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柘植俊一著 『反秀才論』

 5月初めの連休中のある日、自転車で近所をゆっくり走っていた。小鳥の声が聞こえて来たので、どこにいるのかなと上を見上げた。自転車の進行方向が左に傾き、ブロック塀に接触した。その時、左手の肘と手の甲に擦り傷を作ってしまった。近所の外科医院が休診だったので、バンドエードを買って来て応急処置をし、1日半後に外科に行った。

 このような擦り傷では、比較的広い面積で皮膚が剥がれるだけでなく、擦った時の熱で火傷のような状況になっていると言われた。殆ど快復したが、今しばらく貰った薬を付けている。

 治療の時、先生から、「学生時代の専門は?」と尋ねられ、「当時は流体力学です。」と答えて、話が進んだ。先生も飛行機がお好きのようで、診察室に、多分自作された模型飛行機の写真が飾られている。先生の卒業された大学は筑波大学。大学院の学生の時、筑波大学工学系教授の柘植俊一氏のゼミに参加されていたとの事。私にとっても懐かしい名前が出て、驚いた。

 私が東京大学工学系研究科の大学院生の時(1974年頃)、流体力学のゼミの場に柘植俊一氏が来られ(文京区本郷キャンパス)、氏が研究されている乱流理論について何度か講演して戴いた事があった。柘植氏は1932年生まれなので、当時42歳位だったと思う。現象論ではなく、第一原理からの乱流理論だったと思う。NASAエームズ研究センターで長く研究されており、久し振りに日本に戻られた時だったと思う。柘植氏については、それ以上の事を知らなかった。但し、今から数年前に柘植氏が亡くなられた事は、ネット上で知っていた。調べてみると、2004年頃に亡くなられていた。

 外科の先生から柘植氏の名前が出た事で、柘植氏の事をもっと知りたいと思い、ネット検索してみた。そして、標記の『反秀才論』という著作を知った。Amazonで検索すると、中古本だけがあった。送料だけで入手できた。
 柘植氏は1969年~1979年の約10年間、NASAのエームズ研究センターで研究されている。ビザの関係で、2年間日本に帰っていたと書かれており、その時に私達に講演されたと分かった。エームズ勤務の後、筑波大学にできた工学部に移動された。NASAに行かれる前は、防衛大学の助教授をされていたようだ。NASAに行く事になった経緯がこの本に書かれており、驚いた。新しい理論を受け付けようとしない当時の流体関係の権威者から受けた近代的「いじめ」が原因だった。柘植氏は旧制中学的報復手段で対抗した後、日本の学界では村八分となり、NASAに行かれた。

 この本では、流体力学研究、音楽、柔道、歴史(特に鎌倉時代)を例に取り、秀才と反秀才の持論を展開されている。なお、この本が出版されたのは、1990年である。
by utashima | 2010-05-22 20:00 | 読書 | Trackback | Comments(3)

『蒙古襲来と徳政令(日本の歴史10)』(筧 雅博著)の第9章

第9章 鎌倉時代の終焉
 1311年正月16日夜、紫宸殿の庭で行なわれていた節会において、六波羅の武士二人が、紫宸殿に上がり、装束司等を切り殺す惨劇を引き起こした。この頃、紫宸殿の庭に多くの都市民が入り込み、舞踏する内弁を見つめる事は、稀ではなかった。内裏の庭は、閉ざされた聖域ではなかった。真夜中でも、全ての門が開け放たれ、天皇の居住空間近くまで人々が入り込む。一方、鎌倉の都市民が得宗屋形に入り込むような状況は、生じなかったであろう。

 13世紀の鎌倉に起こった内紛は、小規模な政変を含めれば10を超え、多くの有力者の家が滅んだ。

 1321年に後醍醐天皇は後宇多法皇から政務を譲られた。この親政の開始は、大きな期待をもって迎えられた。天皇は治世の開始に際し、関東に使者を下し幕府当局者と折衝を行なったという。しかし、僅か2年後、後醍醐天皇は討幕を思い立つ。後醍醐天皇の六波羅追討の企ては、1324年9月に露顕する。「正中の変」と呼ばれる。幕府方は勿論のこと、朝廷側の人々にとっても、後醍醐の企ては予期せざる出来事だったらしい。しかし、鎌倉幕府は後醍醐天皇の更迭に踏み切れなかった。

