の浦を回って福山に戻った。私は、車の後部座席に座り、暫く涙が浮かんでいた。

 前日の25日の夕方、福山の街を自転車で走ってみようと思った。中学と高校の6年間、広大付属福山中高等学校に通ったが、福山駅と学校の間の2,3のルート付近しか福山を知らない。そこで、最も良く通ったルートを走ってみようとした。始めは駅近くの商店街を通るが、40年以上前とは大きく変わっており、本当にこの道を歩いていたのかと思うほど。学校のあった跡地は、現在、緑町公園となっている。学校の正門がどこに有ったかは、正門に続く道などから、すぐに分かった。懐かしかった。既に1995年頃に、ローズ・アリーナ等の施設がここに出来ていたが、緑町公園に来たのは今回が初めて。

[天満屋(デパート)の角から福山駅を見る。背後に、福山城が覗いている。]
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[学校の正門があった付近から緑町公園を見る。]
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[緑町公園内のローズ・アリーナ。]
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by utashima | 2012-05-28 22:25 | イベント | Trackback | Comments(0)

田中彰氏がブログ開設

 私のブログに、ラグランジュ点の位置を潮汐力の観点から説明する資料を提供して頂いた田中 彰氏が、ご自身のブログを開設された。『落ち零れの知恵と工夫 -高校の物理と数学で軌道解析に挑戦-』というタイトルのブログです。これからもご自身のブログ上で、新しい観点からの軌道解析を展開して戴けると期待しています。
by utashima | 2012-05-23 19:13 | 宇宙機の軌道設計/ 解析 | Trackback | Comments(4)

ネット回線速度増強と電話の統合

 今日、我が家の電話(KDDIのメタル・プラス電話、基本料金1500円)を、ACCSのケーブル・プラス電話(基本料金1396円)に切り換えた。基幹回線をNTT回線でなく、各地のケーブルTV回線を利用する電話システムである。そのついでに、ネット回線も今までの6Mbpsから100Mbpsに増強して貰った。

 ネット回線には30Mbpsのサービスもあるが、100Mbpsとケーブル・プラス電話を一緒に契約する事で比較的大きな割引があるので、100Mbpsに決めた。TV の方は、以前から再送信サービス(ほぼ地デジのみ)を利用している。こちらは、2016年3月までは年間2310円だが、それ以降は月額735円に上がる。
 今までと今後の月額料金をまとめると、以下のようになる。

                 今まで       今から2016年4月まで    2016年4月以降
TV再送信サービス      193円           193円             735円
ネット回線          3990円(6M)       4515円(100M)      4515円(100M)
電話             1500円           1396円            1396円
プースタ・レンタル                      315円             315円
  合計            5683円          6419円            6961円

 実際に100Mbps回線でインターネットを利用してみた。7年目に入った古いPC(xp)でも20~30Mbpsの速度が出ている。職場でのネット速度と同程度である。工事の人が持ち込んだPC(xp)では90Mbpsが確認された。その人の話では、xpでは約40Mbpsが上限との事。その人のPC は改造したもの。最近の新しいPC(Windows 7)に替えれば、50~60Mbpsが出るのかも知れない。

[補足(2012年5月19日)]
 電話回線をケーブル・プラス電話に替えるために行なった工事は、リビングに隣り合った祖母の部屋の天袋に設置されているドアホン・アダプタ(Panasonic製)の横に、電話用のケーブルモデム(CM6560TV, NEC製)と周波数変換器を設置した事。祖母の部屋のTV端子に接続している。1995年に設置したドアホン・アダプタは、現在も同じ型番の製品が使われている事をPanasonicのホームページで知って驚いた。

 100Mbpsに増速するには、プースタを交換する必要があった。1995年に新築した時、ACCSはTVサービスだけだった。我が家にはTV端子が計8ヶ所にあり、信号レベルを上げるためにプースタを設置していた。
 2000年3月にACCSはネットサービスを開始、私はすぐに申し込んだ。その時、外から取り込んだケーブルを2つに分け、1つをそれまで使っていたプースタに接続し、もう一つを直接私の部屋のネット端子に接続した。つまり、ネット回線はプースタを経由していなかった。取り付けられていたプースタには、ネット回線も増強する機能は無かった。この辺りの事は、今回の工事を見ていて知った。6Mbpsまでは、それで良かったが、それ以上高速の回線とするには、ネット回線のブーストも必要になった。TV台数が少なければ、プースタは不要かも知れない。
 TVとネットの両方をブーストする機器に取り換え、その費用を月315円のレンタル料として支払う事とした。

