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羽根直樹本因坊サイン入り扇子

c0011875_16325635.jpg 今日、羽根直樹本因坊のサイン入り扇子が届いた。今年正月のパンダネット(囲碁対局サイト)の新春福引き賞品である。当選者は5名だったので、かなりの高倍率だったと思われる。パンダネットの会員数は2004年の時点で5万人以上らしい。現時点で私より強い会員数は、国内で5000人余り、海外も含めて7000人余り。

 右の写真が届いた扇子。書いてある文字は、右から読み、「思無邪」。読み方は「おもいよこしまなし」、意味は「邪心がなく、心の純粋なこと」。勝ちを意識せず無心で打ちたいという思いから、との事。なお、この読み方や意味などの解説は、このサイトからの引用です。1575円で販売されている。

 囲碁好きの祖父にプレゼントした。
by utashima | 2010-01-30 16:33 | 囲碁 | Trackback | Comments(0)

GAIA で太陽の兄弟星を探す

 日経サイエンスの2010年1月号の『太陽の兄弟星を探して』という記事を読んだ。とても興味深い記事だった。

 太陽系がどのような状態で誕生し、如何に変化してきたかが、最近の隕石の研究や星団の観測から分かりつつある。太陽系は、若い星達の集まりである散開星団や古い星の集まった球状星団とも異なる形態の星団で誕生したらしい。数1000個の星から成り10光年程度の空間を占める星団である。地球の隕石内の鉄60の存在から、太陽系の歴史の早い段階において、数光年程度の近くで超新星爆発を経験していると考えられている。その後、太陽から1000AU程度の所を別の恒星が通過した事で太陽から50AU以遠の小天体の軌道が大きく変形されて長楕円になった。

 太陽系とほぼ同時に誕生した恒星群は、少しずつ離れて行き、現在は、300光年以内に約50個、3000光年以内に約400個存在すると考えられている。

 著者達は、現在、ヒッパルコス衛星の観測データを使って、太陽の兄弟星を探しているが、2012年に ESA が打ち上げる GAIA (全天位置天文衛星) に大いに期待している。今まで、GAIA の観測データが具体的にどのような研究に利用されるのか、私には理解できていなかったが、この記事を読んで納得できた。
by utashima | 2010-01-23 18:22 | 宇宙開発トピックス | Trackback | Comments(0)

PC での DVD再生に若干の不安

 昨年4月から、楽天レンタルで DVD 映画を月4枚借りている。最近、PC で正常に再生できない DVD が届けられる事がある。DVD ディスクの記録面を眼鏡レンズ掃除用布で拭き、PC の CD/DVD ドライブをレンズ・クリーナで綺麗にしても、正常に再生できない。

 レンタル会社に問い合わせると、DVD 再生専用機での再生しか保証していないとの返事。つまり、PC での再生は補償の範囲外という事。

 PC で再生できなかった DVD を、数年前に5000円で購入した DVD 再生専用機に入れると、正常に再生できた。これはこれで良かったのだが、私としては、PC で再生する方が使い易い。

 PC と DVD 再生専用機とで、ピックアップの性能に違いがあるのだろうか。例えば、半導体レーザーの出力が異なるとか、耐久性が異なるとか。ネットで調べると、

また PC の光学ドライブはピックアップの疲弊が早く、シールドも甘いのでレンズが汚れやすい欠点があります。

という記述を見つけた。やはり、両者では、違いがあるようだ。私は、家電製品の寿命は 10年、PC は 5年と思っている。DVD 再生専用機よりも耐久性の悪いピックアップが PC に取り付けられているのだろうか。ピックアップだけ長寿命にしても、意味は無いのだが。
by utashima | 2010-01-15 16:20 | パソコン | Trackback | Comments(5)

銀星囲碁10の評価(22局対戦後)

 22局対戦後の銀星囲碁10の評価を行なう。銀星囲碁10では、以下の5つの型から1つを指定して対戦する事ができる。一般型、三連星、小林流、中国流、ミニ中国流である。前半3つで対戦してみた。後半2つは、まだ未経験である。

 一般型:5勝5敗
 三連星:5勝5敗
 小林流:1勝1敗

である。戦った印象では、三連星が最も手強かった。しかし、数局対戦する内に勝てるようになった。現時点で判断すると、私の方が多少強いと感じている。しかし、石が接近して来て、攻め合いになると、要注意である。銀星囲碁10の読みはかなり正確である。相手の石を取り込んだと思っていたら、後で動き出されて負けた事もある。
by utashima | 2010-01-09 12:12 | 囲碁 | Trackback | Comments(5)

『武士の成長と院政(日本の歴史07)』(下向井龍彦著) 第6章 3.

