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台所天井照明のインバータ方式の電子安定器

 昨日、台所の天井の照明が故障した。40Wの蛍光管2本を使っている。2本とも点灯しなくなった。2本同時という事で、インバータ方式の電子安定器が故障したかと思った。台所の電子安定器は、新築当初から問題が発生していたので。過去の経緯を以下に記す。

(1)1995年新築。
(2)1997年頃、台所の天井照明の電子安定器が故障。
  寿命は6年~10年と言われており、余りに短期に故障したので、無償で安定器を交換して貰った。
(3)1999年10月、再び電子安定器が故障。
  前回の交換から2年経っていない。照明機器メーカーは「機器は無償で交換するが、出張費用は負担して欲しい」と言う。私が、へーベルハウスにこの事を伝えると、「出張費用はへーベルハウスが負担します。」という返事を貰った。従って、無償で、電子安定器を交換して貰った。
(4)2000年8月、台所の天井照明が点灯しない。
  この時は、壁に取り付けられたスイッチの故障と分かった。

 その後、現在まで正常に使えていた。故障の原因として、以下の3つを予想した。
(a)蛍光管の寿命(2本同時なので可能性は小さいと予想していた)
(b)電子安定器の故障(1999年から約10年間使って来たので、故障しても仕方ない)
(c)壁のスイッチの故障

 今朝、新しいFL管を2本購入し、取り替えてみた。何と、正常に点灯した。蛍光管が原因だった。電子安定器は、寿命の上限に近い10年間使っており、近い内に故障する事を覚悟しておく必要があろう。その時は、電子安定器だけを交換して貰う予定。
by utashima | 2010-06-26 12:11 | 省エネルギー | Trackback | Comments(0)

『太平記の時代(日本の歴史11)』(新田一郎著)の第3章

第3章 将軍足利尊氏
 鎌倉攻めに功のあった新田義貞であるが、当時4歳だった尊氏の子の千寿王(後の義詮(よしあきら))の存在が、関東諸氏を糾合する上で大きな意味を持ったと考えられている。鎌倉陥落の後、義貞は尊氏一族と対立するようになり、後醍醐の忠臣たる事によって自らの地位の確保を図る。1333年に後醍醐は、秩序維持を目的に、尊氏の弟の直義を付けて皇子成良親王(8歳)を鎌倉に送った。しかし、実務を掌握したのは直義であり、これが関東における室町幕府の出先機関としての鎌倉府の前身となる。後醍醐の意図とは異なり、足利氏は関東に確固たる地歩を築く。

 建武元年(1334年)から建武二年にかけて、地方において、北条氏の関係者を擁立した反乱の企てが頻発。関東の状況も後醍醐ではない収束の中心(足利尊氏)を求め始めていた。
 1335年7月、鎌倉幕府最後の得宗北条高時の遺児時行が、諏訪頼重に擁立されて信濃で兵を起こした。これを「中先代の乱」という。鎌倉の足利直義は北条時行に敗れ、三河国に退く。知らせを受けた尊氏は、自らが征夷大将軍になって時行を討つ事を後醍醐に請うたが、後醍醐は成良親王を征夷大将軍とし、尊氏と対立する。尊氏は勅許を得ないまま京都を発して三河に行き、直義と合流して時行の軍を破った。

 直義と尊氏の間には、後醍醐との距離の取り方に関して、かなりの違いがあった。直義は、後醍醐から離れて鎌倉幕府の後を継ぐ武家政権を樹立する構想を明確な形で持っていた。尊氏は、直義の構想に引きずられつつも後醍醐との訣別になお躊躇を示している。

 朝廷側は、軍勢の私的な動員などを理由として尊氏追討を決め、新田義貞を大将軍とする征討軍を発した。尊氏・直義側は、義貞軍を破って西上し1336年正月に京都に入った。後醍醐は近江国坂本に逃れた。両軍は京都近辺で数度にわたり衝突を繰り返したが、足利方は京都を確保できず丹波に逃れ、尊氏・直義兄弟は更に兵庫から九州へ落ちのびた。

 坂本から京都に帰還した後醍醐は1336年に延元と改元。新田義貞を西国に派遣することを決めた。義貞は播磨国で赤松則村の抵抗に遭い、九州の尊氏・直義に再起の余裕を与える結果となった。この間、楠木正成は、武士たちの心が義貞ではなく尊氏に集まる傾向を見て取り、義貞を切り捨てて尊氏と結ぶよう後醍醐に進言したらしい。しかし、後醍醐はこの進言を退けた。後醍醐の周辺の空気は不穏なものとなっていく。

