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『一揆と戦国大名(日本の歴史13)』(久留島典子著)の第6章~終章

第6章、終章 戦乱に生きる、戦国の収束

 中世後期、特に16世紀以降は寒冷化が進み、生産条件が悪化、飢饉が頻発した。自然災害も人々を襲った。1498年の東海地方の大地震は、浜名湖を海に繋げてしまう等の大きな被害を出している。このような状況において、戦国時代の戦場は、下級武士の稼ぎ場であった。戦場では、人を生け捕り戦利品として連れ帰る等の事が慣行として行われた。「乱取り」と言われている。連れ帰って自ら使役したり、人身売買で売ったりした。
 戦時には寺社も略奪に遭う恐れがあり、寺社はお金や物を大名や領主に提出し、引き換えに制札(軍隊の乱妨行為などを禁止する命令書)を貰っていた。制札を獲得した寺社は、押し寄せる軍勢にそれを示して難を逃れた。

 宣教師フランシスコ・ザビエルは、1547年12月に、マラッカで鹿児島出身のアンジロウに会い、日本行きを決意したといわれる。アンジロウは、殺人を犯して従者と共にポルトガル船に逃げ込み、その地に着いた日本人。罪の重さに苦しむ彼は、ザビエルに面会を求め、罪を告白した後、ゴア(インド)で洗礼を受けた。そして、ザビエルの日本行きの案内を務めた。

 鉄砲伝来は、1543年、種子島に着いたポルトガル人によって伝えられたというのが通説になっている。しかし、1563年に書かれたポルトガル資料では1542年伝来とあり、種々の解釈がなされて来た。最近、村井章介氏は、色々な資料を再検討した上で、鉄砲伝来を以下のように示している。中国人密貿易商の王直がかなり大きな役割を果たした。
 1542年、倭寇の首領王直(おうちょく)の船に乗ったポルトガル人がタイから種子島に来て鉄砲を伝え、翌1543年に、再び王直の船で来島。その時に、鉄砲製造の重要な技術を伝えた。

 各大名の鉄砲受容には、領国の位置や個性によって違いがあった。毛利氏の場合、1557年の防長侵攻が最初の鉄砲使用である。鉄砲の入手には瀬戸内海で活躍する商人が関係していたとみられる。後には尾道商人の渋谷氏が鉄砲・火薬を調達している史料もある。

 1553年、三好長慶は将軍足利義輝を攻撃し、義輝は近江国朽木に落ちた。この時から5年余りの間、三好長慶独自の政権が京都に存在した。その後義輝は京に戻るが、松永久秀・三好義継らに攻められて1565年に亡くなった。こうした混乱の京都に、1568年、織田信長が前将軍義輝の弟義昭を擁して入京した。
by utashima | 2010-12-21 22:18 | 読書 | Trackback | Comments(0)

外灯のパルックボール・スパイラルが切れた

 2010年12月7日、外灯のパルックボール・スパイラル(EFD10EL/8/E17)が切れた。2007年2月6日から使っていたものである。寿命を計算してみた。使用期間は、1399日間である。毎日少なくとも12時間は点灯していたので、16000時間以上の寿命だったことになる。買った時の箱には、寿命8000時間と書いてあったので、スペック値の2倍以上となる。

 今度も、Panasonic のパルックボールPREMIER(EFD10EL/7/E17H2/2T)を取り付けた。消費電力7W、定格寿命13000時間の製品である。今度は何万時間使えるかな。
by utashima | 2010-12-07 21:31 | 省エネルギー | Trackback | Comments(0)

『一揆と戦国大名(日本の歴史13)』(久留島典子著)の第3章~第5章

第3、4、5章 家中の形成から合従連衡へ、家中と国家、都市と都市民

 1523年、毛利元就は、一族重臣14名の起請文を受けて、家督を継承した。その後、元就の三男隆景が竹原小早川氏を継ぎ、やがて沼田小早川氏も継承。次男元春は元就の妻の実家である安芸内陸部の吉川家を継いだ。こうして、1550年の段階で、毛利両川(小早川・吉川)体制の基礎を形作った。

 武家間の合従連衡においては、他家との縁組み(縁約)が大きな意味を持った。女性の嫁入りだけでなく、後継ぎのいない家に養子として子息を送り込み、家督継承者となる例も多い。上記の毛利氏もその例である。東の伊達稙宗(独眼竜正宗の曽祖父)も、21子の内、二男六女を他家に縁付かせている。


 毛利氏と結ぶ商人として、尾道に拠点を置く渋谷氏(大西屋)の事例がある。渋谷氏は、毛利氏の物資の調達・輸送、船の供出や漕ぎ手の差配、毛利氏の領主米管理などを行なっていた。その代償に、渋谷氏は、遠隔地交易や領主米の運用を任されていた。

尾道の渋谷氏の事を初めて知ったので、ネットで少し調べてみた。以下の参考資料が見つかった。広島大学教育学部の資料である。
[参考資料]「近世初期尾道の都市空間と町」(中山富広氏、1996年)

 この資料に、鎌倉後期の尾道概略図が描かれており、今の尾道市長江は入海であった。「中世後期における尾道の海岸線を推定すれば、近世の山陽道辺りであったとすることが妥当であり、戦国時代にさらに埋め立てが進み、近世初頭の海岸線に近づいていったと思われる。」と書かれている。つまり、戦国時代の前は、尾道市の山陽本線辺りが海岸線であったようだ。


 中世日本では、朝廷も幕府も独自の通貨を発行せず、大量の中国銭(宋銭、明銭)が輸入され通貨として使用された。ところが、15世紀後半、中国銭に対して信用不安が発生した。その理由に定説があるわけではないが、15世紀半ば明王朝が国家的支払い手段を銭から銀に転換したため国家的保証を失い、それが日本にも波及したとの説が提示されている。そのため、撰銭(えりぜに:通用価値の低い銭貨の受取を拒否し、割増を要求したり、価値の高い精銭での支払いを要求する行為)を禁止する撰銭令が出されたりしている。毛利氏領国では、石見銀山の飛躍的産出量増加によって、銀貨幣が流通し始めており、遠隔地取引の交換手段として銀を用いる事が可能であった。

 他の多くの地域では毛利氏のような銀産出という条件はなかった。室町幕府は1500年以降何度も撰銭令を出した。然しながら、市場の反応は、銭から米への転換であった。1560~1570年代にかけて、畿内・西国の殆どの国で取引手段が銭から米になった。一方東国では、明の銭である永楽銭が基準銭として使われた。西国とはずいぶん状況が異なる。
by utashima | 2010-12-04 13:03 | 読書 | Trackback | Comments(0)