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震災による自宅損傷の修復完了

 2011年11月29日、東日本大震災による自宅損傷の修復を終えた。と言っても、修復費用10万円余りの軽微な損傷であったが。11月29日9時から4名の工事関係の人が来て下さり、15時過ぎまでに、修復を完了して頂いた。

 2011年3月11日、東日本大震災の日の夕方、17時頃に帰宅した。帰路の信号機の半数程度は消えていた。家に着いて玄関の外灯が点いているのを見て、ホッとした。しかし、玄関の扉を開けると、悲惨な状況が飛び込んできた。更に進んで、リビングとダイニングに入ったが、食器、書籍などが飛び出して部屋中に散らばり、液晶テレビも倒れていた。足の踏み場がなく、ガラスの破片もあって不用意に裸足で入るのは危険な状態だった。何をどうしたらよいか、茫然自失。家内の両親は怪我もなく無事だった。

 義父と共に、リビングに座る場所を確保するために、少しずつ片付けを開始した。家内と娘は、埼玉県越谷市に出かけていたが、無事に夜遅く帰って来た。弘前大学に進んでいた次男は、春休みを筑波で過ごすために、3月11日の昼に車で筑波に向けて出発していた。途中で大地震に遭い、高速道路が使えなくなり、一般道に降りて、通行止めを避けながら、深夜に筑波に帰って来た。彼の車にはカーナビが無く、かなり苦労したようだ。大震災後の片付けに、次男の力は大きな助けになった。感謝している。家族全員、無事だったのは、何よりであった。

 この付近の震度は、6弱であった。この家は、今まで震度5までは問題なく耐えていた。震度6弱により、階段の両側の内壁の接合部が破損していた。家具が倒れた部屋では、家具が倒れる時に内壁に穴を開けていた。暫くしてへーベルハウスから被害の調査に来られ、修復工事の予定・見積もりを聞いた。我が家は、軽微な被害だったので、修復工事は最後にして貰った。今後、震度6以上の余震が来ない事を願っている。
by utashima | 2011-11-29 17:13 | イベント | Trackback | Comments(2)

『天下泰平(日本の歴史16)』(横田冬彦著)の第4章

第4章 村落社会と知

 飢饉がほぼ一段落した1644年3月、幕府勘定頭は各代官に幕領農村の調査を命じた。調査項目は、旱魃・水害などの飢饉の被害状況、百姓夫役の種類と実態、一軒毎の石高・家族構成・家屋の状況などであった。「家数人数万改帳」と言われる。年貢も夫役も対象とならない無高の水呑百姓や、老人・赤ん坊・下人・下女の一人一人に至るまで家族構成を書き上げさせる「人数帳」であった。飢饉の実態究明・対策立案を目的として行なわれた。このような住民全てを対象とする人数帳は古代の戸籍編成以来の事。

 当時の農家の間取りは、食事場、寝間、居間、客間の4つの部屋が田の字型に配置されたものだった。四つ間取りと言われる。これに、土間が付いていて、その一部に竈(かまど)が設けられている。

----------- 私の記憶 ---------------

 私の母の生家は、広島県 福山市 沼隈町 常石(つねいし)にあった。小学校低学年の頃までは、夏休みに家族で出かけた。今行くなら車で、尾道・松永を経由して行くが、当時は我が家にも車はなく、尾道港から船で行った。小さい頃は、常石は瀬戸内海の島にあると思っていた。常石の港に着くと、歩いて山道を登る。暫く行くと、右側に比較的大きな池が2つほど隣接していたと思う。池を過ぎると、左側に祖父母の農家があった。下図のような間取りだったと思う。正に上記の四つ間取りであった。
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 河内国碓井村に住む夫婦と子供5人の善次郎家の例が記されている。石高は6石1斗。この頃、成人1人当たりの耕作面積は3石余り。この家は夫婦だけで耕作できた。長男が15歳位になって働けるようになると、労働力は3人となり、約10石を耕作できる。年貢率を五公五民とすると5石が家族に残る。この家族は7人であるが小さい子が多いので生活して行けよう。現実には6石余りの土地しか持っていないため、4石ほどは小作地を借りる事になる。小作地は、年貢の他に小作料も出さねばならず、かなり苦しくなる。このぎりぎりの状態で旱魃や水害に遭うと、やりくりが破綻し、借金をするか子供を売る事になる。親子代々が下人の場合、「譜代下人」と呼ばれるが、主家の意向次第で自由に身柄を処分され売買される奴隷的存在であった。

