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『周縁から見た中世日本(日本の歴史14)』(大石直正、高良倉吉、高橋公明著)の第3部の第2章

第2章 港町
 15世紀の初めに、南蛮船が福井県小浜に2度やってきた記録がある。1408年と1412年。日本国王への進物を持ってきた。日本国王とは室町将軍である。

 福岡市博物館(福岡市早良区)の常設展示は、博多湾を構成するこの地域が、日本と海の彼方を結ぶセンターとして、極めて長期にわたって各地と交流してきた事を主張している。福岡市内に唐人町があるが、文禄・慶長の役で連行されてきた朝鮮人の町ではないかと推定されている。唐坊・唐房・当方という地名は、中世の外国人街だった可能性が大きい。福岡市の地下鉄祇園駅周辺からは、大量の外国製陶磁器が出土している。鎌倉時代中頃の博多で最も大きな影響力を持っていた宋人は、謝国明であろう。

 唐坊があったのは博多湾周辺だけではない。鹿児島県日置郡金峰町宮崎字持躰松において、河川改修に伴う工事から遺跡が発見され、1996年から本格的な発掘調査が行なわれた。大量の中国製陶磁器が出土した。薩摩半島の交易の玄関口としての一端を担っていたと推測されている。11世紀後半から15世紀前半の遺跡である。

 日本の港町に外国人が住みついたように、日本人も外国の港町に住みついている。最も有名なのは、16世紀末から17世紀初めにかけて東南アジア各地で形成された日本人町である。朝鮮半島では、15世紀初めから16世紀初めにかけて倭人町が形成されていた。現在の韓国慶尚南道の海岸線にある三つの港町、乃而浦(ねいぽ)、釜山浦、塩浦であり、合わせて三浦という。
by utashima | 2011-04-25 21:22 | 読書 | Trackback | Comments(0)

私の5代目の車

c0011875_22175210.jpg この記事に私の車歴を記した。その記事を書いた2月20日には、オデッセイの後の車の契約を済ませていた。ホンダのフィット13G である(右の写真)。その後、3月11日に東日本大地震が発生。納車がいつになるか気になっていたが、本日(4月17日)、納車して頂いた。

 納車の前日に、15年間お世話になったオデッセイの最後の写真を撮り、中の荷などを取り出した。15年間に約11万2000km走った。この15年間に、以下の4度の事故を経験した。何故か、2000年~2001年に3件の事故が発生。

(1)1996年12月の事故(つくば市 西大通り)・・・私の責任0割
 小学生の二男を連れて、映画(Independense Day)を見に行く途中、歩道の前で停車しているところを、後ろから追突された。新車から6ヶ月の時。事故処理を済ませて、映画を楽しんだ。振り返ってみれば、子供と映画館に行ったのは、この時が最後。

(2)2000年10月の事故(筑波宇宙センター前)・・・私の責任0割
 朝の出勤時に、信号待ちしている時、後ろから追突された。加害者と私の車の間に、もう一台の車が挟まれていた。

(3)2001年2月の事故(自宅前)・・・私の責任8割か
 灯油を買って帰った時、自宅の前で接触事故を起こした。この事故は、私の責任が大きかった。

(4)2001年11月の事故(近所の内科前)・・・私の責任0割
 近所の内科の駐車場前で、当て逃げされた。私は追跡して、信号待ちしていた相手の車を捕捉した。警察署に連れて行き、調書を作成して貰った。今思うと、追跡せずに、相手の車の番号を控えておき、警察に通知すべきだった。
by utashima | 2011-04-17 22:18 | 省エネルギー | Trackback | Comments(0)

『周縁から見た中世日本(日本の歴史14)』(大石直正、高良倉吉、高橋公明著)の第3部の第一章

第一章 境界としての対馬島と鬼界ヶ島
 朝鮮の古地図には、対馬島を朝鮮の版図外と明示したものは数少なく、対馬島を朝鮮の版図に含めているものが多い。江戸時代の日本で翻訳・刊行された朝鮮書物に添付された朝鮮図でも、対馬島は朝鮮の版図の中であった。日本の伝統的な観念の中にも、対馬島を日本領域の外側とみなす傾向があったということだろうか。
 対馬島を朝鮮の一部として描く地図の伝統は、日本においても、明治時代の初期まで続いた。しかし、対馬島が朝鮮半島の政権の支配地域となった事を、少なくとも文献史料では確認できない。
by utashima | 2011-04-16 18:08 | 読書 | Trackback | Comments(0)

『津波災害--減災社会を築く』(岩波新書、河田惠昭著) 

 3月11日の東日本大震災後の4月2日に、近所の書店でこの本を見つけた。出版は僅か数ヶ月前。「まえがき」によると、2010年2月27日に発生したチリ沖地震津波がきっかけとなった。その地震の時、我が国で168万人に対して避難指示・避難勧告が出されたが、実際に避難した人は、3.8%に過ぎなかった。避難率の低さに著者は危機感を募らせた。そして、この本ができた。

 この本を読んで、印象に残った内容を以下に記す。

(1)南海地震で発生した津波が紀伊水道を北上する時、東西の和歌山県と徳島県では津波の多重反射が起きる。そのため、約20分毎に津波が来る。豊後水道でも同様である。

(2)1983年に発生した日本海中部地震では、日本海沿岸で多重反射し、1日以上津波が減衰せず沿岸各地に来襲した。

(3)根室沖・十勝沖では、巨大津波が過去7000年間に平均500年間隔で発生したことが分かってきた。前回起こったのは、17世紀である。

(4)シアトルとバンクーバーを結ぶ沿岸域では、500年周期でカスケーディア地震による大津波が7回も襲った事が最近、判明した。前回は1700年1月26日に地震が起こった事が我が国の古文書や数値解析から明らかになった。当時は、先住民が住んでいただけであった。これらの沿岸域は危険期に入っており、米国・カナダ政府は、大慌てで対策を講じている最中。

