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『周縁から見た中世日本(日本の歴史14)』(大石直正、高良倉吉、高橋公明著)の第1部の第3章

第1部の第3章 日之本地域の解体

 十三湊安藤氏は、1432年に南部氏との戦いに敗れ、夷島(北海道)に逃れた。それと同時期に、交易の中心が夷島に移った。その夷島で1456年にアイヌと和人の大規模な戦いが始まった。志濃里(しのり)の鍛冶屋村で、短刀を注文したアイヌの少年と和人の鍛冶屋の間で揉め事が発生し、鍛冶屋が少年を短刀で突き殺した。これがきっかけで、アイヌと和人の対立が起こり、大首長のコマシャインに率いられたアイヌが、志濃里・函館等の和人の館を次々と攻略した。コマシャインの戦いと言われている。15世紀の渡島半島に、道南12館という和人の館があった。

 コマシャインに率いられたアイヌ軍は、茂別館と花沢館以外の全ての館を落とした。花沢館の蠣崎(かきざき)季繁のもとに客将としていた武田信広が奮戦し、コマシャイン父子を射殺し、アイヌを破った。この武田信広が後に蠣崎季繁の養女を妻に貰い、蠣崎氏を継ぎ、近世大名松前氏の祖になった。蠣崎信広が築いたという館が上ノ国町にある。江差町の少し南である。勝山館と呼ばれている。天の川の河口に位置し、夷王山(いおうさん)中腹の尾根を利用した広大な館である。背後の夷王山上には600基余りの中世の和人とアイヌの墳墓がある。勝山館は1979年から上ノ国町教育委員会の手によって発掘調査が続けられている。勝山館は1473年築造と推定されている。蠣崎氏は1514年に勝山館から松前大館に移った。勝山館はその後も使用され、蠣崎氏が松前氏として近世大名の一員になった頃に廃絶された。勝山館の中に、アイヌも住んでいたのではないかと思われている。夷王山墳墓群の中にもアイヌの墓がある。

 上ノ国町と知内町には海関(海上交通の関所)があったと考えられている。アイヌと蠣崎氏との間で協定が結ばれ、アイヌと和人の交易の安全をアイヌの側から保障したと考えられている。

 1604年、徳川家康から松前氏に黒印状が与えられ、松前氏はアイヌとの交易を独占する手がかりを手に入れた。この時、アイヌはどこに行くのも制限されていなかった。しかし、夷島の中が和人地と蝦夷地に分けられ、蝦夷地の中に商場(あきないば)を設定する商場地行政が採用されてから、アイヌの自由往行は抑制された。それまで松前城下に赴いて交易を行なっていた蝦夷地のアイヌは、商場で受動的な形で交易を行なうようになり、蝦夷地内に閉じ込められる事になった。夷島の和人地は「人間地」とも言われていた。蝦夷地に住むアイヌは、人間とは意識されていなかった。
by utashima | 2011-01-29 17:16 | 読書 | Trackback | Comments(0)

ハクセキレイのHD動画アップ

 こちらの記事で静止画を紹介したハクセキレイは、いつもこの畑に来ているようです。今回、19秒間の HD 動画として撮影し、YouTube に初めて投稿してみました。



 ハクセキレイは、通勤途中の歩道でもしばしば見かけます。傍を通っても逃げません。
by utashima | 2011-01-22 13:26 | パソコン | Trackback | Comments(0)

安い再生専用DVDプレーヤーを半年毎に使い捨て

c0011875_23281481.jpg 2010年7月から使っていた再生専用のDVDプレーヤー(約3000円でAmazonから購入)が、先日故障した。安価なDVDプレーヤーが故障したのは、2台目。どちらも半年程度の寿命だった。置き場所の点からも、コンパクトなDVDプレーヤーが適しており、今後も半年毎に買い替える覚悟をした。

 今回もAmazonから、GREEN HOUSE CPRM対応DVDプレーヤー(右の写真)を約3000円で購入した。1年以上、正常に動作して欲しいな。
by utashima | 2011-01-21 23:28 | 映画・ドラマ | Trackback | Comments(0)

『周縁から見た中世日本(日本の歴史14)』(大石直正、高良倉吉、高橋公明著)の第1部の第2章

第2章 奥州十三湊日之本将軍

 鎌倉幕府滅亡の直前、津軽ではエゾ(アイヌを主体とする人々)の反乱が続いていた。それは1268年には始まっていた。この年、津軽で安藤五郎(津軽の地頭職北条氏の被官)が、首をエゾに取られた。この前年、蒙古王世祖の使者が来朝している。
 1320年に再びエゾの蜂起。この時、安藤家の内紛も加わり、津軽半島を二分する大きな戦争となった。