 1331年8月、天皇は笠置山に籠った。9月に楠木正成は得宗家を離れて、天皇側に就く。直後、笠置山は関東側の軍勢により陥落、天皇は捕えられ六波羅に幽閉された。

 1333年は鎌倉時代の最後の年。1333年正月、楠木正成は摂津四天王寺に進出し、六波羅探題の差し向けた軍勢と戦って、これを撃破した。5月、六波羅探題は、二人の上皇と天皇を奉じ関東を目指した。しかし、美濃路への入口付近で敵に囲まれ、幕府側の500名以上が自殺した。
 関東では、5月、新田義貞の軍が鎌倉攻めを開始。5月末、鎌倉在住の得宗御内人たちは、執権高時の周囲に集まり次々に自害した。自害した場所は、東勝寺跡と言われている。死んだ北条一族を弔うため、足利尊氏によって北条執権邸のあった場所に宝戒寺が建てられた。
by utashima | 2010-05-13 21:05 | 読書 | Trackback | Comments(0)

『蒙古襲来と徳政令(日本の歴史10)』(筧 雅博著)の第8章

第8章 金沢文庫と金沢北条氏
 称名寺(しょうみょうじ)に代々伝わる5つの大きな櫃(ひつ)があった。誰も開けぬまま時が経ち、櫃は境内の光明院の須弥壇(しゅみだん:仏教寺院において本尊を安置する場所であり、仏像等を安置するために一段高く設けられた場所のこと。)の下に放置されて、20世紀に至ったらしい。昭和5年8月、同寺の境内に設けられた県立図書館「金沢文庫」が櫃を引き取り、調査を始めた。およそ1000冊の聖教(しょうぎょう、今でいうノートブック)が、鎌倉時代最後の30年から南北朝初期にかけての書状の裏を用いて書かれていた。それらの書状は、金沢(かねさわ)北条氏の当主と家人たち、『徒然草』の作者・吉田兼好などが書いたものである。書状の数は5000通を超える。「金沢文庫古文書」の発見であった。鎌倉時代の歴史書『吾妻鏡』は1266年6月に途絶えており、鎌倉幕府後期の歴史の扉がここに大きく開かれる事となった。

 1241年、北条泰時は、朝比奈の切り通しを開いた。これにより、金沢(六浦庄、むつらのしょう)は鎌倉の領域に組み込まれた。六浦庄の領主は泰時の弟、実泰であった。称名寺の前身は、実泰の居館内に設けられた念仏堂である。大陸からの貿易船は、和賀江の津ではなく六浦に入った。水深の関係あるいは警戒心からであろう。

 称名寺は実泰の子の実時が1267年に開基した。実時は好学をもって知られる。典籍類や文学書の収集・書写に熱中したらしい。その範囲は、和漢を問わず、歴史、経書、仏典、詩文集、百科事典など、あらゆる種目に及ぶ。第1次モンゴル来襲の翌年(1275年)、実時は出家し六浦庄の金沢屋形に移った。この時を金沢文庫の成立とするようだ。

 実時の子の顕時の第4子である貞顕が金沢北条氏の家督を継ぐ。四半世紀に及ぶ公的生活の間に、六波羅探題や連署などの要職を歴任、金沢北条氏の家運を隆盛たらしめた人物である。例の櫃の中から発見された聖教紙背文書およそ750通が、貞顕や彼の侍臣、侍女たちの書状であり、鎌倉幕府の最後の30年間の日々は、彼らの書状によって再構成されるといって過言ではない。

 1317年9月、称名寺の金堂の造営がはじまる。貞顕が最も心を用いたのは材木の確保。モンゴル来襲の頃、森林資源の枯渇は既に顕在化していた。熊野の山々の檜皮(ひわだ)も海路届けられた。
by utashima | 2010-05-05 14:15 | 読書 | Trackback | Comments(0)

レンタルDVDの再生環境

 昨年末頃までは、PC でレンタル DVD を再生して楽しんでいた。しかし、今年の初め頃から、PC では再生できないレンタル DVD が増えて来た。最近では、届けられるほぼ全てのレンタル DVD が、PC では再生できない。そこで、2005年に購入していた再生専用の 「AVOX DVDプレーヤー ADS-200S」(約5000円)を書斎のテレビ(ソニー製14インチのブラウン管方式、1995年購入)に接続して再生している。
 
