「ほっ」と。キャンペーン

<   2010年 10月 ( 6 )   > この月の画像一覧

『一揆と戦国大名(日本の歴史13)』(久留島典子著)の第1章

第1章 領主の一揆----戦国大名の登場

 この本では、応仁・文明の乱が終わった1477年から、織田信長が上洛する1568年までを扱っている。

 1477年11月11日、西軍の主力であった大内政弘が京都を去り周防に帰った。他の西軍諸将である土岐成頼・畠山義統らも自宅に火を放って京都を去り、争乱の最後の火の手が仙洞御所などを類焼させた。西軍の要となっていた足利義視(義政の弟)も、土岐成頼を頼って美濃に下り、応仁以来の乱はほぼ終息した。

 1493年、細川政元は将軍足利義材(よしき)を廃し、天竜寺香厳院 清晃を擁立し将軍義遐(よしとお、後に義澄に改名)とした。清晃は、堀越公方足利政知の子であり、政知は義政の弟である。義材は畠山氏の守護領国越中に逃れ、御座所を構えた。二人の将軍が現出し、幕府が再び分裂。これを「明応の政変」という。

 しかし、細川政元は1507年に被官の香西元長・薬師寺長忠らによって暗殺された。香西氏らは政元の養子の澄元の館を攻め、澄元は被官三好之長らと共に近江に逃れた。香西氏らは政元のもう一人の養子の澄之を擁立。細川家も澄之・澄元の2派に分裂した。被官衆が当主を擁して争う構図である。


 遡って1487年、駿河の今川氏に内紛が発生。今川氏親(今川義元の父)が叔父の伊勢盛時と共に、美濃で実権を握っていた今川範満を討った。伊勢盛時は、北条早雲と俗に呼ばれた人物である。しかし、北条氏を称するのは子の氏綱の時である。北条早雲が一介の素浪人であったという説は今日では全く否定されている。北条早雲は室町幕府の政所執事という重要な役職を世襲していた京都伊勢氏の出身である。早雲自身も将軍義尚の申次として側近くに使える身であった。

 早雲の次の目標は、堀越公方の所在地の伊豆であった。この時の堀越公方は、足利政知の子の茶々丸であり、茶々丸は、兄弟の潤童子とその母を殺害していた。早雲が堀越公方に対して兵を起こしたのは、1493年の明応の政変の直後であることが最近の研究で明らかにされた。明応の政変で将軍となった義澄の母と弟を殺した仇茶々丸を討つという大義名分を得て、早雲は伊豆に攻め入ったと言われている。早雲は明応年中に茶々丸を敗死させて伊豆征服に成功した。そして、関東管領上杉氏と対立する。

 1507年、謙信の父長尾為景は、クーデターを起こして越後守護の上杉房能を自殺に追い込む。そして、長尾為景は実質的に越後の国主となった。
 甲斐では、1507年に武田信玄の父の信直が家督を継ぐ。1519年に本拠を石和(いわさ)から府中躑躅ヶ崎(つつじがさき)館に移した。現在の甲府の始まりである。
 尾張では、信長の父の信秀が、1538年、今川氏から那古野城(なごやじょう)を奪い、守護斯波氏をも圧倒する勢いを見せ始めた。
 織田氏のライバル美濃の斎藤道三は、一代で国主にまで成り上がった下剋上の代表者のように言われている。しかし、一代でではなく、京都妙覚寺僧から還俗して西村を名乗った父の新左衛門尉と合わせて二代でのし上がった事が分かっている。守護土岐氏や守護代斎藤氏から実権を奪った新左衛門尉は1533年に死去し、子の道三が歴史の舞台に登場する。守護土岐氏を追放し美濃国の実権を握り斎藤氏の名跡を継ぐ。
 東北地方では伊達稙宗(たねむね)が1522年に陸奥守護職に任命された。伊達氏はもともと陸奥国伊達郡の地頭職を所持し、室町幕府方の一員として、鎌倉公方と対立していた。

 西国でも東国でも天文初年(1532年)頃までに、各地域の核となる大名が本拠とする領国をほぼまとめ上げている。上杉謙信・武田信玄・今川義元などの戦国大名の父たちの時代である。
by utashima | 2010-10-30 18:30 | 読書 | Trackback | Comments(0)

