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2009年最後のネット対局

 WWGoで今年最後の対局をした。同ランクの人と対戦し、7.5目勝ち。12月は2勝2敗、今年1年では23勝26敗だった。

 最近は銀星囲碁10との対局数が多い。私と同ランクの人と対戦する時より、銀星囲碁10と対戦する時の方が、集中を要するように感じている。銀星囲碁10との対戦により、自分の悪い点が結果として明示される事により、人とのネット対局において役立っているようだ。自分と同ランクの囲碁ソフトの持つ意味は大きいと思う。

 銀星囲碁10の一般型での対局は、所期の目標である勝率5割を達成したので、現在は三連星型で対戦している。現時点では2勝3敗であり、まだ勝率5割に届いていない。銀星囲碁10の三連星型は一般型よりも強いと感じている。
by utashima | 2009-12-30 17:27 | 囲碁 | Trackback | Comments(0)

『武士の成長と院政(日本の歴史07)』(下向井龍彦著) 第6章 2.

第6章 武家政権に向かって
2. 後白河院政と平氏政
 平治の乱後、二条天皇と後白河院は、対立関係にあったが、平清盛の存在により両者の共存が保たれていた。清盛の妻時子は二条天皇の乳母であり、二条を後見する立場になった。また清盛は後白河院別当にもなっており、妻の妹滋子は後白河皇子(後の高倉天皇)を生んでいた。清盛の圧倒的軍事力に支えられて朝廷の秩序は回復していた。1161年9月以降、二条天皇は院に最終判断を求めなくなった。

 1165年6月、重病の二条は強引に2歳の子に譲位して六条天皇とし、7月末に23歳の若さで死去。やっと権力を取り戻した後白河院は、1166年に滋子が生んだ子を皇太子とした。3歳の天皇と6歳の皇太子である。後白河院は露骨に六条天皇を疎んじるようになる。清盛はこの頃太政大臣に昇り詰め、一門の5人が公卿になり、受領は11ヶ国、知行国は5ヶ国になる。1168年2月、清盛は大病に罹り出家する。清盛の死後の政情不安を防止するため、5歳の六条天皇を退位させ、8歳の高倉天皇を即位させた。しかし、清盛は奇跡的に快復し、高倉天皇の外戚として権勢を強めていく。院は清盛の威勢を苦々しく思いながらも、表面的には両者は協調する。

 清盛は、1171年、娘の徳子を後白河の養女として高倉天皇に入内させ、公卿たちの反発をかわす。更に翌年には徳子を中宮にする。清盛は、朝廷の政務が正常に行なわれる環境を軍事力で保障する事が役割であった。しかし、軍事問題や外交問題などの国家大事については、後白河院は清盛の同意の上で決定していた。国家大事について、清盛は平時忠(滋子の兄)の発言をとおして公卿議定を誘導した。

 後白河院と清盛の協調関係が決裂し、近臣たちの平氏への反発が噴出する契機となった事件は、1169年12月から翌年春にかけての延暦寺大衆(だいしゅ、多くの僧侶、主として僧兵を指す)の強訴であった。これに対する院の処置に清盛は反発。六波羅に武士団を集めて無言の圧力をかけた。この後、清盛は延暦寺大衆と接近する。

 1176年7月、院の寵愛深かった高倉天皇の生母建春門院滋子(清盛の妻時子の妹)が死去すると、院と平氏の関係は冷却していった。1177年、再び延暦寺と院近臣が衝突。院は清盛を動かそうとするが、比叡山と敵対したくない清盛は動こうとしない。院は清盛を福原から呼び出し、比叡山攻めを承諾させた。延暦寺攻撃を直前に控えた5月29日夜半、摂津源氏の多田行綱によって、院と近臣らが法勝寺僧俊寛の鹿ヶ谷山荘に集まって平氏打倒クーデターを計画していた事が密告され、事態は急転回する。鹿ヶ谷の陰謀である。6月1日、延暦寺攻撃のために結集していた平氏の軍勢により、鎮圧される。西光は凄まじい拷問を受けて共謀者の名前を明かした後惨殺された。院近臣は、次々と逮捕された。この鹿ヶ谷の陰謀は、平氏側の謀略であったと考えられる。延暦寺攻撃を回避しつつ平氏に反抗的な院近臣を一掃する一石二鳥の謀略であった。

