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銀星囲碁12と互角の勝負に

 昨年12月から『銀星囲碁12』を使い始めた。12月末までの対戦状況を以前の記事に記している。10戦して私が1勝できるかどうか、という状況であった。ソフトの設定は、制限時間15秒とした最強(4段)で、私がいつも白を持っている。

 3月6日から現在までの14戦では、7勝7敗のタイである。今年の1月、2月と勝率0.1程度の対局を続ける間に、自分の欠陥が見えてきた。対戦していると、ソフトが巧い手を打ってきて、こちらが困る状況になると言う事が何度かある。局後にその時の状況を分析する。

 相手が人なら、殆ど負けない相手にそれほど真剣にはなれないと思うが、相手はソフトなので、いつも全力で対戦してくれる。僅か2,3ヶ月で4段の『銀星囲碁12』と互角に対局できるようになるとは、予想していなかった。

 囲碁ソフトは、今後も強くなり続けるであろうが、私もそれに挑戦して棋力を向上させたい。
by utashima | 2012-03-31 23:30 | 囲碁 | Trackback | Comments(0)

NASA 探査機ミッションの3Dサイト2つ

 最近公開された NASA 探査機を対象とした3D表示サイトを2つ紹介します。

(1)Eyes on the Solar System
 私は、これを半年位前に見つけた。月・惑星ミッションを遂行する探査機の出発からの trajectory を3D表示できる。木星に向っている JUNO や、月周回軌道で月重力場の観測を開始した GRAIL などの trajectory を見る事が出来る。太陽系の天体の軌道も眺められる。まだ β 版であり、これからも進化し続けると思われる。

(2)Eyes on the Earth
 こちらは、1週間程度前のNASAニュースで公開を知った。NASA の地球観測衛星の軌道を3D表示できる。それらの衛星の観測データから得られた色々な物理量(大気温度、海面高度、オゾン量、二酸化炭素量など)の Map 表示や年毎の違いなども表示できる。
by utashima | 2012-03-31 13:48 | 宇宙開発トピックス | Trackback | Comments(0)

尾道市東京事務所の3月22日の記事

 尾道市東京事務所ブログのRSSを登録し、毎号読んでいる。今日、3月22日の記事を読んだ。タイトルは、『港築いたお奉行さん~平山角左衛門』である。住吉浜を埋め立て、築港の恩人として知られる第13代尾道町奉行・平山角左衛門の話である。住吉浜は、私が住んでいた向島の「彦の上」地区の対岸付近である。

 その記事の下に、「海事都市尾道」サイトへのリンクがあり、更にその中の『海をめぐる歴史と文化』を読んだ。古代から近代の尾道の歴史が記されている。中世のPDFを読むと、室町時代の1371年に足利氏の縁戚に当たる今川貞世(出家後の名は了俊)が九州へ向けて遠征する道すがらに書き留めた紀行文『道ゆきぶり』の中の以下の一節が紹介されている。
 
「たゞ此むかひたるかたに、よこほれる島山あり。むかし此所をらうじける人、和歌の道にすける心ふかきあまりに、おりたつ田子いりぬる海人までも、歌をなんよませつゝ待てけうじけるより、やがてこの所を歌のしまというとぞ。」

 向かいに見える島は和歌が盛んで、後に「歌の島」と呼ばれる様になったとある。
by utashima | 2012-03-27 15:40 | 歌島姓・尾道 | Trackback | Comments(0)

定年退職慰労会

c0011875_21132443.jpg 3月23日に職場の皆さんが、私の定年退職慰労会を催して下さった。現在の職場の方々だけでなく、20年以上前の部署でお世話になった方々も出席して下さり、とても懐かしく嬉しかった。場の一角は、30年前の職場の再現であった。なお、定年退職と言っても、65歳までの5年間は、JAXAに再雇用して頂く予定です。参加して頂いた皆さん、有難う御座いました。

 自宅に帰って、寄せ書きを読ませて頂いた。その中に、ある若い方の「歌島さんにとって、軌道力学とは何だったのでしょうか。」という文がありました。それを読んで、思わず自分を振り返ってみました。