(5)明治三陸大津波(死者が約2.2万人、1896年6月15日発生)と、その37年後に起こった昭和三陸津波(死者が約3000人、1933年3月3日発生)は、津波災害の恐ろしさと歴史的に繰り返すという事を我々に教えてくれた災害である。

(6)高さ5mの津波は、5mの海岸護岸に衝突すると、7.5m近い高さに盛り上がり、海岸護岸を容易に乗り越える。

(7)我が国の太平洋沿岸に震源があるプレート境界地震による津波では、大きな波高が6時間継続する。

(8)津波にも屈折と回折という現象がある。津波は、海底の等深線に直角に進もうとする。深い海域では伝播速度が大きいため。そのため、島や半島、岬に大きな津波が集中する。回折により、島の裏側にも津波が押し寄せる。

(9)南海地震は、684年以来、8回起こった事が確認されている。最長150年間隔で南海地震が発生している。

(10)地震マグニチュードが6.0以下、或いは震源の深さが100kmより深ければ、被害をもたらすような津波は発生しないと考えて良いようだ。

(11)東京湾臨海コンビナートには、貯蔵量が500キロリットル以上で、耐震診断を未受診或いは耐震補強未施工のタンクが約1800基ある。石油タンクの耐震化が遅々として進んでいない。

(12)湾口の大水深部に津波防波堤を作るのが一番効果的。釜石市や大船渡市は際立って安全になっている。と書かれているが、今回のマグニチュード9.0の東日本大地震から、これらの地域を守る事は出来なかった。

(13)最近開発されたGPS津波計は1基1億円以上するが、近地津波の波源域に設置すれば、いち早く津波の来襲を知らせてくれる。これを100基程度、プレート境界に沿った沿岸域に設置すれば、津波減災効果は一段と高くなる。

 この記事を書いている今も、つくば市では、震度4~5弱の余震が連日のように襲っている。数百年間隔で必ず襲って来る大地震・津波に対して、被害を最小限に留める日本を作りたい。
by utashima | 2011-04-12 23:39 | 読書 | Trackback(1) | Comments(0)

『周縁から見た中世日本(日本の歴史14)』(大石直正、高良倉吉、高橋公明著)の第2部の終章

終章 アジアの変動の中で

 尚真による画期的な治世が実績を上げつつあった頃、琉球を取り巻く国際情勢は変化し始めていた。シャム王国に次いで琉球の外交・貿易の基軸となっていたマラッカ王国が、1511年、ポルトガル艦隊の激しい攻撃を受け、征服された。ポルトガル勢は、琉球にとってライバル的な存在になった。

 王国内部においても大きな変化が見られた。首里城の外郭が増築されると共に、那覇港の防衛に必要な道路や砦が整備された。琉球は、外敵の侵攻に備える必要性を感じていた。琉球が警戒した動きとは、倭寇であった。それは中国の海禁政策によって閉じ込められていた中国の民間パワーによる私貿易等であったが、しばしば略奪行為や殺傷沙汰を伴った。琉球で1542年と1556年に事件が起きている。1542年の事件は、福建省からの船と広東省からの船の間でトラブルが発生し、殺傷沙汰にまで発展したもの。1556年の事件は、中国沿岸を襲って敗れた倭寇が琉球に攻撃して来たもの。琉球王が撃退した。

 琉球の貿易上の役割を、中国人を主体とした民間貿易勢力(倭寇)が奪い始めた。明帝国の統治能力は低下し、1567年に海禁政策を放棄せざるを得なかった。中国の北方で満州族の脅威が現実のものとなり始めた。16世紀後期になると、琉球と日本の関係は悪化する。薩摩の島津氏が琉球に様々な要求を突き付けるようになった。秀吉の朝鮮侵略戦争の時、薩摩は琉球に派兵と兵糧米の供出を強要。琉球は、派兵はしなかったが、兵糧米の供出は一部負担せざるを得なかった。

 琉日関係は、徳川家康の登場により、最終局面を迎える。家康から出兵許可を得た薩摩は、1609年春、琉球に遠征軍を派遣し、軍事的に解決する行動に出た。3000の薩摩軍が琉球王国を襲った。薩摩軍は、奄美地域の要衝を攻略した後、今帰仁城を落とし首里城を目指した。琉球軍も頑張ったが軍事力の差は歴然としており、首里城はまもなく陥落。数百年にわたって城内に蓄えられた宝物は、薩摩軍の略奪に任された。尚寧王と重臣たちは、連行されて駿府城で家康に謁見した後、江戸城で二代将軍秀忠に面会して鹿児島に戻った。そこで、薩摩の琉球統治方針に従う事を起請文に記して、二年半ぶりに琉球に戻った。敗戦の代償として、与論島以北の奄美地域が薩摩側に割譲された。

 日本は、朝鮮出兵によるしこりがあって中国との関係修復は頓挫していたので、琉球を幕藩体制の内部に取り込んでしまうよりも、朝貢国として存続させた方が得策と判断した。従って、琉球は王国としての体制を保持しつつ、内政・外交・貿易の各面にわたり、一定の主体性を確保できた。

 1660年代後半から、琉球において王国体制の再構築を目指す改革政策が推進された。この頃、中国において混乱が続いていた。1644年に南進する清(満州族)の圧力で明が滅亡。反清の旗を掲げた南明政権が台湾に登場。琉球は、南明政権に従うか、清皇帝の冊封を受けるか、選択に苦慮したが、清皇帝につく事を決断する。
by utashima | 2011-04-02 17:32 | 読書 | Trackback | Comments(0)