 海路で九州に赴く途中、備後国鞆津(現在の広島県福山市)に寄港した尊氏に、持明院統の光厳上皇の院宣が届けられた。尊氏一行は、大宰府を確保し、九州の有力豪族を味方につけ、1336年4月には東上の途に就いた。

 後醍醐側は、神戸付近に陣を構えたが、正成は湊川で敗死、義貞も敗れて京都に退いた。後醍醐は近江国坂本に逃れた。比叡山に拠った後醍醐方への攻撃は、容易ではなかったが、北陸・東国から近江を経て山門に至る物資の補給路を断つ事で、大勢が決した。

 京では1336年6月頃、光厳上皇の院政が開始された。1336年8月15日、光厳上皇の命により、光明天皇の践祚の儀が行なわれた。尊氏はまだ後醍醐との融和の途を求めていた。10月10日、後醍醐はこれに応じて下山し京都に帰還。この講和の条件等については、直接に示す史料が伝わっていない。後醍醐は、軟禁の身となった。

 1336年11月7日付けで、『建武式目』が儒者や実務官らによって提出された。これは、尊氏・直義のもとで、武家政権のあり方をめぐって議論が展開された結果の文書である。これはしばしば「室町幕府の基本法」と言われている。直義の意向が強く反映されていると考えられている。室町幕府の実質的な成立の時期をここに求める研究者が多い。『建武式目』が提示されてから2年を経た1338年8月11日、尊氏は征夷大将軍に任ぜられた。

 後醍醐と尊氏の和睦は長くは続かなかった。和睦の僅か2ヶ月後の1336年12月、後醍醐は神器を携えて京都を出奔して吉野に赴き、自身の皇位と延元の元号を復する事を宣言し、足利方の討伐を諸国に呼びかけた。京都の光明(北朝)と吉野の後醍醐(南朝)という二人の天皇、二つの朝廷が対立する「南北朝」の時代が幕を開ける。南朝の組織がどのような人々によって形作られ機能していたのか、残念ながらその全貌を窺い知る事は出来ない。
 南北朝が分裂した延元元年の冬は、ことのほか厳しく、恒良・尊良を奉じて北陸道へ赴いた新田義貞は、厳寒と吹雪とに遭って多くの凍死者を出した。高師泰(こう もろやす)率いる足利方の軍勢の攻勢にあって、多数が命を落とした。義貞も1338年に越前国藤島(現在の福井市)で戦死。後醍後も1339年8月、京都回復の望みを達する事無く、52歳で吉野にて死去した。

 室町幕府の初代将軍は尊氏であるが、弟の直義も尊氏に劣らぬ重要な役割を果たした。二人はしばしば「両将軍」と並称され、政務の実質は直義によって主宰された部分が多い。

 足利氏内部の対立は、先ず、直義と、尊氏の執事高師直との間に現れた。軍事指揮官としての高兄弟(師直と師泰)の功績は赫々たるものであった。直義と高師直との差異は、所領知行の秩序をめぐって最も鮮明に表れる。尊氏は、両者の主張の落とし所を模索して苦悩した。

 軍功を誇る高兄弟の権勢は、足利政権内部にも反感を生んだ。1349年6月、高兄弟に反感を持つ武士たちが直義に進言して高兄弟の排除を図った。8月12日夜、直義の計略を察知した高師直は、先手を打って直義を襲った。直義は尊氏邸に逃れたが、師直は尊氏邸を包囲。尊氏と師直の交渉の結果、高兄弟の排除を図った武士達を配流に処し、政務への直義の関与を停止などの条件で決着を得た。直義の代わりに尊氏の子の義詮が上京して政務に就いた。義詮上京後の鎌倉には、義詮の弟の基氏が派遣された。東西両府の政務担当者が尊氏の子によって占められた。著者は、直義の排除を尊氏が積極的に意図していたとする解釈を採らないと書いている。

 直義の猶子直冬(尊氏の子)は九州に逃れていたが、九州の大族が直冬につく事態となり、尊氏は征西の途につく。直義は直冬の動きに呼応して高兄弟誅伐の兵をあげる。西下した尊氏も備前国から軍を返し、高兄弟もこれに従った。この一連の動乱を「観応の擾乱」と呼ぶ。1351年2月、直義方に敗れた尊氏は、高兄弟の出家を条件に直義と和を講じた。京都へ向かう途中、高兄弟は上杉能憲によって殺された。
by utashima | 2010-06-21 23:09 | 読書 | Trackback | Comments(0)