 軌道力学は、私にとって、生き甲斐だったと思います。学生時代は高速流体力学を勉強しており、軌道力学は素人でした。でも、昭和51年にNASDAの追跡開発室に配属され、田中彰氏広田正夫氏の指導を受けながら軌道の検討を進めて、それが実際の衛星に適用され、予想通りのデータが得られた時の喜びは、何物にも代えがたい物でした。その時から、軌道力学が生き甲斐になったように思います。理論的な検討と実際の衛星運用とが一体となった良い職場でした。特に若い内にこのような経験をしておく事は大切と思います。

 目標100歳までのこれからの40年間、軌道力学を生き甲斐としながらも、幅広い分野に興味を持ち続け、色々なブログ記事を書き続けたいと思います。右の花は、慰労会の最後に頂いたものです。
by utashima | 2012-03-24 10:34 | イベント | Trackback | Comments(2)

『開国と幕末変革(日本の歴史18)』(井上勝生著)の第1章

第1章 「成熟」の進展

 江戸時代初期の17世紀、約100年の間に日本の人口は2倍になった。18世紀に入ると次第に減少し、1780年代、天明の飢饉で最小となり、再び少しずつ増えた。1726年の人口は2654万人、120年後の1846年は2691万人だった。18世紀半ばから19世紀初頭は、地球は小氷期であった。日本では天明の飢饉(1783~1788年)天保の飢饉(1832~1838年)が起きた。最近の説では、18世紀の日本は人口は停滞したが、社会や経済は成熟を迎えたとする見方が有力である。著者もその説に賛成している。

 文化文政期(文化年間1804~1818年と文政年間1818~1830年)の政治は、文政の貨幣改鋳に代表される。これにより流通通貨量は46%増加。以後、幕末期にかけて貨幣の改悪が度々行なわれた。文政貨幣の改悪やそれに次ぐ天保貨幣の改悪について、近年では、簡単に不健全な財政政策とは言えないとの見方に変わりつつある。改鋳益金を得る事で、年貢増徴を抑える事が出来た。この時期の経済は、急増する貨幣を必要とした。

 18世紀を通じて最も商品化が進んだのは、綿・繭(まゆ)・藍・紅花・菜種・楮(こうぞ)など、衣服や油、紙に代表される生活加工品の原料作物である。綿作の肥料として、蝦夷地で漁獲・加工されたニシン肥が必需であった。本州沿岸で鰯(いわし)が乱獲され、干鰯(ほしか)の価格が高騰していたためである。

 戦前の研究者たちは、江戸時代後期の日本の農家が、野蛮な領主の圧政の下にあったと考えていた。それに対し、1950年代、兵庫県の氏田家の経営の変遷が明らかにされた。氏田家は中規模経営から富農に至った農家である。この氏田家に関する経営分析は、江戸後期の百姓の悲惨なイメージを変えた記念碑的研究である。
 氏田家は江戸時代初期は田畑1町歩(約1万㎡)位の中農だったが、1790年代に3町歩の富農に拡大し、明治中期までその状態を維持していた。2町歩以上の自作経営を行ないつつ労働力も雇って収益を上げていた。地主化しないこのような農家を富農と呼んでいる。この時代の天領(幕府領)では、稲作、綿花・菜種の栽培、木綿織りが主であった。年貢の収入全体に占める割合は、15~20%である。総収入の50%前後の収益が発生している。
 一方、イギリスでは、1730年代から90年代に、税率は収入の25%から50%に上がっている。当時のイギリスは、大衆に重税を課す軍事国家であった。

 また、土地を所有せずに借りて、労働力を雇って「富農」経営している事実が、1960年代に発見されている。19世紀の「小作富農」の発見は、江戸後期農村のイメージを変えるもので、研究者に大きな衝撃を与えた。

