「ほっ」と。キャンペーン

<   2011年 09月 ( 5 )   > この月の画像一覧

『天下泰平(日本の歴史16)』(横田冬彦著)の第1章

第1章 乱世の終焉

 1615年5月、大坂の陣によって豊臣氏が滅んで雌雄が決した。凱旋後最初に出された政策が、6月13日の一国一城令であった。これは、大名の居城以外の全ての城の破却を申し渡したものであり、西国の外様大名を対象としたものと見られている。その後に制定される武家諸法度によってそれが全国に及ぼされると共に、居城の修理も届が必要となり、居城の内部構造を明記した城絵図の提出も求められた。一国一城令から1ヶ月後の1615年7月7日、伏見城に諸大名が集められ、秀忠付年寄本多正信から武家諸法度の発布が伝えられた。

 7月17日には、家康のいる二条城にて、禁中並公家諸法度17ヶ条が読み上げられ、関係者により署名された。そして改定される事なく幕末まで効力を持った。これは、日本の歴史上初めて、天皇の行為を法的に規定した法度である。7月24日には、諸宗寺院法度が出された。

 京都での諸法度の交付を済ませて、1615年8月4日、家康は二条城を出て駿府に帰った。1616年正月21日、家康は鷹狩に出た先で倒れた。一旦回復して駿府に戻るが、その後も病状は一進一退。4月17日朝、家康は75歳の生涯を閉じた。遺骸は遺言に従って久能山に移された。しかし、1年後、天海は家康の遺言とは違って遺骸を日光に運ばせた。

 家康の生存中は、「出頭人」と呼ばれる人たちが大きな権限を与えられていた。出頭人は、家康との人格的関係において取り立てられていた。金地院崇伝、林羅山、中井正清、ウイリアム・アダムス(三浦按針)など。

 秀忠は1605年に将軍職と江戸城本丸を譲られていた。しかし、家康の後ろ盾を失い、自らが天下人である事の実力を世に示さねばならなかった。

 豊臣秀吉の政権は、秀吉子飼いの家臣団・大名の豊臣「家中」と、豊臣家よりもはるかに伝統を持つ家格の外様大名たちとの二重構造になっていた。このようになった直接的な要因は、1584年、秀吉が小牧・長久手の戦いで家康に敗れ、軍事力による完全な全国征服戦略の見直しを余儀なくされ、代わりに関白になり天皇の権威を利用する戦略に転換した事である。その新たな戦略の基本となったのが、「惣無事」令である。これは、「天下静謐(せいひつ)」こそが「叡慮(天皇の意思)」であるとして、全国の大名に対して紛争の停止を命じたもの。諸大名は「惣無事」令を受け入れる事で、自己の軍団を解体させる事なく秀吉政権に服属・参加する事が可能になった。こうして、豊臣政権の中に、譜代の豊臣「家中」と「公儀」の名の下に結集した外様大名という2つの要素がはらまれる事になった。

 関ヶ原の戦と大坂の陣で豊臣家を完全に滅ぼした家康であるが、豊臣政権と同様の課題を抱えた。関ヶ原の戦が、徳川譜代の主力を率いた秀忠の遅参により、家康に率いられた福島正則ら豊臣系有力大名を主力に戦われた事、戦後の論功行賞で彼らが加増されて西国全体に定着し、大坂の陣でもそのまま残された事で、徳川政権においても旧豊臣系大名が新たな外様大名勢力として穏然とした力を持って残った。

 秀忠が将軍職を継いだ頃から江戸に諸大名の屋敷が建設され始めた。秀忠は、これらの外様大名の屋敷への御成りを重ね、彼らと直接対面して太刀・馬などを贈る事で、人格的な主従関係を構築していった。

 1617年6月、秀忠は東国諸大名を引き連れて上洛。西国大名も秀忠に合わせて上洛した。この時、播磨姫路城の城主池田光政が因幡鳥取に転封された。播磨には本多忠政が入った。これで譜代の最西端が播磨にまで達した。

 1619年の上洛では、旧豊臣系有力大名の広島城主福島正則が改易された。正則が許可を得ずに広島城の普請をしている事が分かったため。紀伊和歌山の浅野長晟(ながあきら)が安芸広島に移され、空いた紀伊に徳川頼宣(家康の十男)が入り、尾張・水戸と合わせて御三家が確定。大和郡山の水野勝成が備後福山に入り、譜代大名の前線は播磨から備後へと進んだ。

