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結婚30年記念日

c0011875_20392532.jpg 今日は、私と家内が1980年4月29日に結婚してから30年目の記念日。写真は、娘が買ってくれたケーキ。長男は仕事で戻れなかったが、二男と娘が祝ってくれた。

 4月22日と23日は、私達の誕生日であり、お祝いに長男が、SoftBankのフォトビジョンを送ってくれた。リビングに置いている。
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by utashima | 2010-04-29 20:41 | イベント | Trackback | Comments(0)

『蒙古襲来と徳政令(日本の歴史10)』(筧 雅博著)の第6章

第6章 両統迭立の日々
 天皇家は、第一次モンゴル襲来の翌年、1275年11月から約50年間、分裂する。前年に即位した後宇多天皇(亀山上皇の子)の皇太子に、後深草上皇(亀山の兄)の子、熙仁(ひろひと)親王が立った。鎌倉幕府による裁定である。以後50年余りの間、亀山の系統から3人の天皇(後宇多、後二条、後醍醐)が、後深草の子孫から4人の天皇(伏見、後伏見、花園、光厳)が、ほぼ入れ代わり皇位に就く。鎌倉幕府の申入れにより、皇位が別の系統に移った。幕府の首脳部は、異国との戦いに備え、天皇家の力を温存しておきたかったのであろうと、著者は書いている。

[天皇暗殺未遂事件]
 1290年3月の夜、内裏が鎧を付けた3人の武者に襲われた。1287年10月に後宇多天皇から伏見天皇への皇位交代が幕府から伝えられ、1289年4月に伏見天皇の子を皇太子とするよう、幕府が申し入れた後である。
 天皇は、女房姿に身をやつし、母の居所へ逃れた。皇太子も中宮の女房に抱かれて、後深草上皇の御所に避難した。3人の武者は、逃げ惑う天皇や中宮、皇太子と入れ違いの形で、夜の清涼殿のそこかしこを開けたてながら、天皇の寝所を目指していたのであろう。間一髪のところであった。3人の武者は、自害して果てた。

 主犯は浅原為頼、残る二人はその子と弟であった。為頼は、霜月騒動の余波で所領を失い、諸国をさすらっていたと思われる。浅原自害の太刀は、亀山法皇の側近、三条実盛の家に伝わる宝剣だった事が分かり、容易ならぬ状況となる。三条実盛は六波羅探題に捕えられ、関東に送られたとも伝えられるが、その後の消息は分からない。
 伏見天皇は、亀山法皇の介在を主張し、六波羅へ法皇の身柄を移すべく求めたが、後深草法皇はこれを取り上げず、事件は亀山が全く関知していない旨の起請文を鎌倉に送って落着した。実盛の身柄が六波羅に拘束された翌月、後深草、亀山兄弟は、共に嵯峨殿を訪れ、二人の生母、大宮院を見舞った。そこで関係修復がなされたであろう。

 なお、天皇及び皇太子の身を守ったのは、三条実盛の娘であったらしい。史料によると、彼女の子息達が朝廷において異例の速さで昇格している。朝廷の人事権を掌握していた伏見上皇が、破格の昇進によって、かれらの母の功に報いようとした。
by utashima | 2010-04-24 17:34 | 読書 | Trackback | Comments(0)

『蒙古襲来と徳政令(日本の歴史10)』(筧 雅博著)の第4、5章

第4章 時代の基本律を探る

 鎌倉時代の東国においては、年紀法と呼ばれる訴訟の世界の基本律があった。それは、「所領を現実に我がものとして20年が過ぎておれば、相手側が十分な証拠を持って現れても、所領は取り上げられない。」というもの。しかし、京都方にとっては受け入れがたいものであった。この年紀法は、漢民族の法習慣が、北九州や畿内を飛び越えて東国の武士社会に伝播した可能性があるらしい。


第5章 岐路に立つ鎌倉幕府--弘安の役から平頼綱誅殺まで--

 1281年6月、元・高麗連合軍が再び博多湾を襲った。幕府側は、事前に海岸に沿って延々と続く高さ一丈三尺(約3.9m)の石築地(いしついじ)を構築しており、彼らは上陸を断念し、志賀島に900艘の船団を停泊させた。日本と元の間での戦闘は、約2ヵ月間続いた。7月30日深夜から暴風雨が北九州沿岸海域を襲った。元船団主力の殆どが沈没、破壊され、兵士たちは戦意を失った。日本側の夜襲に備えて船を互いに繋いだ事が、被害を大きくした。

 元王朝は、日本遠征を放棄せず、高麗南部の多島海に兵力を集中すべく準備を始めた。幕府側も第三次の来襲を想定していた。幕府が臨戦体制を一応解くのは、第二次来襲から15年後の事である。