第6章 武家政権に向かって
3. 治承・寿永の内乱

 以仁王なき後も、王の令旨は為義十男の行家によって密かに各地の源氏のもとに伝えられた。そして、全国各地で源氏と在地武士の蜂起が始まる。平治の乱で捕えられ、伊豆で20年余り流人生活を送った頼朝は、三善康信ら京の実務官人と交流し京の情報を収集・分析していたが、令旨を受け取り、1180年8月17日、舅の北条時政や佐々木秀義父子らと、目代山木兼高を襲撃・殺害して挙兵した。

 8月24日、頼朝は大庭影親率いる相模国の軍勢と石橋山で合戦して敗れ、命からがら海路安房に逃亡。しかし、以仁王の令旨を利用して、短期間に、安房・武蔵・相模などの武士を多数従える事に成功。為義の次男義賢の子義仲も9月7日に信濃で挙兵。

 清盛は宇治合戦で以仁王・頼政を討ち取った後、諸国家人奉行に命じて諸国源氏の動きを封じようとしたが、平氏家人奉行達は各地で源氏方に敗退。東国武士達は次々と頼朝や義仲の傘下に。1180年9月5日、頼朝追討官符が下され、29日、追討使は5000騎を率いて出発。京・福原に常駐していた精鋭の平氏家人集団が中心だったと思われる。平氏は、京内に備蓄していた兵糧米も出し尽くしたであろう。しかし、出発草々、延暦寺僧の抵抗により近江路を通れず、伊勢路を通って東海道を下ったが、東海・東山には動員に応じる武士は無く、兵糧米の現地徴発にも難渋した。
 10月16日、駿河高橋宿に着いた時、遠江目代の橘遠茂以下80名の斬殺された首級が路頭に懸けられていた。追討軍の士気は萎え、18日、富士川河畔で源氏軍と対陣すると、川を渡って源氏の陣に逃走する者が続出。追討軍は、源氏軍を前に戦意を失い、戦わずして撤退。この遠征で、平氏常備軍は自壊。

 平氏は、院や貴族、延暦寺の離反を食い止めるため、11月26日、福原から京に還都。12月28日、平氏を脅かす南都を焼き払い、興福寺、東大寺などが灰塵に帰した。著者は、歴史に対する犯罪に値すると記している。

 1181年正月、高倉院が死去。清盛は、畿内近国での蜂起鎮圧のための態勢つくりを進める。有力平氏を畿内各地の惣官に任命し、その下に平家家人を配置、住人調査を行ない、兵士・兵糧米・船舶などを動員する体制を構築。京でも公卿家を含めて住宅調査が行なわれ、平氏軍の長期駐留のための邸宅接収が行なわれた。平氏が一般民衆を直接支配するこの体制は、民衆も直接敵に回す事になった。

 1181年2月4日、高熱を発した清盛は、一門の将来に思いを残しつつ息絶えた。64歳。以後、平宗盛が継承する。今後は後白河院の院宣に基づいて政務を行なう事を約束する。宗盛が、源氏追討を続行するか、頼朝らを許して和解するかの判断を、院に委ねると、公卿議定は頼朝宥免(罪を許す)を決定。しかし、直後に宗盛は、平重衡を追討使として派遣する院宣を求める。清盛死後の平氏内部では、和平派と強硬派の対立が深刻化していた。

 1181年~1182年にかけて、西国は旱魃にみまわれ、それに加えて各地の蜂起と追討の兵糧米徴発により、未曾有の「養和の飢饉」に襲われた。平氏は、家人たちを源氏方に走らせないために、京内に閉じ込めておく必要があり、この平氏軍団の巨大な胃袋が、京を飢餓都市にした。頼朝は、公卿から民衆までを巻き添えにして飢餓にあえぐ平氏軍団を、鎌倉から冷ややかに見据え、機が熟するのを待っていた。壮大な兵糧攻めであった。