 TV視聴料金は、1995年から再送信サービスを利用している。ほぼ地上波12チャンネルだけのサービスである。地上波以外の色々な番組も視聴できるサービスは、2台目以降も5割程度の月額費用が必要であり、我が家のように台数が多いと、負担できない(したくない)。その点、再送信サービスは、台数に依存しないのが助かる。2016年4月から再送信サービスも約3.8倍に値上げになる事をACCSに電話して知った。ちょっとショックだったが、やむを得まい。

[補足2(2012年5月19日)](xpでは約40Mbpsが上限との事。その人のPC は改造したもの。)
 xpの標準設定では、遅い回線の時代に妥当だったパラメータ設定になっているため、現在のブロードバンド回線の能力が十分に発揮できないようだ。レジストリを高速回線に合わせて適切に変更すれば、速くできるらしい。私は、自信が無いので、xpの標準設定で使っている。
by utashima | 2012-05-18 18:31 | パソコン | Trackback | Comments(0)

『開国と幕末変革(日本の歴史18)』(井上勝生著)の第5章

第5章 開国から尊王攘夷へ

 1858年1月、日米修好通商条約全14ヶ条の協議が終了。前年末の12月29日、家定臨席のもと、老中堀田正睦が貿易開始の「やむをえない」事を説明し、大名たちに意見を聞いている。4度目の諮問である。大名たちは幕府の通商決断を了承した。
 その後幕府は、天皇の承認も得ようとして、1858年1月下旬に堀田正睦自身が、外交交渉に当たった川路聖謨と岩瀬忠震を連れて上京の途につく。ところが、天皇・朝廷は条約の承認を拒否した。

 戦前に文部省維新史料編纂会で編纂された『維新史』は、1911年から編纂が開始され、1941年に完成している。『維新史』では、天皇・朝廷は、条約に反対する大名たちや世論を受けて、条約承認の拒否を貫いたと描いている。今日でも、この事が繰り返し語られている。しかし、実際には、世界情勢を考えれば通商はやむを得ない事を、大名たちも納得していた。

 孝明天皇は、幕府が予告していた外交事情説明を受ける以前に条約案の拒否を公家たちに示してしまっていた。堀田が、条約を断って紛争が起きたらどうするかを聞くと、朝廷は、欧米との戦争もやむを得ないと述べた。堀田は、「朝廷は、正気の沙汰とは存じられず」と江戸の老中に報じている。 『維新史』の記述は、事実に反して朝廷・天皇を称揚する皇国史観のフィクションに過ぎないと、著者は記している。

 幕府は日本が弱国であるという現実を把握していたが、孝明天皇は中国より優れた「神州」という「万世一系」の神話に基づいた大国思想を持っていた。孝明天皇は血脈が弱い天皇だった事も影響していると著者は記している。堀田らが条約承認に空しく苦闘している間に、江戸では反改革派である南紀派の工作が進み、井伊直弼の大老就任が迫っていた。

 1858年4月下旬、堀田が江戸に戻った三日後、「無名」であった井伊直弼が大老に任命された。6月に日米修好通商条約が調印された。改革派(一橋派)の開明的幕臣の川路聖謨らは左遷され、幕政に復帰する事は無かった。川路は1868年3月、江戸開城を目前にしてピストル自殺した。1858年から翌年に掛けて大老井伊が行なった弾圧、安政の大獄で、一橋派の橋本佐内らの藩士、近衛忠煕らの公家、徳川斉昭らの大名、岩瀬忠震らの幕臣が処分された。天皇は、幕府の外交を了承した。この後、天皇は一転して幕府側に政治スタンスを移行させた。この辺りは、戦前の『維新史』では触れる事が避けられている幕末史の闇の部分であると著者は記している。

 井伊政権に対する反発が全国に広がり、九州や西日本各地の志士、小河一敏や平野国臣、真木和泉らが運動を始めていた。私は、平野国臣、真木和泉の名を良く覚えている。九州大学1年生の時に日本史の講義を選択したからである。その時の講義は、先生がゆっくり喋る文章を学生が全て書き取るという形態であった。上記両名の名前が度々出て来たのであろう、手で何度も書いたものは良く覚えているものだ。