冬の暖房費

 今年の9月に、リビング(11畳)のエアコンを15年振りに換装し、最新型のものにした。使用中は「xx円/h」という表示が現れる。現在のところ、20度に設定すると、3~4円/hとなっている。

 今までの冬の暖房は、石油ストーブを使っていた。エアコンは殆ど使っていない。しかし、最新型のエアコンは、かなり省エネ性能が上がっている筈であり、本当に石油ストーブの方が安いのか、ちょっと検討してみた。

 前回の冬シーズンは、11月~3月の約5ヵ月間、暖房した。

   使用した灯油の量    :18リットル×19=342リットル
   平均の灯油単価     :64円/リットル
   1シーズンの灯油購入費:21888円

 リビングでの灯油使用量は、上記の7割と見積もった。すると、15322円となる。1日16時間暖房したと考えると、6.4円/hとなる。実際には、暖かい日の昼間は、ストーブを使っていない事もあるので、時間単価は7円以上であろう。

 以上の検討から、エアコン暖房中の時間当たり電気代が7円を超えなければ、エアコンの方が得という事になる。寒さが厳しくなると、7円/hを超えるのであろうか。

[追記:2011年1月15日]
 寒さが厳しい1月中旬で、このエアコンの能力をチェックしてみた。午後8時頃、リビングは石油ファンヒーターにより21度の温度であった。ここで、石油ファンヒーターを止め、エアコン暖房に切り替えた。21度の温度を維持するには、エアコンの設定温度を24度にする必要があり、約20円/hの電気代であった。
 詳細な検討はできていないが、本格的な寒さに対しては、エアコン暖房は省エネとは言えないと考えている。
by utashima | 2010-10-30 17:16 | 省エネルギー | Trackback | Comments(0)

気象観測用鉄塔の撤去

 つくば市の名物の一つである気象研究所の気象観測用鉄塔(高さ213m)が撤去される事になった、というニュースは暫く前に聞いていた。数週間前に、撤去のためのクレーンが鉄塔の頂上付近に付いている事に気付いた。撤去作業はいつから始まるのか気になっていた。今日見ると、高さ200mにあった観測アームが消えていた。いよいよ撤去が始まった。

 気象研に向かって散歩しながら、鉄塔の写真を撮って行った。近づくにつれて、取り外した部材がクレーンに吊り下げられており、撤去作業が進行中である事が分かった。その部材がクレーンで下まで降ろされる状況を眺めた。下に、時間順に写真を掲げる。

 青い空と白い雲を背景に鉄塔を眺めていると、空に吸い込まれるような、サイズの感覚が無くなるような気がしてきた。そして、加藤登紀子さんの『この空を飛べたら』(中島みゆき作詞作曲)を思い出した。
c0011875_16415618.jpg

c0011875_16423134.jpg

c0011875_16425459.jpg

c0011875_1643175.jpg

by utashima | 2010-10-23 16:32 | つくば近傍探訪記 | Trackback | Comments(0)

『室町人の精神(日本の歴史12)』(桜井英治著)の第7章

第7章 京都開陣

 応仁・文明の乱は幕府の性格にも重大な変更を迫った。諸大名が相次いで下国した事により、幕政の根幹ともいうべき守護在京原則が崩壊した。暇を乞わずに下国する事は無条件に幕府への反逆とみなされていた。しかし、義政には彼らに制裁を加える力はなかった。
 20世紀末の世界情勢ではないが、東西対立が消滅すると各地で地域紛争の火の手が上がった。
 幾つかの国々では、応仁・文明の乱中に守護に代わって分国での戦闘を指揮していた守護代が被官たちの信望を集め、ようやく守護が下国した頃にはもはや実権を取り戻せない状態になっていた。越前の朝倉孝景や美濃の斎藤妙椿はこのようにして守護から実権を奪った守護代層の典型である。

 1473年に義尚が9歳で将軍宣下を受け、日野勝光が義尚を補佐したが、勝光が1476年に没すると、義政の正室日野富子が厭世的な義政に代わってしばしば政務を代行した。日野富子というと、世の乱れを顧みずひたすら蓄財に勤しんだ女性として評判が悪い。