 飢饉明けの1183年になると戦局は急激に展開。平氏は数だけは多数を集めたが、戦力にはならない集団だった。越中において義仲達の源氏に大敗。延暦寺も平氏を見限り義仲に味方。義仲軍は京に迫り、平氏は安徳天皇、母徳子を擁し、三種の神器を携えて、六波羅の平氏の邸宅に火を放って京を退去。後白河院は平氏との同行を拒否して比叡山に逃れた。

 後白河院は、入洛した義仲・行家に平氏追討を命じる。そして、平氏一門の官位、所領を没収。平氏は、福原も焼き払い、讃岐の田口成良に迎えられて屋島に拠点を置いた。飢餓にあえぐ京に入った義仲軍は、統制を欠く混成部隊であり、京中で狼藉の限りを尽くし略奪する者が無くなると、多くの兵は勝手に京を去った。構想も展望もないまま京に入った義仲と行家は、軍勢の狼藉を放置し、平氏以上に恨みを買う。後白河院は頼朝の上洛を求める。備中水島で平氏に大敗した義仲は、院にも見放され、怒った義仲は院御所を襲撃し院を幽閉。義仲は、前関白基房と組んで院近臣らを解官し、1184年正月に征夷大将軍になる。義仲の行ないは、平氏の愚挙の繰り返しであった。三河まで来て待機していた頼朝の代官、範頼・義経の軍勢が京に入る。義仲は近江で討ち取られた。

 水島の合戦の後平氏は山陽道の源氏を平定し、安徳天皇を擁して1184年正月には摂津福原に戻った。後白河院は、頼朝から要求されて平氏追討の院宣を下す。義経・範頼が指揮する源氏軍は、1984年正月29日、福原攻撃に向かう。平氏軍は、後白河院の和平提案を受けて油断していた。義経による奇襲攻撃(鵯越から一ノ谷に駆け下りた)に大混乱に陥った平氏軍は、一門以下多数の死者を出し屋島に逃れた。1185年2月19日、義経が屋島の平氏を奇襲して大勝し、平氏は関門海峡の彦島に逃れた。3月24日、壇ノ浦の合戦により平氏は滅亡。

 頼朝の御家人制は、頼朝の最高指揮権と鉄の規律に絶対服従しなければならないものだった。多くの御家人が頼朝の逆鱗に触れて処刑された。義経一門も同様であった。頼朝は、逃亡する義経を、平氏討伐後も戦時体制を維持する口実に利用し、全国規模の守護・地頭制を院に認めさせた。
by utashima | 2010-01-02 14:11 | 読書 | Trackback | Comments(1)

2010年の初詣

 新年明けまして、おめでとうございます。本年もよろしくお願いします。

 子供達の都合から、今年は元旦に初詣した。新年から別の病院勤務となる長男からの連絡がなく、祖父母も含めて6名で出かける予定だった。事前にオデッセイのエンジンをかけて車内を暖かくしておこうと外に出ると、長男が前触れもなく現れて驚いた。家族全員で一昨年から詣でている千勝神社に出かけた。

 元旦のため、人出が予想されたが、予想通り、神社の近くで30分近い渋滞となった。虎の干支置物を買って帰った。30分程度の渋滞なら我慢できる範囲だが、今後はやはり2日か3日に詣でよう。

 下の写真は、拝殿前に並んでいる時、手だけを上に伸ばして撮った写真である。最近、ウォーキングの時にスズメの姿を見つけると嬉しくなる。夕方、電線上に、100羽近くのスズメが20cm程度の間隔で並んでいるのを見かける事がある。私は、暫く見とれている。そしてスズメの位置から街を眺めてみたいと思う。手を上に伸ばして写すだけで、少しスズメに近付ける。デジカメなので、失敗しても構わないので、今後も試みてみよう。
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by utashima | 2010-01-01 20:33 | イベント | Trackback | Comments(0)