 1860年、水戸藩と薩摩藩の尊攘過激派の間で挙兵の盟約が成立。その年3月3日、井伊直弼が暗殺された。

[戊午(ぼご)の密勅] (ウィキペディアより)
 戊午の密勅は、1858年9月14日(安政5年8月8日)に孝明天皇が水戸藩に勅書(勅諚)を下賜した事件。「密勅」は正式な手続(関白九条尚忠の裁可)を経ないままの下賜であったことによる。内容は、以下の3項に要約できる。
 ・勅許なく日米修好通商条約(安政五カ国条約)に調印した事への呵責と、詳細な説明の要求。
 ・御三家及び諸藩は幕府に協力して公武合体の実を成し、幕府は攘夷推進の幕政改革を遂行せよ。
 ・上記2つの内容を諸藩に廻達せよ。
将軍の臣下であるはずの水戸藩へ朝廷から直接勅書が渡されたということは、幕府がないがしろにされ威信を失墜させられたということであったため、幕府は勅条の内容を秘匿し、大老井伊直弼による安政の大獄を起こす引き金となった。

[平野国臣](ウィキペディアより)
 平野国臣(ひらの くにおみ、文政11年3月29日(1828年5月12日) - 元治元年7月20日(1864年8月21日))は、日本の武士・福岡藩士、志士。
 攘夷派志士として奔走し、西郷隆盛ら薩摩藩士や真木和泉、清河八郎ら志士と親交をもち、討幕論を広めた。文久2年(1862年)、島津久光の上洛にあわせて挙兵をはかるが寺田屋事件で失敗し投獄される。出獄後の文久3年(1863年)に三条実美ら攘夷派公卿や真木和泉と大和行幸を画策するが8月18日の政変で挫折。大和国での天誅組の挙兵に呼応する形で但馬国生野で挙兵するがまたも失敗に終わり捕えられた。身柄は京都所司代が管理する六角獄舎に預けられていたが、禁門の変の際に生じた火災を口実に殺害された。

[真木和泉](ウィキペディアより)
 真木保臣(まき やすおみ、文化10年3月7日(1813年[1]4月7日) - 元治元年7月21日(1864年8月22日))は、江戸時代後期の久留米水天宮祠官、久留米藩士、尊皇攘夷派の活動家である。神官として従五位下和泉守の官位を持ち、真木和泉守もしくは真木和泉、真木和泉守保臣として知られる。安政の大獄によって吉田松陰・橋本左内の指導者を失った後の尊攘派を形而上下にわたり先達として指導した。
by utashima | 2012-05-16 12:52 | 読書 | Trackback | Comments(0)

最近の省エネ効果と今後

 今年7月から東京電力は、電力料金の約10%の値上げを申請している。そこで、我が家の最近の省エネ状況を確認してみた。

 今まで、毎月の電気使用量、電気代、ガス使用量、ガス代をExcelに入力しグラフ化してきた。2005年から続けている。季節毎の変動が明瞭に分かる。しかし、年間を通しての推移を見ようとすると、これでは不便なので、直前12ヶ月の移動平均もグラフにしてみた。

 これらの結果のグラフを眺めると、以下の事が確認できる。

(1)プロパンガスから都市ガスへの変更とエコ・ジョーズ給湯器への換装の効果
 2008年にこれらを実施した。その結果、年間38%の省エネになっている。

(2)2010年に換装した省エネ型エアコンの効果
 極めて暑かった2010年夏が終わる頃、リビングのエアコン(200V用)が寿命を迎えたので、新型の省エネタイプに換装した。その結果、夏季の電気代は約13%の省エネになった。我が家はもともと夏にクーラー機能を使う事は極力控えるようにしているので、全体に及ぼす省エネ効果は小さい。

(3)電球の蛍光管化・LED化の効果
 数年前から全ての電球の蛍光管化・LED化を進めて来た。昨年辺りから小型LEDの値段が下がって来たので、蛍光管化できなかった所の電球を全てLEDに変えた。その結果、約20%の省エネとなっている。

 以上まとめると、ガスは38%の省エネ、電気は20%の省エネを達成していると言える。
 従って、今後、電気料金が10~20%上がったとしても、ぎりぎり吸収できる見込み。とは言え、折角LED化してコストを減らして来た分が吸い上げられる事になり、喜べない。
by utashima | 2012-05-12 11:25 | 省エネルギー | Trackback | Comments(0)