『太平記の時代(日本の歴史11)』(新田一郎著)の序章~第2章

序章 「歴史」としての『太平記』
 14世紀の大部分の時期を占める南北朝時代(1336-1392)は、『太平記』を抜きにしては語りえない。『太平記』は、後醍醐天皇の践祚(せんそ)(1318年)から筆を起こし、足利義満が政務を嗣ぎ細川頼之が管領に就任した1367年まで、およそ半世紀を描写している。

 『太平記』は超越的な視点から記述された無色透明な事実の記述ではなく、語り手の現在と近接した過去の出来事を、語り手の生きる現在へと直接に繋がっていく物語として語ったもの。その過程で、詳細部分は時に歪められ、潤色や虚構の加わった作品が作られていった。

 『太平記』は一個人の作によるものではない。特定の集団の一貫した意匠に帰せられるものでもない。その祖型が形作られ世人の目に触れてから、繰り返し手を入れられている。多くの異なる意図が介在することによって、長い時間をかけて成立した。『太平記』は14世紀半ばまでに祖型が成立し、その後に修訂作業が行なわれたと考えられている。現在の版ができたのがいつの事なのか、はっきりしない。

第1章 動乱前夜
 14世紀初頭の鎌倉幕府は、同時代の人々の目に末期症状を見せていた訳ではない。例えば、1324年、後醍醐天皇の倒幕の企てに対して、近臣の吉田定房は「関東にはいまだ衰運の兆しが現れていない」として、その無謀さを諫めている。定房の目には磐石と見えた鎌倉幕府は、実際には10年足らずの内に倒れる事になる。それを、歴史の渦中に在る者の視野の限界として片付けて良いものかどうか。

第2章 帝王後醍醐
 1318年、後醍醐が皇位に就いた。31歳。そもそも後宇多法皇の後継者に擬せられていたのは後醍醐の兄の後二条天皇であり、後二条の早世により、跡を継ぐべき皇子邦良親王への中継ぎとして、後醍醐が推された。邦良親王が皇太子に立てられ、院政を執る父後宇多法皇の意思により、後醍醐1代の後は皇位は勿論、後宇多から譲られた所領も全て邦良に譲り、後醍醐の子孫は邦良やその子孫に仕えるべき事とされた。従って、10年足らずの在位期間を全うして邦良に皇位を伝えれば、後醍醐の役割は終わる筈であった。

 院政を執っていた父後宇多は1321年に政務を後醍醐に譲り3年後に没した。祖父の後ろ楯を失った邦良皇太子側としては一刻も早く皇位を確保したいという要求が高まり、大覚寺統内での確執が表面化。一方の持明院統も邦良の践祚が早まれば、その次に持明院統に皇位が回って来るのが早まる。邦良親王派と持明院統が共に後醍醐から邦良への早期の譲位を求めて幕府に働きかけた。

 このような状況において、後醍醐にとって最も重要だったのは、自らの立場の変則的な不安定性を如何にして克服し、自らの皇位を全うし、それを子孫へと伝えるか、であった。

 治天の役割を天皇に回収して自らの子孫に伝えようと、倒幕計画を立案するが、1324年に六波羅探題に察知されて頓挫した。これを正中の変という。

 1326年に邦良皇太子が病死し、後醍醐は自身の皇子世良親王の立太子を望むが実現せず。後醍醐は、幕府に対抗する勢力を構築するため、皇子の護良親王を比叡山に入れて天台座主とし、南都北嶺の要所要所に影響力を及ぼし、僧兵勢力を取り込んだ。こうして進められた後醍醐の2度目の倒幕計画も、失敗を危惧した吉田定房の密告により、1331年、六波羅探題に潰された。後醍醐は笠置山に籠って兵を募ったが幕府軍に捕えられた。元弘の乱という。後醍醐は皇位を廃され、隠岐に配流された。

 後醍醐は配流されたが、畿南地方では護良親王がゲリラ的な抵抗戦を続け、河内では楠木正成が幕府方の大軍と対峙していた。1333年になると、各地の武士が護良親王の檄に応じる形で兵をあげた。その年の2月には、後醍醐も隠岐を脱出し出雲から伯耆に入り、名和長年に迎えられた。幕府の存立は大きく動揺しはじめた。決定的な臨界点を画したのは、後醍醐側を鎮圧する任を帯びて西上した足利尊氏(この時は、まだ高氏)の転身であった。これに呼応するように、東国では新田義貞が挙兵した。鎌倉幕府は、地滑り的に崩壊した。