 1284年4月、北条時宗が世を去った。時宗の弟の宗政は既に1281年に死去している。34歳。この後、六波羅探題に勤務していた時国が任を解かれて鎌倉に戻され、囚われの身となって誅殺された。時宗の死との関係は不明。7月に時宗の子の貞時が14歳で執権に就く。この頃、北条嫡流家の人々は、殆ど年少者ばかりであった。兄の時輔が京で討たれた時、その子は炎上する探題邸をのがれ、12,3年間各地を転々とした。しかし、その後捕えられ、首をはねられた。1290年の事。

 時宗の喪明けから翌年にかけて、幕府は多くの法令を発した。法制定の主体は、安達泰盛と考えられる。予想される第三次の元襲来に備えて、幕府中枢部を引き締めようとしたらしい。また、鎮西諸国に対する幕府の支配権をより強固にしようとした。第2次襲来時の恩賞をどうするかも大きな課題だった。神社関係者に対しては、沽却地(こきゃくち、売却した土地)の還付を行なった。多くの社の職員達は、社領を質に入れたり沽却したりしていた。これらの社領を関東の権威をもって元に戻した。戦いに臨んだ人々に対しては、本領安堵の御下文(おんくだしぶみ)を交付した。

 1285年12月14日に霜月騒動が発生。残念ながら、当日の詳細を伝える史料は無い。当時、安達泰盛と一方北条氏得宗家の執事内管領であり得宗権力を具現する立場にあった平頼綱とは、対立する関係にあり、両者の調停役であった時宗の死後、対立が激化する。平頼綱方の先制攻撃を受けた泰盛とその一族が滅ぼされた。これを霜月騒動という。

 1285年秋、第三次日本遠征計画の準備のため、200艘の船団が高麗半島の南端に集まる。史料の伝える所によると、この三度目の侵攻が最も恐るべきものであったらしい。1286年1月、日本侵攻計画は中止された。著者は、前年の皇太子真金(チンキム)の突然の死が大きく影響しているのでは、と記している。

 平頼綱の時代は約7.5年続いた。頼綱や彼の子息たちが、霜月騒動で滅んだ人々の地位を、そのまま引き継ぐ事は出来なかった。1293年4月、頼綱屋形に得宗の意を受けた討手が向かい、合戦の末、頼綱・助宗父子は自害した。頼綱の死命を制したのは、安東一族をはじめとする得宗御内の人々であったと思われる。北条貞時(時宗の子)の時代が始まる。
by utashima | 2010-04-17 20:32 | 読書 | Trackback | Comments(0)

『蒙古襲来と徳政令(日本の歴史10)』(筧 雅博著)の第3章

第3章 文永の役(苦闘する鎮西御家人たち)

 1274年10月初め(現行太陽暦では11月10日頃)、モンゴル・高麗連合軍が襲来。対馬、壱岐を襲った後、博多湾にやって来た。文永の役である。ただ1日の合戦だった。6年前の1268年に高麗の使者が蒙古皇帝の国書を大宰府にもたらした。返書は出さなかった。翌1269年にも2度対馬に高麗の使者が現れている。1271年9月に筑前今津に来た蒙古国の正式な使者は、返事がなければ兵船を差し向けるという強迫内容の国書を持って来た。日本側は、返書を送らなかったらしい。

 モンゴルが金を滅ぼして北中国を支配したのは1234年頃。モンゴルは、遊牧民族の性格であろうか、敵地の状況を徹底的に探る習慣があった。1230年代半ばに、商人に身をやつした偵察隊がヨーロッパ中部の国々にまで差し向けられている。

 幕府は、1271年9月に、鎮西諸国に所領を持つ東国御家人たちに、現地へ赴くよう命令を下している。蒙古襲来に対する備えである。しかし、実際にモンゴルと戦ったのは、全て鎮西の御家人たちであり、東国から来た兵力は小さかったようだ。

 1272年2月、蒙古襲来の危機を迎えていた時、8代執権・北条時宗の命により、謀反を企てたとして鎌倉で北条氏名越流の名越時章・教時兄弟、京では六波羅探題南方で時宗の異母兄北条時輔がそれぞれ討伐された。二月騒動と呼ばれている。北条得宗家と嫡流を争う名越流と異母兄時輔を討伐し、執権時宗に対する反抗勢力を一掃した。

 1274年10月5日、モンゴル・高麗連合軍は、対馬に上陸して守護代を討ち取り、15日には壱岐を攻略。次いで肥前の沿岸部が襲われ、大規模な虐殺や略奪が行なわれた。蒙古軍は2万、高麗軍は1万余り。900艘の軍船でやって来た。10月20日、博多湾に入った。蒙古兵の矢には毒が塗ってあり、矢の力も強く日本の鎧では十分に防げなかった。蒙古・高麗連合軍が1日で博多湾を去った理由は、元々威力偵察に過ぎず、留まって戦いを継続する用意は無かったと考えられる。
by utashima | 2010-04-01 20:54 | 読書 | Trackback | Comments(0)