 エゾは何故、反乱を起こしたのだろうか。

 11,12世紀の頃、エゾと言われる人々が津軽や北海道の住人として史料の上に現れてくる。一方、11世紀頃には擦文文化人が津軽に南下してくる。エゾの実体は擦文文化人ではないか。擦文文化が更に変容を遂げてアイヌ文化となった。アイヌは、鉄製の武器や漆器、米などを、本州との交易によって入手していた。アイヌ社会は、本州に対する北方地域の産物(アザラシの皮、鷲の羽、鮭、ラッコの毛皮、鶴、白鳥など)の供給基地として、交易の民としての性格を強めていた。

 南に進出して北条氏の支配と衝突していたアイヌは、北方では千島やサハリンに進出し、中国王朝の元と衝突していた。1264年~1286年にかけて4回の衝突があった。更に1297年~1305年にかけて3回、アイヌが大陸に渡り元軍と戦っている。アイヌは元に敗れて服属し、年々毛皮を貢納する事になった。敗れたが、アジアからヨーロッパの一部までを席巻した元の軍隊と戦いを続けたサハリン・アイヌの実力は相当なものだったと考えられる。
 このサハリン・アイヌの元との戦いは、北奥におけるエゾの反乱と同じ時に起きている。アイヌの元との戦いと北条氏との戦いのどちらも、交易の統括に伴う争いが原因であった。

 鎌倉時代後半の日本海には、関東御免の津軽船というものが20艘も航行し、鮭などの北海道産の品物を、福井県の小浜・敦賀あたりに運んでいた。関東御免というのは、北条氏によって関銭免除などの特権を与えられ特別に保護された船のこと。

 12世紀の津軽での交易の基地は、平泉を中心とする北への交通路の終点である外ヶ浜だった。一方、津軽は日本海を介して京都に直結していた。その日本海交通の北のターミナルが、津軽半島西海岸の十三湊(とさみなと)だった。外ヶ浜から十三湊へ、エゾとの交易の基地は移動した。

 十三湊は青森県五所川原市にある。岩木川が日本海にそそぐところに、砂丘に遮られてできた潟湖(十三湖)がある。その湖の水が砂丘を突っ切って日本海にそそぐところに十三湊がある。今は湖の名前も地名も「じゅうさん」だが、江戸時代までは「とさ」と言っていた。

 『廻船式目』という室町時代の史料に、日本の代表的な港として、三津七湊が挙げられている。その北限の湊が十三湊である。「日本の歴史14」の著者の一人の大石氏は、1975年に十三湊の跡を訪れている。当時は、湊町はどこだったか皆目見当がつかない状態であった。ところが、1991年から始まった国立歴史民俗博物館と富山大学の3年間の調査と、その後の青森県並びに市浦村による調査により、十三湊遺跡が砂丘の砂の中から出現した。百メートル四方の安藤氏の館跡も発見された。安藤氏は日之本将軍と呼ばれていた。

 函館市の東郊に志濃里(しのり)館という土塁で囲まれた館があり、その麓から3つの甕に詰め込まれた古銭が発見された。この埋納銭は15世紀前半のものと推定された。貨幣が財貨として意味を持つ社会が、ここに存在した。
by utashima | 2011-01-19 23:18 | 読書 | Trackback | Comments(0)

小鳥と旅客機(その2)

 散歩の途中で SONY DSC-HX5V で撮影した写真を、幾つか紹介します。先日と同様、被写体は小鳥と旅客機です。いずれも14倍での撮影。

 遊歩道を歩いていると、小鳥の声が聞こえたのでカメラを向けた。下は、梅か桃の木にとまっていたスズメ達。
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 次は、別の木にいた2羽。これもスズメだろう。
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 下の写真の鳥は、スズメとは明らかに異なる。ネットで調べて、ツグミかなと思っているが分からない。
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更にネットで調べていると、BIRD WORLD というサイトを見つけた。その中に、「この鳥なあに?」というページがあり、名前が分からない鳥の写真を投稿すると、鳥に詳しい人が名前などをコメントしてくれる。早速登録し、上記の写真等をアップした。
[追記:2011年1月16日]
 Bird World のサイトで、ツグミであると教えて貰いました。

