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銀星囲碁12の段級位設定機能

 今年の12月9日から『銀星囲碁12』を使い始めた。4段に設定した対局では、私の勝率はかなり小さかった。では、どの程度の段級位なら、ほぼ互角となるかを知りたいと思い、3段、2段、・・・、5級、6級と設定を変えて対戦してみた。3段、2段、と落して対戦しても、勝率は上がらない。流石に5,6級にすると、十分勝てるようになったが、試合の後半になると、目を取られて危ない場面もあった。とても、6級の力でできる技ではないと感じた。段級位の設定が有効なのは、序盤から中盤にかけて、だけではないかと考えている。対戦してみての印象である。読みの深さは、低位の段級位に設定しても、かなり高レベルと思っている。

 従って、例えば1級に設定しても、人間の1級の人よりは強いと思う。考えてみれば、囲碁ソフトは、棋力を高める事に重点を置いて来ており、例えば1級の人の実力を再現する事は目的ではない。3級程度の人が4段の実力の『銀星囲碁12』を使う時は、3級に設定して対戦するよりは、4段の設定にして5~6目置いて対戦すべきであろう。置き碁を好まない人は、自分の力より少し強い銀星囲碁のバージョンと対戦するのが良いであろう。

 私は、今後は、4段(ソフトの制限時間15秒)と互先で対戦して、鍛えて貰おうと思っている。『銀星囲碁12』に鍛えられたお蔭か、この12月のWWGoでの成績は、4勝0敗であった。

 2011年も今日が最後。紅白歌合戦を見ながら、この記事を書いている。今年は、悲しい思い出が多過ぎた。東日本大震災、原発事故、兄の急死、義父・義母の相次ぐ入院。幸い、義父・義母は退院でき、自宅で新年を迎えられる。
by utashima | 2011-12-31 21:22 | 囲碁 | Trackback | Comments(0)

『天下泰平(日本の歴史16)』(横田冬彦著)の第7章

第7章 開けゆく書物の世界

 江戸時代初期、大坂周辺の村落や町の庄屋・商人クラスでは、数百冊の蔵書を持つ者は珍しくなかった。内容は、儒学書・漢詩文書・医学書・仏教書・軍記物・歴史書・浮世草子・手習書・辞書・料理書など。

 1630年代辺りから出版され始めた整版本(*1)は、17世紀半ばから元禄にかけて大きく発展していく。元禄10年(1697年)頃、大坂に30軒、江戸に16軒の本屋があり、京都の出版を重板するだけでなく、独自の出版活動も行なっていた。出版は行なわないが、販売・取次・小売りを専門にする本屋もあり、行商という形での販売も存在した。行商本屋が月に数回、回村し、販売だけでなく目録での注文にも応じていた。次に回村するまでの貸本も行なっていた。
[(*1)整版本とは]
 1枚の木板に文字を浮彫にして墨を塗り紙を置いて印刷された本。この木板を整版と言う。

 当時の出版界には板権の問題があった。板木が本屋の財産となりつつあったが、重板や類板(*2、3)によって本屋の経営が安定しなかった。元禄12年(1699年)に京都町奉行所は重板類板禁止の町触を出した。本屋仲間からの願い出によって出された。
[(*2)重板・類板とは(by 柏崎順子氏)] 江戸時代の出版業は板株と称する利権によって成り立っていた。板株とはいわゆる版権のことで、一度取得すると、他の出版業による重板・類板を禁じて、無制限に当該書の出版による経済的利益を独占することができた。そのため、出版の発祥地京都の出版業者が、古典など将来的に安定した販売を期待することができる書物の板株を多数所持して、強固な経営基盤を構築することに成功したのに対して、遅れて開業した江戸の出版業者は終始不利な経営を強いられることになった。とりわけ江戸の出版業者を悩ませたのは、類板の認定が板株所有者の恣意に委ねられていることであった。
[(*3)重板・類板とは(江戸時代の著作権より)]
 現在の複製権や出版権と似た「重板」という権利があり、また同じような書物や抜粋版などを出す「類板」という権利もあった。
 大阪の書籍商仲間が重板・類板禁止の取り決めをお上に申し出るのが元禄11年(1698年)で、聞き届けられるのが同年8月22日であるから、近代的な著作権法の始めと言われているイギリスのアン法の1710年よりも早かったことになる。