『開国と幕末変革(日本の歴史18)』(井上勝生著)の第4章

第4章 開国と外交交渉

 1853年6月3日、サスケハナ号(2450トン)を旗艦とする4隻の艦隊で、ペリーが浦賀に来航。この頃の国際法(近代国際法)は、今の国際法(現代国際法)とはさまざまな点で違っていた。例えば、民族自決権を欠き、欧米諸国だけに構成員を限定し、戦争権も認めていた。

 近代国際法は、世界の国々を、文明国、半未開国、未開(国とは認めていない)の三群に区分していた。文明国は、欧米の国家群のこと。半未開国はトルコ、ペルシャ、シャム、中国、朝鮮、日本等を指した。その他の未開は、無主の大地と定められ、文明諸国の「先占」の対象と規定された。これにより、近代国際法では、征服・占領が合法化された。

 ペリーは浦賀沖停泊の翌日(6月4日)、測量船に江戸湾内に入るように命じた。測量船が攻撃を受けたら掩護できるように、もう一隻の蒸気軍艦ミシシッピー号の大砲の射程外には行かない様伝えていた。ミシシッピー号はサスケハナ号より一回り小型(1692トン)の外輪式蒸気フリゲート艦。大砲12門。19世紀初めには、大型の戦列艦には4000トンクラスが登場し、中頃には9000トンクラスのスクリュー式軍艦も登場。一方、日本の千石船は100トンクラスであった。

 ミシシッピー号は江戸湾の奥深くに侵入、羽田沖1.3kmに迫った。パクサンズ型の滑腔大砲の有効射程距離は3カイリ(約5.6km、当時の領海範囲)をはるかに超えていた。江戸城も竹芝沖から射程に入る。サスケハナ号に乗艦した中島三郎助(浦賀奉行の与力)は、新型大砲の知識があり、船員に「これはパクサンズ砲ではないのか。射程は・・・」と尋ねている。

 ペリーは国際法に依拠した対応を貫くと述べていたが、彼の江戸湾での行動は、以下に記すように、当時の近代国際法に全く適わないものであった。当時の領海は3カイリ。そして入り口が直線距離で6カイリ(約11.1km)より狭い湾・内海は「内水」と決められていた。「内水」は領海であり、領土と同じ扱いである。江戸湾の入り口、観音崎と富津の間は約7kmなので、江戸湾は「内水」であった。ミシシッピー号が江戸湾の中に侵入した時、中島三郎助は追尾して「内海に乗り入れ候儀は、相成り難し」と抗議している。

 ミシシッピー号が江戸湾に侵入した時の様子(日本の45隻ばかりの番船がペリーの測量船を阻止しようと対峙)は、ベリーに同行した画家ハイネの水彩画に残されている。画家ハイネは記録を残すために派遣された。

 6月6日の第一回の測量船内海侵入によって、幕府は大統領の国書を受領する事を決断した。6月9日、幕府は久里浜で大統領の国書を受け取った。そしてペリーは来年の再来航を予告して中国へ去った。

 ペリーは翌年1月に7隻の艦隊で江戸湾内海の西岸に入り、横浜で日本側との正式交渉を実現した。日本側の全権代表は林復斎であった。通説では、林復斎の外交姿勢は、無知・無能と言われてきたが、著者はそうではなかろうと述べている。ペリー側の論理の「無理」を見事に突いた反論を行なっているからである。林復斎は、ペリー来航前の1850年から林家の当主として対外交渉史料集『通航一覧』の編集を主宰し、ペリー来航直前に完成させていた。著者は、偏見を排して幕府外交を評価する必要があると述べている。

 1854年3月に日米和親条約が締結された。第9条に不平等な片務的最恵国待遇が書かれている。

 ペリー来航時は、阿部正弘が老中首座であった。第1回ペリー来航直後の6月下旬に12代将軍家慶が死去し、家定が継承した。家定は極めて病弱であった。家定は、篤姫が嫁いだ相手である。阿部は、幕臣の人材登用も進め、筒井政憲、川路聖謨、水野忠徳、岩瀬忠震、勝麟太郎ら開明派能吏が起用された。

 ペリー来航計画を知ったロシアは、プチャーチンを遣日全権使節として派遣し、4隻のロシア艦隊が長崎に入港。ペリー来航の凡そ1ヶ月後である。日本とロシアの国境を定める事、通商を始める事、日本の国法を守る事を伝えた。この頃の日ロ関係は良好であった。日ロ交渉はクリミア戦争の勃発により中断。1853年12月にプチャーチンは再来航し、下田で日ロ交渉が再開され、1854年12月に日露和親条約が結ばれた。択捉島とウルップ島の間を国境とし、サハリン島はこれまで通り両国民の混在の地とされた。