1622年10月、秀忠は家康以来の年寄衆本多正純(本多正信の長男)を改易した。秀忠との関係が上手く行っていなかった事が主な要因だった。正純はその後秋田佐竹氏に預けられて13年間幽閉され、73歳で横手にて没した。1622年4月、家康七回忌法要のため日光へ社参した秀忠を、宇都宮藩主本多正純が、宿泊所に「釣天井」なる仕掛けをして秀忠の暗殺を謀ったという説があった。他にも、秀忠が江戸城内で「毒のご用心」を厳しくしたこと等もあり、そうした警戒を必要とする情報があったのは事実であろう。

 越前福井68万石の松平忠直の不参改易問題も1622年頃にあった。忠直は秀忠の兄結城秀康の子である。忠直は秀忠の三女勝姫を正室とした。忠直は1621年頃から、江戸参勤のために福井から関ヶ原辺りまで出て来ては病気のために引き返すという事が続いていた。1623年5月、忠直は豊後萩原へ配流となった。

 1623年、家光が将軍宣下を受ける。1632年1月、秀忠が54歳で没し、家光の将軍親政が始まる。同年5月、肥後熊本52万石の加藤忠広が改易された。理由は、江戸屋敷にいた嫡男光広が、土井利勝が謀反を企てているとの密書を回したというもの。利勝には何の処分もなかった。加藤氏の後には徳川氏に忠実な細川忠利が豊前小倉から54万石で入った。10月には、家光の弟の徳川忠長の領地没収と高崎への逼塞が告げられた。忠長は母崇源院(江)に溺愛され、一時は徳川宗家を継ぐのではないかとも言われたが、家康の裁断で兄の家光に決した経緯がある。1632年頃、忠長は駿府城を与えられ「御三家」と同格で扱われていた。しかし、1631年2月頃から、側近を「御手討ち」にする等異常な行動が目立つようになる。駿府では「辻斬」も行なっていた。秀忠は忠長を勘当。秀忠の死後、1633年12月、忠長は高崎で自害させられる。これは、家光の病状(最後を参照)が悪化した事で、万一の場合を懸念したためと言われる。

 1620年6月、秀忠の娘、和子が後水尾天皇の女御として入内する。1623年12月、前関白の娘孝子が、家光の正室として江戸に下る。以後、歴代将軍は、全て宮家ないし摂関家から正室を迎える事になる。1629年9月、後水尾天皇が譲位し、奈良時代以来859年振りの女帝、明正天皇(めいしょう)が即位した。和子の娘である。

 1634年、家光親政の「御代替の御上洛」が行なわれた。この上洛に供奉した大名勢は30万人以上。武家集団を統合するための上洛はこれで終わり、4代将軍家綱以降は、将軍宣下も江戸城で受ける事になる。幕末の将軍家茂まで将軍上洛はない。

 1635年6月、武家諸法度が改定された。主な改正点は、どこで何が起こっても、在国の大名は軍団を出動させてはならず、幕府の下知を待つべきとした事、曖昧であった大名身分を1万石以上と規定した事など。「公儀」の範囲は、諸大名の連合体とされた。しかし、その運営機構は譜代大名と近習・物頭で独占されており、二重構造となっていた。

[家光の病状]
 家光は、過度の飲酒による鬱病となり、1633年後半と1637年は殆ど表向きに出られない日が続いた。
by utashima | 2011-09-29 21:48 | 読書 | Trackback | Comments(0)

『織豊政権と江戸幕府(日本の歴史15)』(池上裕子著)の第9章

第9章 江戸幕府の成立

 朝鮮・明征服策を秀吉の意向に忠実に推進したのは、吏僚派といわれる奉行たちであり、その筆頭が石田三成であった。第一次出兵時から三成と出陣武将の間には対立があったが、第二次出兵の蔚山(ウルサン)籠城戦を機にその対立は決定的に。そして、1599年3月の前田利家の死を機に、ふき出した。福島正則・藤堂高虎・黒田長政・加藤清正・浅野幸長ら7人が三成襲撃を大坂で決起。これを察知した三成は、佐竹義宣に同道して貰って大阪を離れ、伏見城内の自分の屋敷に入った。笠谷和比古氏によれば、逃げ込んだのは通説のような家康の屋敷ではなく、三成自身の屋敷という。七将も伏見まで来たが、家康が調停して7将をなだめ、三成を佐和山城へ送り出した。家康に決定的に有利な状況が生まれた。