 この頃、織機はイザリ機(ばた)から高機(たかばた)に変わっていた。高機の導入で生産能率が2~3倍に上がった。イザリ機と高機については、こちらのサイトを参照。

 紡糸と織布の生産能力の不均衡が、産業革命が起爆するきっかけであった。当時の紡糸車は手織機よりもはるかに生産能率の低い装置だった。必要に迫られて発明家が登場し、紡績機は飛躍的な生産能力を有するようになる。この不均衡は日本もイギリスも同じであった。イギリスは18世紀中頃、産業革命により大規模な人口爆発が起きたが、19世紀の日本では起きていない。その違いは、イギリスは強大な海軍力を背景として植民地などに無関税で大量の綿製品を輸出できた事にある。

 日本では19世紀になると、他の地方から綿を買い入れて木綿織り生産を行なう地域が出てくる。そして、綿を売って米を買う農家が増えている。これは、本城正徳氏による、従来の定説を覆す発見である。これまで、日本では米穀市場が未成熟のまま明治維新を迎えたと説明されてきたが、その通説がこのように大きく変えられつつある。
by utashima | 2012-03-20 18:01 | 読書 | Trackback | Comments(0)

携帯電話の無料点検

 今日、ドコモから携帯電話の無料点検サービスのメールが来た。私は、2年前から携帯電話を使用している。全く正常に使えているが、無料というのでドコモ・ショップに出かけた。10分ほど待って番号を呼ばれ、点検して貰った。

 本体は正常で問題なし。ただ、バッテリーの使用可能容量が約半分になっていた。2年使って半分になるというのは、特別異常という訳ではないようだ。携帯電話を2年使うと、新しいバッテリーをサービスしてくれるというので、交換して貰って来た。来た甲斐があった。

 私は、自宅にいる時は、携帯電話は充電スタンドに設置している。つまり常に充電している状態。リチウム・イオン電池にとって、このような使い方は良くないらしい。電気を使い切ってから充電するのが良い。しかし、毎日フル充電の状態で持ち出せるのは安心感がある。よって、多少バッテリーの寿命を縮める事になっても、今までの流儀を通そう。
by utashima | 2012-03-17 17:00 | イベント | Trackback | Comments(0)

『知識ベース』(電子情報通信学会)にて記事公開

 電情報通信学会は、数年前から『知識ベース』を WEB 上に構築している。現時点では、まだ未完成である。私は、11群2編4章(宇宙システム)の第2節(人工衛星のナビゲーション)を執筆した。約1年前から、こちらのサイトに公開されている。既に私のこのブログで紹介していると思っていたが、ブログ内を検索しても見つからない。東日本大震災のために、それどころではなかったのかも知れない。1年遅れで紹介します。

 宇宙ステーションを除く地球周回軌道を飛行する人工衛星のナビゲーションについて,軌道制御を中心に述べた。地球周回軌道の中でも数多く利用されている静止軌道と太陽同期準回帰軌道(極軌道)を取り上げ,ロケットから分離された時点から,ミッションを終えて衛星が廃棄されるまでの全フェーズを,「運用軌道への投入」,「運用軌道の保持」,「軌道離脱」の三つに分けて述べた。

 興味をお持ちの方は、ご覧下さい。
by utashima | 2012-03-16 20:49 | イベント | Trackback | Comments(0)

『開国と幕末変革(日本の歴史18)』(井上勝生著)の序章

序章 人間の静かな大地

 18世紀後半から19世紀の幕末へ辿る日本を、根底から動かしたものは何であったかろうか。序章では視点を北方に取る。

 松前藩が蝦夷地南部を支配していたが、近世の初めには、アイヌ民族の方が松前藩を凌ぐ勢いを持っていた。交易の主導権はアイヌの側にあった。

[シャクシャインの戦い](1669年6月)
 このころの松前藩は財政危機に陥っており、そのためアイヌと公平な交易を行なっておらず、各地で和人の横暴が続いていた。首長の一人シャクシャインの呼びかけに応じ各地のアイヌたちは一斉に蜂起し、和人の商船を襲い、和人を殺害した。はじめはシャクシャイン勢が優勢であったが、松前軍が総反撃に出てからシャクシャイン勢は追い詰められていった。松前軍は偽りの和睦をし、シャクシャインとその一行を偽りの酒宴の中、謀殺した。1669年10月23日(陰暦)のこと。シャクシャイン死亡後、アイヌ軍は衰退し、シャクシャインの戦いはアイヌ側の敗北として終わる。これ以後、松前藩はアイヌに対して一層支配を強くしていく。

