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『周縁から見た中世日本(日本の歴史14)』(大石直正、高良倉吉、高橋公明著)の第2部の第4章

第4章 組織化された島々

 在地首長としての按司の存立基盤が尚真期に解体し、王を頂点とする官職・位階制度に彼らが取り込まれた。この事を間接的に裏付ける重要な同時代史料が存在する。王が発行した辞令書である。文体は中世日本の候文を基本とし、仮名書きである。琉球では、漢文と共に仮名文が公用の表記として多用された。琉球は、日本で考案された仮名を最もよく活用した王国であった。辞令書の発給者は全て国王であり、発給年月日はすべて中国年号で記されている。しかし、現存するのは、1% にも満たない61点に過ぎない。

 辞令書は首里城で書かれ、その交付を受ける者は首里まで出向かなければならなかった。奄美地域や先島諸島の者たちは、船に乗って琉球中央まで出向く必要があった。琉球王国においては、中央と地方が海上交通のネットワークによって結ばれていた。

 統一王国の立役者である尚巴志の事業は、100年後の尚真の治世によって大きく前進した。
by utashima | 2011-03-27 19:05 | 読書 | Trackback | Comments(0)

『周縁から見た中世日本(日本の歴史14)』(大石直正、高良倉吉、高橋公明著)の第2部の第3章

第3章 尚真王の時代

 統一王国の樹立後も琉球の国内状況は平坦ではなかった。王位継承をめぐる志魯・布里の乱(1453年)の他にも長期安定政権が存在しない異常事態が続いた。尚巴志亡き後の各王の治世は、平均6年と短い。志魯・布里の乱の後に王となった尚泰久の冊封使が帰った2年後の1458年、王国内の有力者の反乱が起こった。中城城の護佐丸(ごさまる)と勝連城の阿麻和利(あまわり)の反乱である。

 勝連城跡は、数度にわたって発掘調査が行なわれた。17m×15m程度の規模の正殿跡が出土している。統一王国の樹立後においても、勝連城に代表される地域パワーが首里城の王と共に併存していた。15世紀中期の琉球王政権は、国内にライバルを抱えていた。

 1469年、7代尚徳が死去すると、首里城でクーデターが発生。王子や王族・近親者はことごとく殺害され、関係者は首里から追放された。首里城の新しい王となった人物が金丸である。即位して尚円と名乗った。第一尚氏王朝とは全く血筋を異にする者が組織する第二尚氏王朝が誕生した。尚円は、中国皇帝に尚徳の後継者と名乗り、冊封を求めた。皇帝は従来と同様に真相を詮索せず冊封使を派遣して、尚円を琉球国中山王に封じた。

 ここまでの琉球王朝は、相対的な自立性を保持する按司層の勢力を温存していた。第二尚氏王朝三代の尚真は、王の権力基盤を安定させる課題に取り組んだ。彼の治世は50年に及んだ。尚真は各地の按司を首里に移住させ王の管理下に置いた。
by utashima | 2011-03-21 18:54 | 読書 | Trackback | Comments(0)

『周縁から見た中世日本(日本の歴史14)』(大石直正、高良倉吉、高橋公明著)の第2部の第2章

第2部の第2章 アジアとの交流
 1372年に琉球史にとって明記すべき出来事があった。中国皇帝が派遣した使節団が東シナ海を超えて琉球を訪れた。その4年前(1368年) に、モンゴル人の国家の元が滅び、漢人の手になる国家(明朝)が樹立されていた。明の皇帝(洪武帝)は、周辺のアジア諸国に使者を派遣し、新国家の帝位に就いた事を告げた。1369年には洪武帝は日本に使者を送っている。1372年の琉球への使節団は、中山王察度(さつと)のもとを訪れた。

 中山王に対し使者は、明に対して入貢(にゅうこう)を求めた。察度はただちに入貢を決め、弟を団長とする使節団を組織し、明に帰る使節団と共に渡海。そして、琉球は、明の朝貢国となった。その後、琉球では、王が死去すると、後継者は明の皇帝に対して自分を冊封するよう要請した。

 1395年に察度は74歳で他界し、琉球の求めに応じて明は、1404年に冊封使を派遣した。察度の後継者は、武寧であった。然しながら、その2年後には、尚思紹・尚巴志の親子により、武寧は滅ぼされた。尚思紹は、ただちに使者を明に送り、「わが父武寧」が死去した事を告げ、冊封使の派遣を求めた。明はこれに応じて、思紹を中山王に封じた。明から見ると、中山の王位は、武寧から思紹へ正統なかたちで継承された事になった。