 1178年11月、清盛の娘の中宮徳子が念願の男子(言仁(ときひと)親王、後の安徳天皇)を産むと、清盛は喜びに号泣したという。

 1179年になると、清盛の娘の盛子と嫡子の重盛が死去し、清盛は福原に籠って国政関与に消極的になる。その間隙をついて後白河院は、関白基房と組んで清盛を無視した任官を進めた。これに激怒した清盛は、数千騎を率いて福原から上洛して八条邸に入ると、京中がパニックに陥る。清盛は高倉天皇を前面に立てて院側の関白を罷免した。院に、今後は万機に口出ししないと、清盛に約束させた。院近臣・公卿・官人39人が解任・京外追放に処され、基房は大宰府に左遷される。後白河院は鳥羽殿に幽閉された。1180年2月、高倉天皇は三歳の言仁親王に譲位し(安徳天皇)、高倉院政が始まった。これは、清盛によるクーデターである。しかし、平氏は孤立していく。譲位後初の神社参拝は賀茂社か石清水社のどちらかという慣例を破って、高倉院は平氏の氏神厳島社に行幸する決定をした。この決定により、平氏は延暦寺の支持も失う事になる。

 1180年4月9日、後白河院の第三皇子の以仁(もちひと)王は、平氏打倒の檄文を下し、諸国源氏に決起を促した。しかし、5月26日、宇治平等院の戦いで源頼政軍は全滅し、以仁王は奈良への逃走途中で殺害された。平氏は諸国に、以仁王の檄文に呼応する武士の追討を命じた。
by utashima | 2009-12-26 14:11 | 読書 | Trackback | Comments(0)

銀星囲碁10とのその後の対戦

 12月20日~23日の間に、銀星囲碁10 と 5局の対戦をした。17~18日の4局は私の 1勝3敗だった。今回の5局は、私の3勝2敗。勝率5割を確保できた。5局の結果の詳細は、以下の通り。
 ・私の 48.5目勝ち
 ・私の 8.5目負け
 ・私の 9.5目負け
 ・私の 58.5目勝ち
 ・私の 0.5目勝ち

 接戦になった時に負けが多い。最後の半目勝ちの対局も、終盤に入る頃、数目負けていた。その後、先手のヨセを続けてやっと半目勝てた。銀星囲碁10 は、WWGoの人間相手の対戦では出会うことの少ない定石もしばしば打って来る。戦った後、自分の打った手が定石に合っていたか、後で定石辞典で確認している。
by utashima | 2009-12-24 00:24 | 囲碁 | Trackback | Comments(0)

銀星囲碁10 は強い!

 12月17日に、新発売の 「銀星囲碁10」 が届いた。13440円(税込)の所、旧版ユーザーは 7500円で購入できる。私が今使っているのは、3年前に購入した「銀星囲碁7」である。version 8, 9 には触手が動かなかったが、この version 10 は是非欲しかった。その理由は、朝日新聞ホームページのこちらの記事である。日本棋院のプロが KCC 囲碁 (銀星囲碁10と同じエンジン使用) と対戦し、6子局で勝っているが、プロ棋士は 『強いアマ3段』 と評価している。私は、2段~3段と思っているので、私より強い初めての囲碁ソフトとなる可能性が高い。銀星囲碁10 はモンテカルロ法という比較的新しい方法を取り入れている。