 この頃、井原西鶴や貝原益軒が活躍した。益軒は筑前福岡藩の藩儒であった。藩儒とは、藩主に仕えた儒学者。1630年12月に生まれ、1714年10月に死去している。益軒は、藩主の参勤交代に従って上洛・参府する事も多く、その時にしばしば本屋の店先を回っている。帰国してからも、江戸や京阪の書肆(しょし)へ書状で注文したり、上洛する藩士に頼んで代銀を届けて貰ったりしている。その頃既に福岡城下や博多にも本屋は存在していたが、専門書はやはり京阪で求める事になったようだ。益軒の蔵書は、数千冊にはなっていたと思われる。その蔵書は、上層知識人たちの地域図書館的役割を果たしていた。益軒の著書は、生涯に60部270余巻に及ぶが、当時、本を出版するには、50部程度の著者入銀分を負担する必要があった。

 元禄10年(1697年)、日本で初めて「農書」が出版された。宮崎安貞の『農業全書』である。農民のための書物が出版された事は、出版史における画期であった。宮崎安貞は1623年の生まれ。安貞は25歳の時、福岡藩に200石で仕えたが、35歳の頃、辞職し、以後40年間、筑前女原(みょうばる)において農事を業とした。『農業全書』が貝原益軒の斡旋により、京都の書肆から刊行されたのは、安貞が75歳で死の床に就いていた時だった。この本は大きな反響を呼び、幕末まで版を重ねた。

 享保期の蔵書目録には、全体の1/3を占める73部338冊の医学書があった。医師も、18世紀半ば過ぎには、数ヵ村に1人位の密度で分布していた。
by utashima | 2011-12-27 14:19 | 読書 | Trackback | Comments(0)

銀星囲碁12と対戦して

 12月9日から『銀星囲碁12』が発売されている。アマチュア4段の力という。私は、『銀星囲碁10』を持っているが、同11は購入を見送っていた。4段という文字を見て挑戦したくなり、購入した。

 ソフトの強さランクを、6級から4段までの任意のものに指定できる。ソフトの思考時間は、15秒、30秒、60秒、無制限の中から設定できる。今の所、4段に設定しての対局のみ実施してみた。思考時間は、全て試みた。その結果を以下に記します。

  (a)4段、無制限での対局結果 1勝13敗
  (b)4段、60秒 での対局結果 0勝 1敗
  (c)4段、30秒 での対局結果 1勝 6敗
  (d)4段、15秒 での対局結果 1勝 5敗
 
 私の実力より、確かにランクが上である。時間無制限でも、大抵は30秒程度で打って来る。15秒にしたからと言って、弱くなる訳ではない。多少は打ち易い感じがあるが、上記のように、1勝5敗である。ソフトと対戦していて、30秒以上の時間を使われると、正直言ってイライラする。つい、横にあるテレビを観たりして、集中できない。しかし、15秒以内で打ってくれると、本当に集中できる。

 (d)の1勝も、実は、ソフトが最後のポカをしなければ、私が1.5目負けていた。ここまで30局弱対戦し、明らかなポカは、これ1つであった。このポカを、以下に示す。
c0011875_2372830.jpg

 右上端に白(私)が当たりした時、継がずに243(黒)と打てば、黒(ソフト)が1.5目勝っている。ところが、ソフトは、当たりに継いでしまった。私が243に白を打ち、黒を取って逆転した。

 このソフトは、厳しい手を打って来るので、私も厳しく応対するが、こちらの読みが悪いと、潰されて投了の羽目になる。何度か、そのようになった。しっかり読んで、最後まで戦っても、数目負ける。1局の間に、何度か感心するような手を打たれる。4段、15秒制限での対局は、私にとって、とても良い師匠になっている。御蔭で、ネット対局の12月の成績は、良い。

 この後は、3段や2段の設定で、対戦してみたいと思っている。
by utashima | 2011-12-25 23:17 | 囲碁 | Trackback | Comments(0)

『科学 2011年10月号』(岩波書店)

 特集「東北地方太平洋沖地震の科学」が掲載されている 『科学』2011年10月号(岩波書店発行)を読んだ。特に興味を惹かれたのが、田中佐千子氏による『月や太陽の引力が地震の引き金に』と、日置幸介氏による『超高層大気は巨大地震の発生を知っていたか?』という記事である。