 江戸時代後期の社会の成熟を一層進展させたのは経済の上昇であり、それをもたらした要因の一つは、アイヌ民族と和人雇い漁夫が蝦夷地で生産したニシンの魚肥であった。蝦夷地は、千島列島とカラフト島を含めて、アイヌ語でアイヌ・モシリ、「人間の静かな大地」と呼ばれていた。19世紀以前に作られた地図では、サハリン島、千島列島、蝦夷地の姿・形は曖昧であった。サハリンが島なのか半島なのかは、世界の地理学上の最後の謎であった。

 ロシア人がラッコの毛皮などを求めて、千島列島へ南下を始めたのは18世紀前半。そして南千島のウルップ島でアイヌと戦い、北千島に追い返されたのが1771年。
 和人が南千島のクナシリ島へ交易に入るのが18世紀中頃。カラフト島南端に交易と漁業のための運上屋を設置したのは1790年であった。

 1792年、ロシア使節ラクスマンが根室に来航。北方地域に危険と経済的価値を感じた幕府は、最上徳内、近藤重蔵、間宮林蔵らを派遣した。1808年、間宮林蔵らはカラフト西岸を海峡入り口付近まで船と徒歩で踏破し、カラフトが島であることを確信。翌年、カラフトが島であることを確認しようと更に進むが、途中で引き返す。そして、ニオブ族の首長の家に滞在した時、サハリンが島であることをはっきりと教えられた。間宮が作ったカラフト地図は、日本に来ていたシーボルトに渡され、1828年、シーボルトの出航間際にこれが発覚して「シーボルト事件」が起こる。シーボルトは25年後に間宮のカラフト地図などをヨーロッパで公表し、世界地理学上の最後の難問が解決、間宮林蔵の名も不朽のものとなった。

[クナシリ・メナシの戦い]
 1789年、クナシリ島と蝦夷地東岸のメナシで、アイヌ民族が一斉に蜂起する。メナシは、現在の北海道東部の目梨郡羅臼町、標津町辺り。場所請負商人の飛騨屋支配人ら71名が殺害された。

 18世紀後半のこの時期は、環オホーツク海地域へ資本と武力を持ったロシア人と和人が侵入を始めた時代である。ロシアは、1799年に北千島列島、アリューシャン列島、アラスカを統轄する露米会社を設立、少数民族に対する併合政策を開始。江戸幕府は、同じ1799年に、蝦夷地全域の幕府直轄を開始する。

 19世紀前半のアイヌ社会を「悲惨」の枠組みだけで見るのは、アイヌ民族自身の歴史認識とも違っている。アイヌ民族の歴史の劇的な暗転は、明治政府の「官」の手によって土地規則や漁業権からアイヌが排除され、あらゆる大地と海、河川が奪われてから本格的に始まる。
 1997年に施行されたアイヌ新法は、「旧土人」という名称を廃止し、民族文化を認めた点で前進したが、「先住民族」という表現も認めない点において重い課題を残した。一方、同年の二風谷ダム裁判で、札幌地裁は、アイヌ民族を「先住民族に該当する」と明記した画期的な判決を示し、共感を呼んだ。

[二風谷ダム裁判](ウィキペディアより)
 二風谷ダム(にぶたにダム)は北海道沙流郡平取町、一級河川・沙流川本流中流部に建設されたダム。沙流川の治水と日高地域への利水を目的に建設されたが、建設に際し水没予定地に住むアイヌ民族との軋轢がダム建設差し止め訴訟にまで発展、アイヌ民族の先住性を問う契機となったダム事業として知られている。ダム湖は二風谷湖(にぶたにこ)と呼ばれる。
by utashima | 2012-03-10 15:20 | 読書 | Trackback | Comments(0)