 室町幕府の将軍権力は、3つの段階に分類できる。諸大名を軍事力で屈服させる事のできた義満・義持・義教の時代、謀略によりそれを成そうとした義政の時代(失敗して応仁・文明の乱に)、将軍権力に残されたものは神頼みだけとなった義尚の時代の3つである。

 1483年、義政は新造の東山山荘に移り、以後、義政は東山殿、義尚は室町殿と呼ばれた。義政は東山山荘を我が子のように愛おしみ、終生にわたり手を加え続けた。1489年には銀閣が上棟された。NHKの番組によると、当時は月明かりに照らされて妖艶な輝きを放つ白亜の銀閣であったようだ。銀閣は「月見のために建てられた」という。

 1489年3月、9代将軍義尚は近江親征中に陣中において亡くなった。25歳。死因は大量の飲酒であった。

 室町幕府を傾けた最大の責任者は、義政をおいて他にはいない。室町幕府は強大な軍事力を保有した事は一度もなく、デリケートな政権運営が必要であった。義満・義持と違って、義政にはその資質が無かった。義政は、義尚が逝った翌年の1490年に55歳で亡くなり、富子はそれから6年後の1496年に57歳で没した。
by utashima | 2010-10-16 10:16 | 読書 | Trackback | Comments(0)

NHK連続テレビ小説『てっぱん』

 2010年9月27日から NHK 連続テレビ小説『てっぱん』が始まった。書斎に最近購入した19インチ液晶テレビ(USB外付けHD接続)で毎日録画し、都合の良い時に楽しんでいる。このシステムには DVD や BD へのダビング機能はないが、番組の見落としが無くなり、番組の時間に拘束される事も無くなった。特に、後者の利便性が気に入っている。気に入った番組の長期保存は、近い内に買換えの必要な PC で考える事にしている。

 2007年の父の49日法要以後、暫く帰省していないが、毎日尾道水道の景色を楽しんでいる。大林監督の尾道三部作で良く出てくる渡船は確か福本渡船だったと思うが、『てっぱん』では、そこから約1km東にある尾道渡船が使われている。こちらのGoogle Maps をご覧下さい。尾道渡船は、私が中学・高校生の頃は、公営渡船と呼ばれていた。1984年から民営化されたようだ。私は、中学と高校は福山市にある6年一貫教育の広大付属校に通ったが、その時、この公営渡船を利用した。6年間毎日乗船した思い出のある渡船である。休日に書店に行く時などは、更に東にあった岸本渡船(尾道市役所の近くに着く)を利用していたが、2008年に運行廃止となった。
by utashima | 2010-10-11 12:09 | 歌島姓・尾道 | Trackback | Comments(0)

『室町人の精神(日本の歴史12)』(桜井英治著)の第6章

第6章 下剋上の波

 1441年6月に足利義教が嘉吉の変で横死してから諸大名が赤松討伐に向かうまでに、半月もの日数を要した。その原因は、畠山家の家督争いにあった。義教の勘気をこうむって河内に逼塞していた畠山持国に上洛の動きがあり、畠山家の惣領となっていた弟持永との間で、京都で衝突の恐れがあったためである。持国を陥れた首謀者は畠山家老臣の遊佐国政と斎藤因幡入道の二人であった。7月に持永の弟持富が京都を脱出して河内の持国に合流。もはやこれまでとみた持永らは越中を目指して逃走し、京都での衝突が回避されたのを受けて、ようやく赤松討伐の運びとなった。持国が再び畠山家の惣領に返り咲いた。

 遊佐と斎藤が持国を廃して持永を取り立てようとした理由は、将軍義教と持国の関係が悪化の一途をたどっていた事である。遊佐と斎藤は畠山家の安全を図るために持国を廃した。被官たちにとって重要だったのは、主人という個人への忠節ではなく、家という組織の存続であった。この観念のもとでは、家の存続を危うくする主人は容赦なく廃される。それが下剋上の本質である。義教は被官たちのこの思考を利用し、大名家の相続問題にも遠慮なく介入した。

 1442年、足利義勝は元服して将軍宣下を受ける。9歳の幼稚将軍が誕生。しかし、義勝は将軍在任わずか8か月で急病死。管領畠山持国亭で諸大名の評定会議が開かれ、義勝の弟の義政(当時は三春、1453年に義政と改名)が次期家督に選ばれた。