 六波羅探題滅亡の報を受け、後醍醐は、持明院統の光厳天皇の在位と正慶の元号を否定し、自身の在位と元弘の元号の使用を宣言した。帰京後の1334年、皇太子として我が子の恒良親王を指名した。この年の正月29日、元号を建武と改めた。六波羅探題を打倒後も京に在留した足利尊氏の処遇が問題であった。幕府への抵抗運動を主導した護良親王は、足利尊氏への対抗意識をあらわにしていた。

 後醍醐は、「天皇の権力」のモデルを組み立てようと試みた。そもそも、天皇とは何か、何ができるか、を明確化しようとする試みは、多く行なわれてきたとは言えない。律令も、天皇の権能そのものを直接に規定してはいない。後醍醐は、それまでの先例に基づく政治ではなく、天皇中心の新しい政治を目指した。この部分を読んだ時、現在の民主党政権が進めている「官僚主導から、政治主導への改革」に似ている気がした。
by utashima | 2010-06-08 19:27 | 読書 | Trackback | Comments(0)

右肘の痛み

 今年の初め頃から、朝、顔を洗う時に、右手の肘に痛みを感じて来た。右の手の平で顔を押すと、痛みを感じる。僅かな痛みだったので、放置して来た。4月のある日、毎日行なっている1分間のぶら下がり(2,3年前から腰痛に良いと思って、ぶら下がり棒にぶら下がって来た。) の時、右肘に痛みを感じた。この時、右肘への負担の原因が分かった気がした。60kgの体重の半分を右肘で負担していた。その時以来、ぶら下がりは止めている。

 現在の生活において、右肘に大きな負担となる動作は、このぶら下がり以外には思い付かない。過去に遡れば、大学院の時代から30歳頃まで、野球の投手をしていた事が思い出される。これが右肘にそれなりの負担をかけていたであろう。但し、投手をしていた頃に、肘が痛くなった事は無い。

 上記のような状況の下、腰痛の時にお世話になった整形外科に出かけて診察して貰った。右肘をレントゲン撮影。肘関節の骨は全く正常との事で安心した。右肘に痛みを感じる動作はなるべくしないようにして様子を見る事に。

[追記](2011年10月12日)
 約1年半、ぶら下がりを止めていた。それ以外は何も特別な事はして来なかったが、右肘の痛みは殆どなくなってきた。2,3年間続けた肘への負荷の悪影響が消えるには、1.5年の時間が必要だった。
by utashima | 2010-06-05 12:39 | 最近考えている事 | Trackback | Comments(0)

パルックボールスパイラル(調光器対応)

c0011875_163020.jpg 我が家の照明器具は、当初電球だった所の内、電球型蛍光管に交換できる所は殆ど交換している。最近、LED電球が販売されているが、価格が高いので見送っている。

 蛍光管に交換できない理由は、サイズが合わない場合と、調光器が付いている場合である。私の机で使っているデスクライト(右の写真)も、調光器が付いており、電球を使い続けていた。赤色のものがロータリースイッチであり、OFF、最大光、中間光、最小光を選択できる。いつも最大光の位置で使っている。例え、調光しなくても、調光器対応でない蛍光管を使うのは不可、と商品等に書いてあり、調光器対応の蛍光管を店頭で見つける事が出来なかったので、電球を使い続けていた。

 先日、そのデスクライトの電球が切れた。交換用の電球はあったが、調光器付き蛍光管をメーカーサイトで調べてみた。パナソニックから販売されていた。パルックボールスパイラルという製品。それも、最近ではなく、数年前から販売されているようだ。近所の家電量販店に行ってみた。置いていない。店員に調べて貰い、取り寄せて貰った。数日後に入手できた。

 今日から、パルックボールスパイラルを使い始めた。点灯までに1秒弱の遅れがあるが、問題ない。しかし、中間光、最小光の位置にしても、明るさは変わらない。これも私には、問題ではない。寿命6000時間と言われている。1日5時間点けたとして、3.3年。果たして、この値を超えられるか。
by utashima | 2010-06-04 16:03 | 省エネルギー | Trackback | Comments(0)