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『頼朝の天下草創(日本の歴史09)』(山本幸司著)の第1、2章

第1章 幕府開創

 頼朝は1147年に生まれた。父義朝の起こした平治の乱の敗北により伊豆へ流されたのが1160年、挙兵したのが1180年であり、20年間、流人という境遇にあった。彼が没するのは1199年。1192年に鎌倉幕府を作ってから僅か7年後の事である。
 頼朝は、弟の義経や範頼、叔父の行家はじめ、清和源氏一族の有力者たちを滅ぼして地位を固めたため、一般に情の薄い人と見られている。だが、幾つかの逸話から判断する限り、決して非情ではなく、時には涙もろい人物とさえ思える。命乞いしてくれた池禅尼の息子で、平清盛の異母弟に当たる平頼盛は、平氏が西海に逃れた時に平氏内部の連絡の不備からか京に取り残された。頼盛は鎌倉に行き、頼朝に歓待された。以後、彼の一族は頼朝の心の籠った庇護を受けた。
 義経が頼朝に滅ぼされたのは有名であるが、範頼も最終的に伊豆に送られ、誅殺された。範頼は1193年に反逆の嫌疑をかけられ、その後、家来を頼朝の寝所床下に忍ばせて様子を探らせたらしい。頼朝の最も恐れたのが、一族の内部分裂であり、可能性のある対抗者を未然に排除しようとした。
 頼朝の乳母の妹の子である三善康信が、10日に1度ずつ使者を送って京都の状況を頼朝に知らせていたという話があり、頼朝は京都の政界の詳しい情報を早い段階から入手していたらしい。
 頼朝は後白河法皇と対決したが、その際、後白河に疎んじられていた藤原兼実と連携した。奥州藤原氏を滅ぼした後、頼朝は1190年11月に京都入りしたが、1192年まで頼朝が征夷大将軍になれなかったのは、後白河が拒んだため。後白河法皇が1192年3月に亡くなり、その年の7月に頼朝は征夷大将軍となった。


第2章 頼朝の構想

 1192年7月に征夷大将軍となった頼朝だが、恐らく1195年に東大寺大仏殿の再建供養で京都入りした時に、辞任している。奥州を含めた東国支配が完成し、後白河が没したこの時点では、征夷大将軍に固執する必要はなくなっていた。
 頼朝は1191年頃から長女の大姫を後鳥羽天皇の後宮に入れようと図った。生まれる皇子を関東の主に擁立する事を考えていたと推測される。しかし、大姫は入内を見ずに1197年に死亡した。
 朝廷は後鳥羽から土御門への譲位を進め、頼朝に承認を求めた。この頃、皇位継承に関しても幕府側の意向を無視できなくなっている。
 頼朝がこの時期に、どのような政権構想を持っていたかは、実現しないまま死去したため、明らかではない。しかし、全国支配を進めるため、少なくとも以下の2つの事を考えていたと思われる。これら2点の推進の中心人物が梶原景時であった。

(1)東国割拠主義の打破
 我々は東国の事だけを考えていれば良いという、上総介広常の発言に示される主義の打破。この発言のため、広常は梶原景時によって誅殺された。

(2)頼朝に対する人格的な忠誠心からの転換
 頼朝個人への忠誠から、幕府への忠誠に転換する事。

 鎌倉幕府の御家人制は、将軍を別にして、御家人は全て平等・対等という理念を持っていた。これまで一方的な被害者に過ぎなかった武士階層が、国全体の方針を左右できる政治的発言力を有するようになった事は、鎌倉幕府成立による最大の変化であった。社会全体から見れば、社会層の平準化が進展した事になり、殆ど革命と言って良い変化である。
 鎌倉幕府により設置された守護と地頭について。地頭職は、謀叛その他の犯罪行為によって没収されない限り、代々受け継がれるものであった。守護職は、代々継承されるものではなく、かなり短期間で交代している。
by utashima | 2010-02-28 11:20 | 読書 | Trackback | Comments(0)

『古代天皇制を考える(日本の歴史08)』

 壬申の乱(672年)に勝利した天武・持統朝のもとで、天皇によって統治される新たな国家「日本」が誕生した。「日本」という国号と「天皇」という君主号が合わせて成文法において確立したのは大宝律令(701年)であった。祭祀の場面では「天子」、詔書における表記は「天皇」、対外的な交渉の場面においては「皇帝」と称する事が定められた。「皇帝」は中国の支配者と同格を意図しており、朝鮮半島の王朝より格が上とした。そのため、朝鮮王朝とは対立する事になる。

 明治政府になって、再び皇帝としての「天皇」の政治が始まり、朝鮮との間で問題が発生。これが、征韓論につながっていく。琉球の併合プロセスにも、この問題が表れている。近世の琉球王国は清の皇帝から冊封を受けながら、幕藩体制の薩摩藩に従属していた。明治政府は琉球藩を設置し国王を琉球藩王として冊封し、清の皇帝との間の冊封関係を否定した。その後、1879年には琉球王朝も廃絶され、沖縄県として併合された。

 奈良時代の天皇は、王権神話や天皇即神思想を完成させた天武の血を引き、自身たちも「現御神(あきつかみ)」として君臨したが、桓武天皇はこれらに替えて、儒教の天命思想を利用した。桓武の即位宣命は、奈良時代までの宣命と異なり、天孫降臨以来の皇統の連続や、天つ神による皇位への委託や加護などには言及していない。この即位宣命は、以後、幕末に至るまでの歴代天皇により、ほぼそのまま踏襲された。天皇制は、新たな段階を迎えた。

 天武6年(677年)、多禰島(たねのしま、今の種子島)の人が飛鳥寺の西の槻の木の下で饗応された。多禰人、すなわち種子島の人々の服従と朝貢を伝える初見史料である。682年、多禰人、掖玖(やく)人、阿麻弥(あまみ)人が朝貢した。
by utashima | 2010-02-10 19:14 | 読書 | Trackback | Comments(0)

『あの、夏の日』と『エリン・ブロコビッチ』

 映画、『あの、夏の日』『エリン・ブロコビッチ』を、レンタルDVDで観賞した。

 『あの、夏の日』は、大林監督の新尾道三部作の最後の作品。これで、新旧の尾道6作品を全て観た。この映画に、11歳の夏に死んでしまったお玉の役で、宮崎葵が出ていた。1999年の尾道、向島が舞台。その年の夏の私の日記を読み返してみると、兄の長男の結婚式が尾道であり、私、家内、長女(当時小学5年生)の三人で出席していた。尾道駅前が大きく変わっていて驚いた、と書いてある。

 『エリン・ブロコビッチ』は、今年の成人式の頃に、車中でラジオを聞いていて知った。番組の女性のパーソナリティが、新成人に見て欲しい映画として紹介していた。私も見たくなり、楽天レンタルのサイトで検索し、予約した。ロサンゼルス近郊における公害訴訟を扱った映画。実話である。主人公のエリン・ブロコビッチをジュリア・ロバーツが演じている。

 どちらも良い映画だった。しかし、どちらも、私のデスクトップPCでは再生できなかった。ディスクの認識さえ出来なかった。娘のノートPCでは正常に再生できた。私のPCは5年目に入ったが、光学ドライブが劣化しているのかな。地デジの番組をDVD-Rにダビングしたものは、正常に再生できている。レンタル・ディスクの劣化と私のPCの光学ドライブの劣化の相乗効果であろう。
by utashima | 2010-02-06 14:35 | 映画・ドラマ | Trackback | Comments(0)