 その後、上杉景勝・前田利長・毛利輝元・宇喜多秀家らも国元に帰国し、五大老の合議による政務の運営から、名実ともに家康の専断に移行した。

 1598年1月、上杉景勝は越後(約90万石)から会津(120万石)への転封を命じられた。秀吉は、家康と伊達正宗に対する押さえとしての役割を景勝に期待した。越後に移された堀秀治は、景勝が最上領や越後に攻め込む積りだと、1600年2月に家康側に報じた。これを好機と見た家康は、景勝を糾弾し速やかに上洛するよう求めた。景勝の側近直江兼続は上洛を拒否。家康は予定通り、細川忠興・福島正則らに会津出陣を命じた。家康は1600年7月に江戸城に入る。

 三成は、上杉と連携して家康を挟撃する好機と考え、挙兵を図った。毛利輝元を味方に引き入れて西軍の盟主に担ぐ。家康軍は、西軍決起を下野小山の陣で知り、三成を討つために西に向かった。秀忠も中山道経由で西に向かった。その数、3万8千。しかし、この隊は上田城で真田昌幸の抵抗にあって足止めをくい、関ヶ原の合戦には間に合わなかった。家康は9月1日に3万2千の軍勢を率いて江戸を発した。そして、大垣城の西、南宮山の麓(関ヶ原)に西軍8万、東軍7万5千の大軍が対峙した。

 西軍の小早川秀秋らの裏切りにより、東軍の勝利となった。三成は、小西行長・安国寺恵瓊らとともに六条河原で斬首された。

 関ヶ原の合戦の内実は、徳川政権の樹立をめざして邪魔者を挑発し、公儀の名においてそれらを一挙に潰すための戦争であった。勝った後も家康は豊臣政権の枠に縛られていた。関ヶ原の合戦後の恩賞宛行(あてがい)では、正式の宛行状も知行目録も発給されず、口頭伝達された。領地配分の主体が誰であるかを意図的に曖昧にするためという。

 1603年2月12日、62歳の春に家康は伏見城に勅使を迎えて将軍宣下を受けた。その年、秀頼は11歳。いずれは関白となり政権を主宰するのが念願だった。ところが、1600年12月に摂関家の九条兼孝が関白に就任した。家康の政略である。

 1603年7月、家康は秀忠の長女千姫(7歳)を秀頼に嫁がせ、秀吉との約束を果たし、豊臣氏との融和策としたが、それから12年後の大坂夏の陣で豊臣氏を滅ぼした。その時、秀頼23歳、淀殿49歳位という。秀頼の子の国松(8歳)は伏見に逃げたところを捕えられ六条河原で斬首された。千姫は大野治長により城から脱出させられた。
by utashima | 2011-09-14 23:19 | 読書 | Trackback | Comments(0)

兄の死

 2011年9月6日夕刻、尾道市向東町に住んでいた兄が亡くなった。満68歳。約1ヶ月前に危篤状態になったが持ち直し、快方に向かっていた。近くの病院に転院できそうだという状況だった。しかし急変して、上記の日に帰らぬ人となった。肺炎だった。

 私の近親者としては、2007年4月に亡くなった父に続いて二人目。

 9月7日の朝、家内と二人で姉の住む福山に向かった。常磐線のひたち野うしく駅で新幹線の指定席を購入。16号車の15番DE席。この新幹線編成の最も後ろの席だった。もう少し購入が遅れると、この便には乗れなかったかも知れない。

 斎場は尾道市向島町にある『尾道葬典社』。兄の住んでいた所(私の育った所)から比較的近い。私が子供の頃は、その近くの神宮寺にセミ取りに行っていた。通夜の席で、この斎場の代表者が馬原氏という事を聞き、もしかしたら、小学校の同級生かなと思っていた。翌日、葬儀が終わり出棺の直前、馬原氏から声を掛けられ、私の予想通りであった事を知った。約50年振りの懐かしい顔があった。

 4年前の父の葬儀以来会っていなかった母(93歳)の元気な姿を見る事ができ、嬉しかった。約9歳離れていた兄は、私が小学生の時、銀行に就職して大阪に行った。毎年1,2度帰省してくれるのが楽しみだった。私が九州大学に入学して福岡市に住むようになった時、最初の半年間は、兄夫妻の住む金山団地にお世話になった。
by utashima | 2011-09-10 14:53 | イベント | Trackback | Comments(0)

『織豊政権と江戸幕府(日本の歴史15)』(池上裕子著)の第8章

第8章 朝鮮出兵と政権の動揺

 1591年10月、秀吉は肥前名護屋(佐賀県唐津市)に朝鮮出兵の基地として名護屋城の築城を開始し、翌年3月13日朝鮮渡海の陣立を発した。7年にわたる朝鮮侵略戦争が開始された。秀吉はイエズス会のコエリュに対し、朝鮮・中国を従わせた後は、中国国内に多数の教会を建て、中国人をキリスト教に改宗させる、と語っている。著者は、イエズス会や貿易商人らを秀吉の企てに協力させるために語った言葉であろうが、コエリュらも武力で日本・中国を征服する企てを持っていたから、どのような思いでこれを聞いたであろうか、と記している。