『月や太陽の引力が地震の引き金に』
 東日本大震災(2011年4月1日の持ち回り閣議で3月11日の地震による震災の名称を「東日本大震災」とすることを了解、これ以降メディアなどにおいても「東日本大震災」の名称に統一された)後も度々大きな余震が発生し、約1ヶ月の周期で余震が活発になっている印象を持っていた。田中氏の記事によると、東日本大地震の震央をほぼ中心とする200km×200kmの領域の1970年代から現在までの地震の発生時刻と地球潮汐の相関が、2000年頃から高くなっている。著者は、「巨大地震の発生が近づくと、地球内部に歪が十分に溜まった状態になり、地球潮汐の僅かな力が引き金となって地震が発生すると考えられる。」と記している。

『超高層大気は巨大地震の発生を知っていたか?』
 東日本大地震の直前にGPSによって見出された超高層大気(電離圏)の異常について紹介されている。GPS衛星から送信されたマイクロ波は、電離圏通過時に電子による僅かな遅延を受ける。この遅延量を測れば、衛星と受信機を結ぶ視線上にある電子の総数(TEC, Total Electron Content)が分かる。
 公開されている国土地理院GPS連続観測網のデータを使い、東日本大地震の前後のTEC変化を調べている。それによると、大地震発生の60~40分前にTECの正の異常が始まり、地震の約10分後に消えている。地震の約10分後には、地震時電離圏変動と呼ばれるTECのノイズのような変動が発生して暫く続く。これは、地震による地面や海面の上下運動によって生じた音波が電離圏に達して電子の粗密を作ったもの。
 他のM9クラスの地震でもこの現象が見つかっている。しかし、M8クラスでは、地震前のTEC異常は確認できないと言う。著者は、このTEC異常は、M9クラスの巨大地震でようやく見える前兆ではないかと考えている。
by utashima | 2011-12-19 10:40 | 読書 | Trackback | Comments(4)

NASA火星探査機が遷移軌道8ヶ月間の放射線測定

 2011年12月13日のJPLからのNASAニュース 『NASA Mars-Bound Rover Begins Research in Space』で、今年11月26日に打ち上げられ火星に向かっている火星ローバーCuriosityが、火星までの8ヶ月間の宇宙機内の放射線測定を開始した事を知った。2012年8月に火星に着陸した後も、放射線の測定を続ける。

 今までの探査機では、探査機の表面かその近くで計測していた。今回は、将来の有人火星探査に備えて、宇宙船内部に居住する人間にどの程度の放射線被曝があるかを正確に見積もるようだ。先日国際宇宙ステーション(ISS)から帰還した古川宇宙飛行士は、地球周回軌道に約5.5ヵ月滞在したが、その間に地上の人間の100年分の放射線を浴びたと言われている。ISS はシールドの役目も持つ地球磁気圏内を飛行しているが、火星飛行ではシールドのない宇宙空間に長期間滞在する事になり、宇宙飛行士にどの程度の放射線が降り注ぐのか気になる所である。

[補足]
 上記の JPL サイトは、以前から Internet Explorer ではうまく動作しない事が多かった。今回も、画面がなかなか切り替わらない。私が使っているブラウザは、Lunascape 6.5.8であるが、これは、Trident(IEエンジン), Gecko(Firefoxのエンジン), Webkit(Google Chromeのエンジン) という3つのエンジンをタブ毎に切り換えて使う事ができる。Trident をデフォルトのエンジンに設定している。そこで、JPL サイトだけ Geckoエンジンに替えると、正常に表示されるようになった。
by utashima | 2011-12-14 12:33 | 宇宙開発トピックス | Trackback | Comments(0)

玄関に手摺を設置

c0011875_11393080.jpg 今日、我が家の玄関に手摺を設置して貰った。手摺を設置する事にしたのは、足の悪い義母が退院したからである。

 義母は9月17日に救急車で運ばれ、入院した。約2ヶ月半の入院の後、12月2日に退院した。入院の直接の原因は高血糖症であったが、高齢(80歳)のため、他にも色々病気を抱えている。以前から膝が悪く、退院後も普通に歩く事は難しい。室内も車椅子で移動する事が多い。