 上記のクリミア戦争は、1853年10月にトルコがロシアに宣戦布告した事から始まった。英仏もロシアに敵対して、1854年2月に参戦した。日米和親条約は、その3日後に締結されている。1854年8月、長崎と函館の開港を認めた日英条約を結んだ。

 日ロ交渉が再開された直後の1854年11月、安政大地震が発生し、下田港は大津波に襲われた。ロシアの軍艦ディアナ号は、津波に流される日本人を救助したが、修理のために回航する途中で沈没した。

 アメリカのタウンゼント・ハリスが、日米和親条約の規定に基づいて、1856年に駐日総領事として下田に着任した。ハリスは江戸に赴き、家定と老中堀田正睦を訪問。通商と外交官駐在について2時間に及ぶ大演説を行なった。幕府は、演説内容を詳細に公式記録として書き留め、2日後、江戸城評定所で幕閣と海防掛の全員が対応を巡って評議をしている。慎重派である勘定奉行と、積極派の目付らとの間で意見が対立。勘定奉行たちは、ハリスの演説内容を幕府の持つ外交情報と突き合わせ、2日間で点検して上申した。その中で、ハリスの演説内容に幾つかの偽言がある事を証明している。老中堀田は、積極開国路線でなく、勘定奉行たちの「やむをえず」開国という上申を採用した。

[私(歌島)の補足]
 サスケハナ号に、尾道市(生口島)の農民の倉次郎が乗っていた事が、こちらのサイトに書かれている。

 ペリー来航時の画家ハイネによる水彩画を、以下のサイトで見る事が出来る。
(1)雄松堂サイト
(2)ハイネの残した4枚のスケッチ

こちらのサイトでは、画家ハイネによる「世界周航日本への旅」、「日本遠征のグラフィック・シーン」について書かれている。

[追記(2012年5月6日)] (ロシア軍艦ディアナ号沈没後、ウィキペディアより)
 1854年、ロシア海軍士官時代であったアレクサンドル・モジャイスキーは、プチャーチン提督による開国交渉のロシア艦隊の旗艦ディアナ号に同乗していた。ところが安政東海地震による津波で乗船は大破、修理のため向かった戸田への回航中に嵐に遭い宮島村(現、富士市)沖で沈没してしまった。一行はやむを得ず戸田に滞在し、モジャイスキーの設計の下、帰国のための帆船を建造することになった。
 戸田には宮大工の上田寅吉を初め、数多くの船大工が集められ、モジャイスキーの指導の下、日本初の外洋帆船として建造された船は、プチャーチン提督によりヘダ号と名付けられた。日本の西洋型造船の嚆矢と言われ、複数が建造された同型のスクーナーは、戸田村のある君沢郡にちなみ君沢形(くんたくがた)と呼ばれた。
 戸田村造船郷土史料博物館には日本最古の銀板写真であるモジャイスキーの肖像写真と、彼がディアナ号の船内で製作した模型飛行機の写真が展示されている。
 なお、アレクサンドル・モジャイスキーは、蒸気エンジンを搭載した飛行機を製作し、1884年に飛行実験を試みた事で知られている。これは、(知られている限りでは)フランス人デュ・タンプルの実験に次ぐ史上二番目の有人動力飛行の試みであった。
by utashima | 2012-05-04 21:35 | 読書 | Trackback | Comments(0)

畳裏返し

 我が家は1995年に新築し、今年で17年経った。12年目頃に畳表替えをし、それから約5年後の今日、畳裏返しをした。畳替えをあまり知らなかったので、こちらのサイトで勉強した。

 畳替えには、以下の3つがある。
(1)畳新調
   畳床と畳表の全てを新規に替える事。
(2)畳表替え
   畳表だけを新しいものに取り換える事。
(3)畳裏返し
   畳表を裏返して再び使う事。表が日焼けしていても、裏はまだ青いので使える。

我が家は、新築から数年後に行なうべき畳裏返しをやっていない。新築から12年目頃に畳表替えをした。今回の畳裏返しから5年経つと新築から22年となる。その頃には、畳床が寿命となる可能性があり、次回は畳新調となるかも知れない。
by utashima | 2012-05-01 18:55 | イベント | Trackback | Comments(0)