 届いたその日に、早速対戦して見た。モンテカルロ法が適用される「最上級」「時間無制限」として対戦した。1局目は、銀星囲碁10 が14.5目の勝ち。真剣に対戦したが、負けてしまった。その日の第2局も偶然にも私の14.5目の負け。私よりも強いと言える。翌18日も 2局対戦した。最初の局は、またまた負けた。しかし、今度は 5.5目差。良い勝負だった。第2局は、21.5目差で私の初勝利。下が、その時の終局図。
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 銀星囲碁10 の棋風は、最上級では、一般型、勢力型、実利型の中で、勢力型に固定されている。そのためか、中盤に入る頃、中央が黒っぽくなりつつあった。64手目で左下の三々に入った。その後、左上の地を確保しつつ中央の黒地を減らして行った。私が有利な状態の時、157手目で銀星囲碁10 が左上三々に打ち込んで来た。ここで黒石に生きられると、私の負けとなる。私も必死で殺しにかかった。人間相手の対局以上にプレッシャーのかかった対局だった。左上の黒石を全滅させて私の初勝利。

 正直なところ、銀星囲碁10 と戦い続けて、勝率を 5割以上にする自信は無い。しかし、どこまで戦えるか、楽しみである。モンテカルロ法という新しい方法も組み込んだ事により、CPU の考える時間が長くなったのではないかと気がかりであった。ここまで 4局対戦した所では、最大の思考時間は約1分30秒。中盤の重要な場面でも、1分程度で打って来る。銀星囲碁7 に比べて、思考時間は 5割減、棋力は 2ランクアップ、と感じている。囲碁ソフトが今後どこまで強くなるのか、楽しみである。

 銀星囲碁7 が出た時の私との対戦記録は、こちらをご覧下さい。私は、銀星囲碁7 を弱い初段と判定した。

 なお、私の使用マシンは、CPU が Intel Celeron (2.53GHz)、メモリ容量は 1GB、OS は Windows Xp である。4年前の PC である。
by utashima | 2009-12-19 11:28 | 囲碁 | Trackback | Comments(6)

『武士の成長と院政(日本の歴史07)』(下向井龍彦著) 第6章 1.

第6章 武家政権に向かって
1. 保元・平治の乱

 1129年、白河院が死去し、27歳の鳥羽院が院政を開始。鳥羽院は、12年間宇治に蟄居していた藤原忠実を内覧として復活させる。白河が重用した関白忠通は父(忠実)の陰にかすむ。鳥羽院は、白河が入内を許さなかった泰子(たいし、忠実の娘)を皇后とし、崇徳天皇の直系資格を否定しようとする。このように、鳥羽院は祖父白河への反逆からスタートした。鳥羽院は1141年に崇徳天皇に譲位を迫り、得子(とくし)との三歳の子を近衛天皇として即位させる。得子は1149年に美福門院と号する。

 近衛天皇は1155年に17歳の若さで死去。近衛天皇の異母兄が後白河天皇として即位し、後白河天皇の子の守仁親王を立太子させる。このシナリオを描いたのは信西(しんぜい)入道藤原通憲である。信西は身分は低かったが、彼の妻が後白河天皇の乳母であり、自分が政治を主導しようとの野心を持っていた。そのため、藤原忠実の子の頼長と対立する。信西は謀略を使って頼長を追い詰め、失脚させた。

[保元の乱]
 1156年、28年に亘って院政を行なった鳥羽院が54歳で亡くなる。以前から、崇徳と頼長がクーデターを企んでいるという風聞が流れており、臨終に際し、崇徳は父鳥羽院との面会も許されず、葬儀にも参加できなかった。関白忠通は、鳥羽院の初七日の仏事の翌日から白河殿に入っていた崇徳と頼長に対する攻撃命令を出した。後白河天皇側の主な武将は、源義朝と平清盛。最大の働きをしたのは義朝であったが、信西は清盛にも勲功を立てさせようと策を練る。武士に崇徳院を討たせたのは衝撃的であった。清盛、義朝は、崇徳院側についた兄弟父子をそれぞれ斬首した。この保元の乱は、ほぼ信西の計略通りに進行した。後白河天皇の願望でもあった。信西自身は官位の昇進とは無縁であり、自分の学識と政治手腕によって儀礼国家を再建する事が夢であった。そのため、崇徳と頼長を抹殺し、後白河の寵臣として実権をにぎった。この信西の政策運営を武力で支えたのが、同じく鳥羽院近臣だった平清盛である。