 最後は、旅客機の写真。肉眼ではどの航空会社の機体か分からなかったが、拡大してみると、アリタリア-イタリア航空の機体であることが、垂直尾翼の塗装から分かった。
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by utashima | 2011-01-15 17:32 | パソコン | Trackback | Comments(0)

小鳥と旅客機

 先日購入したデジカメ DSC-HX5V は光学式10倍なので、少し離れた被写体を撮ってみた。

 下の写真は、近所の畑で餌をついばむ小鳥。左上はスズメだが、右下の小鳥は名が分からない。ネットで調べてみた。自信はないが、多分「ハクセキレイ」であろう。
[追記:2011年1月16日]
 Bird World のサイトで、ハクセキレイの♀であると教えて貰いました。
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 次の写真は、つくば市の上空を飛行する旅客機。これも自信がないが、トルコ航空かな。ところで、2010年10月21日に羽田空港の国際線ターミナルが開業した後、つくば市上空を飛ぶ旅客機の飛行高度が低くなった感じがある。関東地域の飛行ルートが変更されたのであろうか。調べてみると、確かに飛行ルートが変更されていた。
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by utashima | 2011-01-10 14:39 | パソコン | Trackback | Comments(0)

デジカメの買換え

 今年の1月3日、7年間使って来たデジカメに見切りを付け、新しいデジカメを購入した。

 初めに、私のデジカメ歴を記す。
[初代デジカメ]c0011875_232945.jpg
 購入日 :2001年12月06日
 機種 :富士フィルム製 FinePix 2600Z + スマートメディア64MB
 画素数 :200万画素
 撮影感度 :ISO 100 相当
 光学式倍率:3倍
 価格 :45000円
 右の写真が、FinePix 2600Z である。ニッケル水素電池を搭載。使おうとすると、バッテリー残容量が少ないというトラブルがしばしば生じた記憶がある。特に、初詣の際、撮影しようとすると、低温のためか、バッテリー切れという事があった。


[2代目デジカメ]c0011875_23572478.jpg
 購入日 :2003年12月20日
 機種 :富士フィルム製 FinePix F700 + 128MB +クレードル(充電用スタンド)
 画素数 :603万画素
 撮影感度 :ISO 1600 (最大)
 光学式倍率:3倍
 価格 :61000円
 右の写真が、FinePix F700 である。リチウムイオンバッテリーを搭載。このデジカメは使い易く、良いカメラだったと思う。普段はクレードルにカメラを置いて充電しており、使う時はいつもフル充電の状態であった。光学式3倍という点を除けば、このカメラには、不満はなかった。


[3代目デジカメ]c0011875_010331.jpg
 購入日 :2011年01月03日
 機種 :SONY製 DSC-HX5V + 4GB(SDメモリ)
 画素数 :1060万画素
 撮影感度 :ISO 3200 (最大)
 光学式倍率:10倍
 価格 :2100022400円
 右の写真が、DSC-HX5V である。


 今回、不満のなかった FinePix F700 に見切りを付けた理由は、今年の初詣において、1度だけではあるが、以下のような画像になった事である。
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 この現象が発生した後は正常に撮影できたが、既に7年間使った来た事、光学式倍率が3倍と低い事、等を考え、買い替える事にした。SONY製 DSC-HX5V は2010年3月頃の発売であり、2011年1月時点ではかなり廉くなっていた事も、買い替えた大きな理由である。こちらのサイトに、DSC-HX5V が紹介されている。私はまだ使い始めたばかりであり、これらの高性能の享受はこれからである。GPS機能と高倍率を楽しみたいと考えている。
 DSC-HX5V にはファインダーがなく、3インチの背面ディスプレーで被写体を確認する必要がある。昼間に外で撮影する時、液晶ディスプレーは見難い事があり、ファインダーも欲しいなと思っているこの頃である。
by utashima | 2011-01-08 23:14 | パソコン | Trackback | Comments(0)

『周縁から見た中世日本(日本の歴史14)』(大石直正、高良倉吉、高橋公明著)の第1部の序章と第1章

『周縁から見た中世日本(日本の歴史14)』(大石直正、高良倉吉、高橋公明著)