『成熟する江戸(日本の歴史17)』(吉田伸之著)の第5章

第5章 江戸の小宇宙

 江戸には、広場・広小路、境内の形で、広大な空間が存在した。広場は町人地の中に防火帯として設定されたものが多く、大きな橋の隣接地(両国橋、江戸橋など)、幕府の公的施設や将軍家の菩提所近辺、大名屋敷の収公地など、多様な形態を持つ。境内とは、有力寺社の本堂・社殿とその周辺空間である。浅草寺、本所回向院、深川八幡社、湯島天神、芝神明社など。これらの空間は、居住は原則として禁止され、「営み」あるいは遊興の場に特化していた。江戸橋広小路=四日市には、かつて四日市町という町があったが、1657年の大火(明暦の大火)の後、江戸橋を火災から防衛し、南方への延焼を阻止するための空間を作るために、四日市町の大半は霊岸島へ移転させられ、その後の空地として生まれた。そこには、様々な営業店舗や娯楽・文化施設、幕府役所、宗教施設などがあった。
 かつての四日市一帯は、現在、兜町にある東京証券取引所の近接地区として、証券会社が集中する日本資本主義の最大の拠点の一つとなっている。

 1771年にベニョフスキーが阿波に漂着し、ロシアが日本に侵攻する恐れがある事を警告する。1778年にはロシア人アンチーピンが蝦夷地に現れ、松前藩に通商を要求する。1792年9月にロシア使節のラクスマンが日本人漂流民の大黒屋光太夫を伴って根室に現れ、通商を求める。1796年にはイギリス人ブロートンが室蘭に来航し近海を測量する。1797年からアメリカ船が長崎に入港し始める。

 こうした状況に対し、幕府は徐々に重い腰を上げて対応する。

 第一に、蝦夷地の直轄地化を行なう。蝦夷地とは、北海道南端の和人居住地域を除く北海道のアイヌ居住地を示す。幕藩体制下の「内国植民地」として存在した。ロシアの南下による緊張発生までは、国境が意識された事は無かった。
 蝦夷地や南千島には飛騨屋などの豪商が進出し、松前藩と組んで蝦夷檜の伐採事業を大規模に展開していた。ロシアの商人は毛皮を求めて蝦夷地に至り、ここで両者の接触が起こった。飛騨屋らによる略奪的な伐採事業に対して、1789年に国後アイヌが反乱を起こす等、蝦夷地の先住民であるアイヌ民族との抗争も激化する。
 こうした状況で、幕府は、蝦夷地の直轄化に乗り出し、1799年には東蝦夷地を、1807年には蝦夷地全体を直轄化する。

 第二は、海防政策。1791年に異国船取扱令を出し、異国船が渡来した時は船や乗員を拘束し幕府の指令を待つよう諸藩に指示した。1792年には林子平に出身藩である仙台への蟄居を命じ、海防を論じる『三国通覧図説』や『海国兵談』などの著作を発禁処分にして弾圧し、世論が形成される事を阻止しようとした。

 18世紀後半には、百姓一揆や村方騒動、都市域の打ち壊しが、未曽有の規模で高揚した。幕府や藩による過酷な支配に、富の再配分における不均等という矛盾が加わって、激しい民衆運動が展開した。1783年から始まる天明大飢饉のさなか、全国的規模で一揆や打ち壊しが続発。1787年5月に発生した全国の都市打ち壊しは、田沼派に引導を渡し、松平定信らによる改革政治をもたらす直接のきっかけとなった。松平定信は、江戸町会所を設立し、大店層を中心とする都市地主の負担により、飢饉や災害時に窮民を救済するための社倉とした。平時においても、資金を運用してその利金を原資として貧民への生活補助を実施した。

 日本歴史における18世紀は、日本固有文化の形質が成熟し結晶した時期と言える。御雇外国人のエドワード・モース(モースは日本では大森貝塚の発見者および縄文式土器の名付け親として知られている)は、東京帝国大学の初代動物学教授として1877年から1882年にかけて、3回にわたり日本に滞在し、当時の日本の民具・工芸品・陶器などを多数収集。また何枚もの写真を撮影した。これらは、米国ボストン郊外のセイラムにあるピーボディ博物館所蔵のモース・コレクションに含まれている。
by utashima | 2012-03-06 15:24 | 読書 | Trackback | Comments(0)