 この頃、各守護家で内紛が相次ぎ、応仁・文明の乱の対立構図が次第に形造られていく。美濃土岐家では発狂した当主に代わり、重臣の斎藤氏と富島氏が実権を握っていたが、1444年、斎藤利明が富島氏を謀殺したことで両氏は交戦状態になり、美濃は乱国の体となる。同年、近江でも守護六角家の被官が一揆し、当主に叛旗を翻した。

 1449年、義政は元服して将軍宣下を受け、14歳で判始を行なった。

 1454年12月、関東公方の足利成氏が関東管領上杉憲忠を謀殺する事件が起きた。この事件を機に関東は大乱(享徳の乱)へと突入する。幕府の執奏により後花園天皇が成氏追討綸旨を発した。成氏が幕府に叛旗を翻した事により、幕府は久し振りに本格的な脅威を東国に抱えた。義政はこの機を利用して、将軍権力の専制化を一気に推し進めた。その過程で、兄弟も弾圧した。1456年、義政の同母弟の義観(ぎかん)が門跡から脱走し隠居する事件が起きた。1458年にも、義政の異母兄の義永が細川勝元被官と共に謀反を企てたとして流罪に処せられた。義永は妻子を有しており、その子息の存在が義政にとっては脅威と感じられたのであろう。

 1464年11月、義政の弟の義尋が還俗して義視(よしみ)と改名した。この時、男子のなかった義政は、義視を後継者に指名。ところが、翌1465年11月、義視が元服をとげた僅か3日後に義政正室日野富子が男子を生んだ。後の9代将軍義尚(よしひさ)である。執念深い富子が義視をこのまま放置しておくとは考えられなかった。義尚の後見役の伊勢貞親は、義視謀反の噂を流した。義視は、細川勝元亭に逃げ込んで無実を訴え、一転して伊勢貞親が罪を問われて近江へ出奔した。これが文正の政変である。義政は主導権を失った。

 1467年5月、細川与党の諸勢力が各地で一斉にのろしを上げた。これを受けて、京都でも細川方の武田信賢・細川成之が一色義直を攻撃して、応仁・文明の乱の戦端が開かれた。細川勝元率いる東軍には、細川一族と京極持清・赤松政則・武田信賢らが、山名宗全率いる西軍には、山名一族と管領斯波義廉・畠山義就・一色義直・畠山義統・土岐成頼・六角高頼らが加わった。総じて東西両軍の色分けは、姻戚関係に基づいて形成された。資料には、東軍16万1500余騎、西軍11万6000余騎と記されている。

 東軍は義政から幕府の御旗を入手する事に成功し、官軍としての地位を獲得した。西軍は士気が上がらない。ところが8月に周防の大内正弘が海路3万の軍勢を率いて上洛し西軍に合流し一変する。応仁・文明の乱により、京都の町は灰燼に帰した。開戦から3年で洛中洛外の神社仏閣の殆どを焼き尽くした。

 1468年11月、義視は西軍に身を投じた。西軍は待望の「将軍」を迎え入れ、ここに東西幕府の並立という前代未聞の事態が出現した。1470年7月頃までに西軍は山城をほぼ制圧した。しかし、1471年5月の朝倉孝景の東軍への寝返りで状況が変わる。東軍は、越前守護への登用を餌に、孝景を引き抜いた。孝景の帰服は東幕府の勝利を決定づけた。

 山名宗全が亡くなった後の西軍を支えたのは、土岐家被官の斎藤妙椿であった。一代で主家土岐家をしのぐ財力と軍事力を築いた。その妙椿をもってしても西幕府の瓦解は食い止められなかった。1477年11月、ついに西軍の諸大名は西幕府を解散して下国した。応仁・文明の乱は、京都に空しい焼野原を残して終焉を迎えた。尋尊は日記で「いくら頭をひねっても応仁・文明の乱が起きた理由が分からない。」と書いているが、著者の桜井氏も尋尊の戸惑いが良く理解できると記している。
by utashima | 2010-10-04 20:43 | 読書 | Trackback | Comments(0)