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『織豊政権と江戸幕府(日本の歴史15)』(池上裕子著)の第2章

第2章 都市・流通の世界と信長

 信長が1574年に長島の一向一揆を壊滅した時、一旦は一揆勢に降伏を認めたが、船で退却する一揆勢に対し鉄砲の一斉射撃をあびせて騙し討ちにしている。

 1575年5月13日、信長は岐阜を出発し三河長篠へ出陣した。武田勝頼が長篠城を奪回せんと大軍をもって包囲したため、家康が救援を求めてきたからであった。家康は武田側の動きを予測し、味方につけた奥平信正を城主に任じ城兵を増強していた。長篠城は10日はもつまいと思われたが、奥平は勝頼を裏切ったばかりであり降伏しても命の保証はなく、頑強に抵抗した。この抵抗が、家康・信長側の大勝利につながった。信長は、大量の鉄砲で勝頼側を破った。しかし、3000挺の鉄砲隊を1000挺ずつ三隊に分け、交替で撃たせたという有名な記述は『信長公記』にはなく、フィクションと考えられている。

 当時の日本は、世界の銀産出量の1/3を占めていたと言われ、銀を世界貨幣とする貿易関係の中で重要な一角を占めていた。
by utashima | 2011-05-24 14:17 | 読書 | Trackback | Comments(0)

『織豊政権と江戸幕府(日本の歴史15)』(池上裕子著)の第1章

第1章 「天下布武」をめざして

 1568年7月、織田信長は、朝倉義景のもとにいた足利義昭を美濃に迎え、9月7日に上洛の途についた。35歳であった。義昭は10月18日に15代将軍となった。

 信長は9年前の1559年2月、僅かな供を連れて初めて上洛している。桶狭間の戦いの前年の事。目的ははっきりしないが、京都・奈良・堺を見物して、13代将軍義輝に面会している。
 義輝は1565年5月19日、三好三人衆・松永久秀らの軍勢に室町御所を襲撃され討たれた。弟の覚慶は幽閉された。覚慶は7月に細川藤孝らの手引きで脱出に成功、翌2月に還俗して義秋と名乗る。1568年に義昭と改名。
 三好三人衆は、義秋の対抗馬として、12代将軍の弟の子を擁立し、14代将軍とした。

 信長は、1567年秋から「天下布武」という文字を刻んだ印判を使い始めた。

 1569年1月、三好三人衆は、京都に侵入し、信長・義昭らと戦ったが、結局退けられた。
 信長は義昭の安全のため、義輝の御所跡に新御所を築造した。義輝の御所とは比べ物にならない堅固なものであった。昭和50年に京都市の地下鉄工事に伴いこの遺構が発掘された。このGoogle Mapを参照。

 信長は比叡山を味方につけるべく交渉し、「どちらか一方に味方できないなら、敵方にも加担しないようにせよ」と申し入れたが無視されたため、1571年9月、比叡山を焼き討ちした。1572年に入ると、本願寺・信玄・朝倉・浅井が中核となって反信長同盟が結成され、信長は絶体絶命の危機に陥った。信長は謙信に救援を求め、同盟を成立させた。

 1572年、三方ヶ原の戦いで信玄は家康を破り、反信長陣営は喜ぶが、朝倉義景は兵を引いた。その上、信玄が病気となり、53歳の生涯を閉じた。信玄の病は、肺結核との見方が多い。信玄の死は、遺言通り3年間伏せられたが、死の2週間後には死の噂が謙信に伝わっている。義昭は三方ヶ原での信玄の勝利を喜び、翌1573年2月に挙兵に踏み切った。しかし、信長に敗れて降伏し、備後の鞆(広島県福山市)に逃れた。信長は、朝倉と浅井も滅亡させた。
by utashima | 2011-05-15 21:13 | 読書 | Trackback | Comments(0)

『周縁から見た中世日本(日本の歴史14)』(大石直正、高良倉吉、高橋公明著)の第3部の終章

終章 海域世界の変貌

 元を倒して成立した明は、周辺国に使節派遣を促し、漢民族を中心とした世界秩序を目指す外交政策を取った。明の皇帝が、周辺国の長を冊封する臣従関係であった。貿易はその外交関係のもとでのみ行われた。そのため、海禁令を出し、極刑をもって明人の海外渡航を禁じた。しかし、明王朝の強権をもってしても、明人の海を舞台にした活動を制限する事は出来なかった。

 明人は、16世紀には、急増する日本産銀に引き寄せられるように日本に向けて北上し、ポルトガルなどのキリシタン勢力をこの海域に誘導する役割を果たした。1549年には明船に乗って、フランシスコ・ザビエルが鹿児島に到着している。1589年にオランダで出版された「太平洋図」には、日本列島は銀鉱山、銀の島と書かれている。1533年に灰吹法という画期的な精錬技術が導入され、16世紀の中頃から石見銀山をはじめ各地の銀産出高が増大した。この情報が海を通じてヨーロッパに伝わり、地図に書かれる事になった。
by utashima | 2011-05-07 18:40 | 読書 | Trackback | Comments(0)

還暦祝い

 5月3日、長男の音頭で家族が私の還暦を祝ってくれた。つくば市のやかたやぐら寿司で、楽しいひと時を過ごした。

 私は4月22日で60歳になった。小さい頃から病気がちだったので、ここまで生きれるとは思っていなかった。小学2年の時小児結核となり、夏休みに1ヶ月間入院。その時から2年程度、パス等の新しい治療薬を飲んだ。これらの薬がなければ、私は生きておれなかったと思う。結婚して三人の子供ができ、皆元気に成長した。良い人生だったと思う。でも、辛い事の方が多かったと感じており、「もう一度生まれ変わってみたいか」と聞かれると、「否」と答えたい。

 振り返ってみると、私の人生で、2つの大きな変動が思い出される。1973年の第一次オイルショックと今回の東日本大震災。第一次オイルショックの時は、大学4年頃であり、就職しても車を持つことは不可能な時代になるのかなと思っていた。今回の大震災により、人間は自然の猛威には勝てず、自然の中で生かされている事を実感した。数十年内には、東海・東南海・南海地震の発生も確実視されている。これらの避けられない災害による被害を小さくし、短期間に復興できる社会を作って行く事が必要になる。

 還暦祝いの場で、私は「可能なら100歳まで生きたい」と言った。理由は、温暖化、原発問題、資源問題などの地球規模の問題の行く末を知りたいから。
by utashima | 2011-05-04 14:29 | イベント | Trackback | Comments(0)

『周縁から見た中世日本(日本の歴史14)』(大石直正、高良倉吉、高橋公明著)の第3部の第3章

第3章 移動する人々

 1231年以降、高麗は元の侵略を繰り返し受けた。元に最も激しく対抗したのは、三別抄という精鋭の軍隊。1270年、三別抄は元に服属する意志を示した高麗国王に反発し、反乱を起こした。三別抄の乱という。全羅道の珍島(ちんど)に拠点を置き、済州島も支配下に置いた。しかし、1273年、元・高麗軍に済州島を攻撃され、三別抄は滅ぼされた。

 三別抄を鎮圧した1273年、元は済州島に現地の軍事・行政の責任者を置いた。翌年、済州島に、大船300隻の建造を命じた。日本を攻めるための準備である。これが、1274年の文永の役の軍船となった。
by utashima | 2011-05-04 14:13 | 読書 | Trackback | Comments(0)