 我が家の玄関の外には2段の階段があり、足元の覚束無い高齢者には危険なので、写真のように手摺を設置して貰った。まだコンクリートが固まっていないので、触らないように張り紙を付けている。義母だけでなく、義父も足が弱くなっており、いずれ私もこの手摺のお世話になるだろう。
by utashima | 2011-12-14 11:54 | イベント | Trackback | Comments(0)

『天下泰平(日本の歴史16)』(横田冬彦著)の第6章

第6章 文治政治の陰翳(いんえい)

 1651年4月20日、三代将軍家光は48歳で病没した。後継者の家綱はまだ11歳。老中の阿部重次と側近の堀田正盛が殉死した。残った老中達による集団指導体制となった。
 1651年7月、由比正雪ら牢人の反乱計画が露見し、江戸で丸橋忠弥らが逮捕され、正雪は駿府で包囲されて自殺、大坂では金井半兵衛も8月に自殺した。これを慶安事件という。計画では、江戸城を占拠し、正雪は久能山に立て籠もる予定だった。正雪の遺書に「天下の制法が無道で、上下の者が困窮している。大老の酒井忠勝らを追放させるために籠城する」と書かれていた。
 ウィキペディアには、「この頃、幕府では3代将軍徳川家光の下で厳しい武断政治が行なわれていた。関ヶ原の戦いや大坂の陣以来、多数の大名が減封・改易されたことにより、浪人の数が激増しており、再仕官の道も厳しく、巷には多くの浪人があふれていた。そうした浪人の一部には、自分たちを浪人の身に追い込んだ「御政道」(幕府の政治)に対して批判的な考えを持つ者も多く、また生活苦から盗賊や追剥に身を落とす者も存在しており、これが大きな社会不安に繋がっていた。正雪はそうした浪人の支持を集めた。」と書かれている。

 更にウィキペディアによると、「武断政治というのは、武力を背景にして行われる専制的な政治のこと。主に江戸幕府初期の、徳川家康から徳川家光までが行なった政治姿勢を指す。家光の時代には、取り潰される藩も多く、浪人が増え、社会問題化した。慶安事件などを機に、4代将軍徳川家綱が、文治政治への転換をすすめた。」とある。

 1651年12月、末期養子の禁が緩和された。大名の相続はあらかじめ嗣子が届けられていなければならず、末期つまり死の直前に養子を定める事は認められていなかった。この無嗣子による改易が大名改易全体の4割を占めていた。そのため、藩主が50歳以下で、養子が筋目正しい場合は、末期でも認める事にした。この措置は、改易の減少によって、牢人の発生を防ぐ意味があった。

 1659年、19歳で元服した家綱は、明暦大火(1657年)後に再建された本丸殿舎に入った。1665年、証人制が廃止された。証人制は、御三家・家門三家・10万石以上を中心とする有力大名29家において、その家老や有力家臣の実子惣領等を江戸に置かせる制度。大名の領国統治が未熟な段階で、大名が安心して領国を離れて江戸に集住できるように、国元における有力家臣の人質を幕府が確保したもの。

 1680年5月、家綱は40歳で病没した。家綱には子が無く、末弟で35歳の館林(群馬県)藩主綱吉が養子として跡を継いだ。綱吉にとって、予期せざる将軍就任であった。綱吉の「御代始」の改易は、越後騒動に関係したものだった。これは、越後高田藩26万石の御家騒動。藩主松平光長の嫡子が1674年に死んだ事から起きた後継をめぐる争い。綱吉は、争いの両者を切腹・流罪とし、光長も領地没収、伊予松山配流となった。

 綱吉は、新しい老中の堀田正俊に代官の綱紀粛正を指示した。堀田正俊は、代官職務規定を出し、「民は国の本也、御代官の面々常に民の辛苦を良く察し、飢寒等の愁これなき様申し付けらるべき事」などと、代官の心構えを説いた。綱吉の「仁政」宣言である。綱吉政権期の29年間に幕府代官のほぼ半数にあたる34人が粛清されている。