 昨日、「コンコルド(1976-2003)--超音速飛行の27年--」を見ていた。最初の10分間見て、用事を思い出し、一時停止の状態に数時間してから、再び再生しようとした。しかし、DVD の認識も出来ない状態だった。数時間、一時停止状態にしておいたのが原因と思い、電源を切って今朝、再び再生を試みた。数分間は再生できたが、その後は 「DVD無し」 という表示が出て止まった。

 もう寿命と判断し、Amazonで 「EXEMODE CPRM方式対応 DVDプレーヤー DV-1380R-WH」を2980円で注文した。明日届く。CPRM にも対応して安くなっている。これが届けば、AVOX DVD プレーヤーは廃棄する考えだった。

 最後の確認の積りで、コンコルドの DVD を AVOX DVDプレーヤーに入れて再生させてみると、全く正常に動作している。現在、コンコルドの飛行映像を楽しみながら、これを書いている。AVOX DVD プレーヤーを今のまま使う事にした。一時停止を長時間続ける事は止めて。明日届く 「EXEMODE CPRM方式対応 DVDプレーヤー DV-1380R-WH」 は、寝室のテレビ(21インチのブラウン管方式)に接続しよう。このテレビも、今年中には、26インチ液晶テレビに買い替える事になろう。 
by utashima | 2010-05-03 13:34 | 映画・ドラマ | Trackback | Comments(0)

『蒙古襲来と徳政令(日本の歴史10)』(筧 雅博著)の第7章

第7章 永仁徳政令
 1296年2月、鶴岡八幡宮が火災により、今宮、若宮ともに焼失した。鶴岡八幡宮の焼失は、1280年秋の大火以来の事。1296年冬、奇怪な事件が起こった。吉見孫太郎という武士が「謀叛」を企てたかどで捕えられ、首をはねられた。吉見は、頼朝の嫌疑を受けて誅殺された範頼の子孫である。

 1297年、幕府は彗星が出現したからと言って永仁徳政令を発令した。13世紀半ば以降、北条氏一門の有力者の死に先立って、彗星の出現する事例が幾つか認められる。この徳政令の内容は、こちらのサイトから引用すると、以下のようになる。
 1.御家人所領の質入・売却の禁止
 2.御家人から買い取った土地は、無償で返還すること
   (注:買った人が御家人で、買取から20年以上経過している場合のみ、返還の義務なし)
 3.金銭貸借の訴訟は一切受け付けない

永仁徳政令に対する歴史的評価は、芳しくない。御家人でない人達の犠牲において、御家人救済を図ろうとする論理構成をもっており、歴史家たちは、鎌倉幕府の統治能力の限界を、そして衰退のきざしを読み取った。

 1301年8月、北条貞時は、執権職を従兄弟の師時(もろとき)に譲り、出家した。貞時は、北鎌倉に禅寺を営み、最勝園寺(さいしょうおんじ)と名付けた。鎌倉の禅宗寺院の興隆は目覚ましく、13世紀末の時点で30以上の禅寺があった。北条氏一門によって、鎌倉には莫大な富と物資が集められていたが、それらの何分の一かは、禅宗寺院に投入されたのではあるまいか。禅宗は、メンバーの出自に拘泥しない。優れた才幹を持つ青少年が、鎌倉時代の禅林を目指した理由の一つは、そこにある。

 1302年に貞時の嗣子(しし、後継ぎの意)、菊寿丸が5歳で亡くなった。前年に執権職を受けた師時は貞時の娘を妻としており、大方が師時を次の得宗と感じていた。これに激しく反発したのが、前六波羅探題、北条宗方である。彼は師時に次ぐ地位にあった。師時と同様に、貞時とは従兄弟の関係である。1303年に貞時に二人目の男子が誕生し、師時と宗方の確執は決定的となる。両者の対立は、宗方に傾くかに見えた。

[嘉元の乱]
 1305年4月、宗方は連署時村の邸に夜討ちをかけ、これを討ち取った。時村は師時の父である。宗方の目標は師時であったに違いない。しかし、時村誅殺の前夜に失火によって貞時の屋形が焼失したため、貞時は師時邸に急遽迎えられていた。そのため、宗方の企ては実現しなかった。5月の初めに、宗方は討ち取られた。28歳であった。これを嘉元の乱という。
by utashima | 2010-05-01 17:38 | 読書 | Trackback | Comments(0)