 善次郎家は何とか自立している小百姓であるが、無高の水呑や1石以下で小作地を借りないと生活できない小作層、更に家も持たない借家層があった。

------------ 米の単位 ---------

 1石=10斗  1斗=10升  1升=10合  1合=0.18039㍑
 1石=1000合(当時1年間に1人が消費する米の量)
 1俵は60kgであり、約4斗に相当。1人の4.8ヶ月分。

 1反は1年分(1石)、1坪は1日分(3合)の米を生産する広さ。
 1反=300坪  1坪=1間×1間  1間は畳の長辺の長さ。
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 太閤検地は、単なる土地調査ではなく、奴婢売買の禁止、平百姓の使役禁止、小作料収取の禁止、直接耕作者を土地所有者として登録する事など、小農民自立政策であった。しかし、現実には、寛永期の農村に、譜代下人を持つ大百姓が存在し、譜代下人の売買や小作料収取が行なわれていた。

 兵農分離した村の支配には文書行政が不可欠であった。村の中でそれを担い年貢徴収の実務にあたったのが、庄屋・名主であった。名主は東国での呼称であり、上方・西国では庄屋という。幕領農村に出された飢饉対策法令には、村落事務公開令とでも言うべき条項があった。諸帳簿を整備し、それを小百姓にも公開・確認させる事で、庄屋による小百姓への「非分」や不正を防止しようとするものであった。当時、現実に様々な争論があり、その実態を踏まえて法令が出された。百姓の運動が法律を生み出し、代官や手代たちのあり方を変えさせた。

 岡山藩の池田光政は1654年の藩政改革で、「諫箱(いさめばこ)」を設け、家老から末々に至るまで匿名で投書する制度を設けている。目安箱はふつう享保改革で将軍吉宗が設置したものとされているが、既にこの頃から見られる。
by utashima | 2011-11-19 22:53 | 読書 | Trackback | Comments(0)

『天下泰平(日本の歴史16)』(横田冬彦著)の第3章

第3章 寛永飢饉

 1640年6月の蝦夷駒ケ岳の噴火の降灰により、津軽で大凶作。1641年には全国各地で異常気象が発生。島原の乱が終息した1638年の夏頃から九州一帯でおこった牛の疫病による大量死が、1640年には中国地方、近畿地方に広がっていた。1642年2月、大老酒井忠勝は国許の家老たちから驚愕する連絡を受けた。前年末から大雪が降り、村々の百姓達が10人、20人と飢餓に及ぶほど切迫した状況であると。他の大名たちにも国許から飢饉の情報が上がって来る。
 1642年5月、家光は次々と対策を打ち出し(倹約、煙草の作付禁止、身売りの禁止、酒造統制、雑穀を用いるうどん・切麦・そうめん・饅頭・南蛮菓子・そばきりの製造販売禁止、御救小屋の設置など)、諸大名には交替で帰国して飢餓対策に当たるよう指示が出された。幕府も藩も、それまでの軍事を中心においた体制から、撫民仕置つまり民政を基本に組み込んだ政治の仕組みへと大きく転換していく。(今回の東日本大震災と原発事故を契機に、より良い社会の実現に向かう事を祈る)

 この頃、関東方の年貢の半分余が収納されていた浅草蔵で大規模な不正事件が発覚。浅草蔵奉行不正事件である。死罪65人におよぶ大疑獄事件であった。不正により浅草蔵には米は無い事が判明。軍事用の兵糧米として備蓄された筈の米が無く、救米として蔵米を安く放出するための米のない事が、将軍家光を激怒させた。

 大坂で大坂城内の蔵米の放出が行なわれた事が、長崎オランダ商館長ヤン・ファン・エルセラックの日記に記されている。土木事業を行なう事で扶持米が支給された。京都でも洛中貧民救済の公共事業が行なわれた。

----マウンダー極小期(ウィキペディア)より----
 マウンダー極小期(Maunder Minimum)とはおおよそ1645年から1715年の太陽黒点数が著しく減少した期間の名称で、太陽天文学の研究者で黒点現象の消失について過去の記録を研究したエドワード・マウンダーの名前に因む。
 この時期のヨーロッパ、北米大陸、その他の温帯地域において冬は著しい酷寒に震え、暦の上では夏至であっても夏らしさが訪れない年が続いた。以下のグラフは、過去400年間の黒点数の変化を示す。
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 17世紀から18世紀の小氷期の頃、冬になるとテムズ川は頻繁に凍結した。1607年には最初のフロスト・フェアーがあり、凍りついた川の上にテントが並べられ、ボウリングやアイススケートなど様々な娯楽が提供された。冬の平均気温が上昇し、1814年からは二度と川が氷結することはなくなった。
by utashima | 2011-11-08 12:36 | 読書 | Trackback | Comments(0)