 1592年5月、都の漢城(ソウル)を占領した。朝鮮の国王は平壌に逃れた。名護屋でこの報告を受けた秀吉は有頂天になり、明征服がすぐにも実現するかのように思った。後陽成天皇を明後年に北京に移し、朝鮮には羽柴秀勝か宇喜多秀家を置く等の妄想を抱いた。天皇自身もその気になった。

 1592年6月中旬から明の救援軍が朝鮮に入り、1593年4月には日本軍は漢城から撤退。その後、明と講和交渉に入るが、1596年9月、講和は決裂した。1597年2月、秀吉は第二次出兵の陣立を定めた。明・朝鮮の大軍と熾烈な戦いとなった。

 秀吉は、在陣衆の苦労も、朝鮮の人々の苦難も思いやる事なく、1598年3月15日に贅を尽くして醍醐で花見に興じた。しかし、その年の8月18日、62歳の生涯を閉じた。12月までに、やっと日本軍の撤退が終わった。

 秀吉の明征服妄想のもと、出陣した者たちが、朝鮮で乱暴・狼藉・虐殺・掠奪の限りを尽くした。兵士たちは朝鮮の男女、子供を捕えて、日本の家族に土産のように送り届けたり、奴隷として売ったりした。奴隷狩りや掠奪は、日本の戦場で行なわれていたのをそのまま朝鮮へ持ち出したものという。長崎は奴隷の一大売買市場となった。朝鮮から無理やり連れ出された人々は数万人に及んだ。

 連れ出された人々の中には、多くの陶工達がいた。陶磁器では朝鮮の技術が日本よりずっと進んでおり、彼らにより、日本に磁器の生産技術がもたらされた。萩焼、有田焼、薩摩焼などが主なものである。

 この戦いでは、首の代わりに鼻が戦功の証とされ、秀吉の派遣した軍目付が、大名たちから提出された鼻を数えて「鼻請取状」を出している。その鼻は塩漬けにして樽に詰め、船で秀吉の下に運ばれた。それを集めて作られた大きな塚が、京都の方広寺の傍にある「耳塚」である。

 こうして朝鮮における我々の祖先たちの残虐きわまりない行為は、今日に至るまで朝鮮の人々に語り継がれ記憶されて来た。
by utashima | 2011-09-04 15:58 | 読書 | Trackback | Comments(0)

『Flowers』 鑑賞後の会話

 DMM.com で 『Flowers』 を借りて観た。2010年6月公開の日本映画。「娘と母、父と母、夫と妻、姉と妹、母と子」をテーマに、昭和初期から現代を4つに分け、それぞれの時代を生きた6人の女性の姿を描いた作品。出演は、映画の中での年齢順に、蒼井優、竹内結子、田中麗奈、仲間由紀恵、鈴木京香、広末涼子と、いずれも映画やドラマでは主演クラスの面々。資生堂が製作および特別協賛に名を連ねており、この6名は、資生堂のブランド「TSUBAKI」のCM に出演していた。上記の説明文は、ウィキペディアの文章を一部使用させて頂いた。

 私は、DMM.com のサイトで日本映画を物色していて、これを見つけた。出産の大変さを改めて感じさせられた。仲間由紀恵が演じた人は、次女(広末涼子)を出産した時、亡くなった。良い作品だった。娘と家内も観たいというので、観終わった後、家内達に渡した。

 家内が観終わったというので、どうだったかと話をした。誰が誰の子供か、分かり難いところがあったというので、私が説明する事になった。私は、完全に理解していたので。ところが、6人の女優の名前が出て来ない。蒼井優、竹内結子、仲間由紀恵、鈴木京香までは思い出せたが、残り二人の名前が出ない。私だけでなく、家内も思い出せなかった。広末涼子の名前は、家内が彼女の歌を思い出して口ずさんでいる時に思い出した。広末涼子は、私は顔は思い出せていたが、田中麗奈の場合は私は顔も思い出せなかった。家内は名前だけが思い出せなかったようだ。その時家内が、「その人の事は、次男が好きだった」という。それを聞いて、先ず私が顔を思い出すと共に「麗奈」という名を思い出し、家内が「田中」という姓を思い出した。

 有名な6人の女優の名前を思い出すのに、夫婦二人の10分余りの共同作業が必要だった。年を取ったものだ。
by utashima | 2011-09-02 20:51 | 映画・ドラマ | Trackback | Comments(0)