 1684年8月、大老の堀田正俊は江戸城内で若年寄の稲葉正休に刺殺され、正休もその場で殺された。私怨と言われるが真相は謎である。以後、綱吉は大老を置かず、館林藩時代からの側衆の牧野成貞を1681年から側用人に取り立てた。綱吉は側用人を通じて老中合議などの外から統御する方式を取った。柳沢吉保の場合は、1688年に側用人となり、老中にはならず1706年に大老格となっている。

 綱吉政権期の評価を左右しているのが、生類憐み令であろう。「犬公方」といわれる言葉からも犬愛護令が良く知られているが、塚本学氏によると、捨牛馬禁止令、捨子禁止令、飲酒・造酒統制令、鳥獣保護令、鷹狩停止など、より包括的な政策であった。1687年からこれらの法令が次々と出される。1694年戌年に犬に関わる触を頻発、翌年から四谷や中野の犬小屋への4万匹を超える大規模な収容が始まる。NHKテレビの「ブラタモリ」でも中野の大規模な犬小屋の話が登場。

 生類憐み令とほぼ並行して、服忌令(ぶっきりょう)が出された。服忌令とは、親類・縁者が死没した際、喪に服する期間などを定めた法令。『服』は喪に服すること、『忌』は期間を指さし、『忌』の期間には出仕を控え、魚肉を避け、髭や髪を剃らず、神仏の参詣をやめるなどした。1684年に最初に制定され、数回にわたり改定された。実の父母が死亡した場合、忌引は50日、服喪は13ヶ月となる。親疎関係に応じて忌3日、喪7日まで、6段階に整理された。

 1709年に綱吉が死んだ後、綱吉の遺言にも拘らず、幕府は犬愛護令や鳥獣保護令などを撤廃した。寛永飢饉から断続的に続いた天候不順も、綱吉が将軍になった1680年頃を境に落ち着き始め、庶民レベルでも経済的余力を生み出し始めた。
by utashima | 2011-12-13 22:04 | 読書 | Trackback | Comments(0)

『ボーイング787 vs. エアバスA380』(ブルーバックス)

 久し振りに飛行機の本を買って読んだ。『ボーイング787 vs. エアバスA380』(ブルーバックス)である。航空工学科の学生だった頃は、当時の殆どの戦闘機や旅客機を知っていたが、20年位前から、それらに対する興味がなくなっていた。エアバスはどのようなシリーズを開発して来たのか、ボーイングの最近のシリーズはどんな特徴があるのか等は、殆ど知らない。ただ、戦闘機のF-35がどうなるかは、気になっている。

 そのような中、ボーイング787が登場し、少し興味を持った。それで、表記の本を読んでみた。この本を読んで知った事を幾つか記す。

(1)「787」は、2003年頃に付けられた「7E7」のままで良いのではという意見がボーイング社内で少なくなかった。中国が「787」に変更するよう強く求めたようだ。8は中国でも縁起が良いので。

(2)「787」では、胴体のほぼ全体、主翼と尾翼のボックスなど、機体フレーム構造の約50%に複合材料が使われている。複合材料を大量に使う事で得られる利点は以下の通り。
  ・客室が快適になる。
  ・疲労、腐食に対する耐久性が向上する。
  ・重量の軽減により燃料消費が低減する。
  ・組立工程時間が削減される。
 最初の「客室が快適になる」は何故か。巡航飛行中の客室内気圧を高くできる事と、客室内の湿度をあげる事ができる事が理由である。これまでの旅客機は、内部を8000ft(2438m)の気圧にしている。金属製の胴体ではこれが限界らしい。複合材料の強度が大きいので、より高い気圧にでき、「787」では6000ftの気圧にしている。
 湿度を上げられるのは、複合材料が腐食に強いからである。通常の旅客機では6~8%(0%の事も)の湿度であるが、「787」では12~15%の湿度である。私は喉が弱いため、飛行機に乗って外国に行くと、喉を傷めて風邪をひく事もあった。15%でもまだ低いので、マスクをした方が良いかも知れない。

 「787」のエンジンは、GE製とロールスロイス製とから選べる。ロールスロイス製のエンジンは、トレント1000。3軸構成である。私が学生の頃に就航したロッキード トライスターのRB211も3軸であった。その技術を改良して、今も3軸エンジンが使われている。GE製は2軸である。2軸と3軸には、それぞれ長所短所があるが、どちらかに淘汰される事なく、それぞれの方式を生産し続けているのは、ちょっと不思議な思いである。
by utashima | 2011-12-03 23:48 | 読書 | Trackback | Comments(0)