第一部 北の周縁、列島東北部の興起
序章 日本国の東の境界

 青森県の津軽半島の陸奥湾側、すなわち東側の沿岸は、「外ヶ浜」と呼ばれていた。中世において、外ヶ浜は日本国の東の境界と考えられていた。都を出て東へ向かう東山道の果ての国が陸奥国。その陸奥国の最果てが外ヶ浜。一方、北の端は都を出て北に向かう北陸道の果て、佐渡島であった。
 鎌倉時代には、外ヶ浜の北の夷島(えぞがしま、今の北海道)は実際に犯罪人の流刑地だった。外ヶ浜が史料に初めて登場するのは、奥州藤原氏の時代である。
 中世の語り物では、外ヶ浜から鬼界が島(鹿児島県 硫黄島)までを日本国の範囲とするものが多い。

第1章 外ヶ浜と奥州藤原氏

 日本国の東の境界としての外ヶ浜が、歴史に初めて姿を現わすのは12世紀、その時外ヶ浜を政治的に支配していたのは奥州藤原氏だった。

 藤原氏の根拠だった岩手県平泉町に柳之御所跡(やなぎのごしょあと)という遺跡があり、1988年から発掘が始まった。藤原氏の館跡である。総面積は10万㎡に及ぶと推定されている。中央部には、寝殿造り風の邸宅があったと考えられる。陶磁器や土器(カワラケ)が量、質ともに豊富に出土した。陶磁器の中には、愛知県で作られた渥美焼・常滑焼、中国から輸入された白磁の四耳壷(しじこ)などもある。土器は、杯や皿として利用するもの。儀式的な宴会の際に使い捨ての食器として使われたもので、民衆的なものではない。柳之御所跡からは、そのカワラケが大量に出土する。東日本では、平泉以上に大量のカワラケを出土する場所はない。

 カワラケは、青森県の津軽の遺跡からも出土する。蓬田大館(よもぎだおおだて)遺跡や浪岡城跡など。これらは、北奥の地に奥州藤原氏の政治的支配が及んでいた事を意味する。蓬田大館遺跡は、1981年から1986年にわたる発掘調査で、平泉で出土するのと同じ手づくねのカワラケが出土している。

 近年、北緯40度以北の北奥と北海道の南端に、堀を巡らした環濠集落が多数存在する事が注目されるようになった。上記の蓬田大館遺跡もこの一つである。更に青森県浪岡町にある高屋敷館遺跡も環濠集落であった。鋼を作り、鍛造を行なっていたと推定される鉄関連の建物跡も2軒あった。

 日本の歴史の中で環濠集落が現れるのは、弥生時代の九州が最初である。佐賀県の吉野ケ里遺跡がその例である。その後、環濠集落は姿を消し、700年後に北の果てに現れる。弥生時代の九州は、戦争の時代であった。水稲農業のはじまりが富の偏在を生み、それを巡って集落間の争いが起こった。防衛のために集落に堀を巡らした。

 10世紀以降の北奥では、何が戦いの時代を引き起こしたのか。渡島(北海道の南端部)の荻(てき)と呼ばれる人々が鉄器の生産も始めるようになり擦文(さつもん)文化を築いた。擦文文化とは、擦文土器を使用する文化で、北海道の最後の土器文化である。擦文文化人は、道東のオホーツク文化人をサハリン・千島に追いやり、本州にも進出。擦文文化人の南下が戦いの1つの起因であった。
 奥州藤原氏の時代が始まると、環濠集落が消滅していった。戦いと緊張の時代が終わり、一つの平和が到来した。
by utashima | 2011-01-01 20:30 | 読書 | Trackback | Comments(0)

外付け HD も NTFS に

 新年明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願いします。
 今年はうさぎ年。私の干支である。つまり、今年は私の還暦という事になる。

 さて、PC データのバックアップ先として、外付け HD を使用している。買って来た時は FAT32 でフォーマットされていることが多い。そのまま使って来た。そして定期的にデフラグも行なっている。一方、内臓 HD は NTFS でフォーマットされている。デフラグを行なってみるとすぐに気付くが、FAT32 のデフラグには、NTFS のそれの凡そ10倍以上の時間が掛かる。

 そこで、外付け HD のバックアップデータを一時的に別ドライブに移動し、外付け HD を NTFS で再フォーマットした。その結果、デフラグの速度が大きく向上した。今後、外付け HD を購入した時は、NTFS でフォーマットしてから使いたいと思う。
by utashima | 2011-01-01 00:57 | パソコン | Trackback | Comments(0)