 1158年、32歳の後白河は16歳の長子守仁親王に譲位した。守仁親王は二条天皇となる。同時に62歳の関白忠通は辞任し、長男の基実が関白となる。後白河は院政を行なおうとし信西も寵臣政治を継続しようとした。

[平治の乱]
 鳥羽院の近臣だった藤原忠隆の子信頼は、何の能力もないと評された人物だったが、後白河院の寵愛によって驚異的な昇進をする。信西は信頼の危険性を見抜き、院に諌言するが、院は聞き入れない。信頼は、清盛に対抗意識を燃やす義朝を抱き込む。義朝は保元の乱の恩賞で清盛に比べてあからさまに冷遇され、信西からも冷たくあしらわれていた。
 信頼と義朝は、何の理念も構想も持たずに、信西憎しの一点で結託し、信西打倒のクーデターを決意する。1159年12月、清盛が熊野詣に出発した留守を狙ってクーデターを決行し、後白河院を軟禁する。信頼、義朝らは内裏に入り、二条天皇を擁して朝廷を掌握した。信西は脱出に成功するが、前途に絶望して自害した。こうして信西打倒を目標に掲げたクーデターは表面的には成功したが、信西が仕組んだ保元の乱に比べてお粗末であった。
 信西の改革政策に対し、公卿たちは好意的であったし、京内住民の評判も悪くなかった。つまり、信頼・義朝に、信西打倒の名分がなかった。公卿たちは無能な信頼に対し冷淡だった。
 熊野詣の途上にあった清盛は、急遽引き返す。伊勢・伊賀の家人達も六波羅に詰め掛ける。義朝は東国の郎等を招集しないで平治の乱に突入していた。二条天皇側の公卿と清盛は、火事を起こし、その隙をついて天皇を六波羅に救出した。信頼・義朝らは朝敵となってしまった。信頼・義朝は討ち取られ、義朝の長男義平も斬首された。三男頼朝は捕えられたが池禅尼(清盛の継母)の助命嘆願により斬罪を免れ伊豆に流された。妾常盤御前も三人の子と共に捕えられる。その時の乳飲み子牛若が後の義経である。
by utashima | 2009-12-14 22:17 | 読書 | Trackback | Comments(0)

自宅 PC の換装時期を 2011年7月に設定

 アナログ・テレビの放送終了まで 2年を切った。私の書斎の 14型テレビ (ソニー1995年製のブラウン管方式) は、2011年7月に動作していても廃棄する方針。19型程度の液晶TV を購入しようと考えていた。録画機能を持ったテレビが良い。HD録画だけでなく、BDへの保存もしたい。

 このテレビの横には、DELL の PC (2005年11月購入) がある。この PC も 4 年使って来た。2011年7月になると、PC を 6年弱使う事になり、換装の時期である。

 今日まで、今後もテレビと PC は別々に購入しようと考えていた。今日、家電量販店に行き、パソコン売り場を何気なく歩いていた。地デジチューナーと BD 装置が付いた一体型 PC (19型) が置いてあった。NEC 製だったと思う。値段は、その店のポイントを考慮すると実質15万円を切る値段だった。PC と液晶テレビ (HDD録画とBD録画) を別々に揃えるより、廉くなる可能性がある。値段だけでなく、スペースの問題も解決する。20型位のディスプレーを2つ並べて置くスペースは無い。

 以上の検討から、2011年7月に PC とアナログ・テレビを、1つの新 PC に換装しようと思う。
by utashima | 2009-12-01 18:29 | パソコン | Trackback | Comments(0)