『天下泰平(日本の歴史16)』(横田冬彦著)の第5章

第5章 都市社会の成立

 家康によって勧請された江戸の産土社(うぶすなしゃ)である山王社の祭礼は、江戸城の内に入って将軍上覧を得る「天下泰平、御武運長久」の祭として、「天下祭」と呼ばれた。この祭礼は、1635年以来、隔年の6月15日に行なわれ、1643年6月、家光は初めて家綱(1641年8月誕生)と共に上覧した。祭礼に先立つ5月、家光は祭具新調のため銀1000枚を山王社に下賜している。しかし、当時は寛永飢饉の最中であり、日本橋には飢民があふれていた。その日、祭礼を見物した林羅山は、「山王祭ヲ見ル」という詩文の中で、祭は政治のあり方の基本であるとして、家光に対する厳しい批判を行なっている。林羅山は、家康から家綱まで四代の将軍に仕えた。

 1590年、家康が関東入国した時の江戸は、かつて太田道灌が築城し、後北条時代(鎌倉幕府の執権をつとめた北条氏の後裔ではないことから、後を付けて区別される)には小田原の支城として城館があったが、土塁だけの、板葺・茅葺の粗末なものであった。江戸城の本格的な工事は、家康が将軍となった1603年から始まる。工事は以下の3つの時期に分けられる。
  第一期:1603年~1614年(大坂の陣が始まる)。家康に依る。
  第二期:1620年~1624年、1629年。秀忠に依る。
  第三期:1636年。家光による外郭工事。
 第一期では、神田山を切り崩して日比谷入江を埋め立てるという大規模な自然改造を行なっている。家康は、起伏のある丘陵地帯を削平し幾つもの谷を埋めて造成した大坂城三の丸工事を見ており、秀吉の都市造りの影響を受けていると思われる。
 第二期は、小規模に留まった。この時期、大坂城の普請が大々的に行なわれた。1619年に大坂城を幕府直轄としており、豊臣期を超える大規模な城郭として再生し、西国外様大名に対する押さえとした。
 第三期では、町人や一般家臣団も石垣と枡形門で囲う「惣構え」が完成。
 しかし、島原の乱と寛永飢饉により、「際限なき普請役」は破綻する。

 1657年に江戸に大火が発生し、江戸城本丸を含む大名屋敷、町屋が焼き尽くされ、死者は3万7000人を超えた。大火後、天守は再建されず21大名が動員されただけで、大規模な公儀普請は行なわれていない。かなりの大名屋敷が郭外へ移転させられた。その跡地は、江戸城を守るべき防火帯として残された。「惣構え」に守られた都市という建前も放棄された。元禄期には町方人口が50万人を超え、武家人口も合わせて百万都市になる。当時のロンドン、パリの人口が50万人であり、江戸は世界一の巨大都市であった。

 1601年、伊達正宗は家康に、諸大名の妻子を全て江戸に集め、箱根・足柄に番を付ければ「広き籠」と同じになり、「天下末代の御為」になると進言。家康から江戸桜田に屋敷地を拝領し、1602~1603年に率先して江戸屋敷に移った。1634年8月に、譜代大名も妻子移住が制度化された。
 全国的には自由通行を原則としたが、箱根など江戸の周囲にだけは、関所が置かれていた。1631年からは女と手負いの者は関所や舟場を手形なくして通してはならないとされた。

 「京の着だほれ、大坂の喰いだほれ、江戸の呑だほれ」、「京の八百八寺、大坂八百八橋、大江戸八百八町」などと言われる。江戸時代の首都は「三都」と言われる。1636年に江戸と近江坂本で寛永通宝の鋳造が始まった。

 1620年頃に出された板倉21ヶ条(京都所司代第2代の板倉周防守重宗の名において布告された)により印判が奨励され、17世紀の半ばを過ぎると基本的に全て印判になる。欧米型のサイン(花押)社会から今日のはんこ社会に変わった起点は、ここにある。
by utashima | 2011-12-03 14:34 | 読書 | Trackback | Comments(0)