 琉球と日本の公的関係を伝える最も古い史料の一つは、1414年11月25日付けの足利将軍から琉球王(思紹) に宛てられた国書である。琉球王よりの書状と進物に対し、将軍がお礼を述べたもの。近年の研究により、日本の将軍が上で、琉球王は下、という上下関係を伴っていた事が明らかになっている。しかし、琉球の三山勢力の対立図式において、いずれの王も明のバックアップには期待したが、日本に対しては後ろ盾を求めていない。

 琉球は朝貢貿易において、初期は泉州(福建省)、泉州以後は福州(福建省)が、出入国の港として指定されていた。朝貢貿易は、往復数千キロの旅程であり、途中で亡くなる人もあり、多大な犠牲が伴っていた。それでも継続されたのは、経済的な利点が大きかったからである。明帝国への朝貢の回数は、琉球が第一位であった。中国にとって琉球は、中国商品の海外向け輸出拠点であると共に、アジア産品の輸入拠点でもあった。琉球は、日本産の商品(日本刀や扇子など)も大量に運んでいる。
by utashima | 2011-03-17 09:38 | 読書 | Trackback | Comments(0)

世界遺産と名所

 以前に、「Google Earth で見た世界遺産」という記事をこのブログに幾つか作成した。個々の世界遺産に対して記事を作るのは面倒であるし、Googleマップの方が使い易い事もあり、Googleマップで『世界遺産と名所』というものを作り始めた。まだ20個に足りないが、地デジ番組で世界遺産などの番組を見た時に、Googleマップで場所を探して追加していく予定。
by utashima | 2011-03-06 11:47 | パソコン | Trackback | Comments(0)

『周縁から見た中世日本(日本の歴史14)』(大石直正、高良倉吉、高橋公明著)の第2部の第1章

第1章 統一王国の形成

 沖縄県は、陸地面積では小さい方から4番目(香川県、大阪府、東京都の次)であるが、海域も含めると、日本最大の県となる。沖縄のすぐ北にある奄美諸島は鹿児島県であるが、奄美諸島はもともと琉球王国の範囲に含まれており、歴史的には沖縄と共に琉球という地域名で呼ばれていた。1609年春、琉球王国は薩摩軍の侵攻に敗れ、奄美諸島は薩摩の直轄領となった。東シナ海を中心に地図を眺めると、西に中国、北に日本・朝鮮半島、南に台湾、東に沖縄・奄美が位置する。これらの地域を、近年の歴史家は、「環東シナ海世界」と呼んでいる。環東シナ海世界の出来事は、海を越えて他の地域に波及し、それぞれの地域の歴史・文化に強い影響を与えた。

 平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて、琉球に大きな変化が起こった。その頃から、(1)穀物を栽培し、それを食糧とする本格的な農業社会がスタートした、(2)琉球にも鉄器文化が普及し始めた、(3)琉球全体に、グスクと呼ばれる構築物が登場、現時点の調査では優に300を超える、主なグスクは城塞に進化、など。考古学者たちは、この変革期をグスク時代と呼んでいる。グスク時代開始の原因は、いまだ不明である。

 首里城の運命を決定づけたのは、尚思紹(しょうししょう)と息子の尚巴志(しょうはし)の活動だった。二人は、沖縄本島南部の佐敷という地域を拠点とする按司(あじ、首長の事)であり、彼らのグスクが佐敷上城だった。当時の沖縄は、北部に「山北」、中部に「中山」、南部に「山南」が鼎立して争っていた。尚思紹・尚巴志の父子は山南の一角に拠点を持っているに過ぎなかった。

 1406年、尚思紹・尚巴志の父子は、中山の拠点、浦添城を攻略し中山の覇者である武寧を滅ぼした。尚思紹・尚巴志の父子は、中山の拠点を首里城に移した。1417年に首里城の外苑の整備を命じ、1427年に工事が竣工している。

 尚思紹・尚巴志の親子は、1416年に「山北」の拠点であった今帰仁城を攻めて王の攀安知(はんあち)を滅ぼし、1429年には「山南」の拠点の島尻大里城を攻めて王の他魯毎(たろみー)を滅ぼした。そして、琉球王国を統一した。

 1453年、王位を争う内乱が起き、首里城は全焼。その後、尚泰久が6代目の王位に就いた。首里城は、僅か3年で再建された。

 1469年、首里城でクーデターが発生し、尚巴志が築いた第一尚氏王朝は瓦解する。代わって、第二尚氏王朝が首里城の王となる。

 沖縄本島南部の小さな地域から身を起こした尚思紹・尚巴志親子が、何故に天下人の地位にまで上り詰める事ができたのか、その理由は解明されていない。

 記事内の地名の場所は、Googleマップで作った『日本の歴史地図』を参照して下さい。
by utashima | 2011-03-05 14:19 | 読書 | Trackback | Comments(0)